第一章 序①
第一章 序
どこか遠くの方で、小気味よい笛と太鼓の音がしている。
それに混じって、この界隈で名物の、神輿を担ぐ威勢のいい掛け声も響いてきた。
享保十四年八月十五日。
今日は十五夜の放生会で、八幡様の祭禮の日に当たる。
江戸三大祭りの一つに数えられる深川八幡祭のお囃子が、蜩の声と一緒に、そろそろ秋の空気を纏った海風に乗って聞こえてくる。
そんな祭の喧騒をよそに、深川蛤町にある、とある長屋の一室から、何やらパチリパチリと耳慣れぬ音が絶え間なくしていた。
昼でも陽が射し込まない、裏長屋の薄暗い室内で、一尺四方の板きれを前に、少年が胡坐をかいて座っている。
その少年は、どうやら将棋を指しているようだ。
盤の前には少年の姿だけで、誰かと対局をしている様子はない。
たった独りきりで盤を睨みつけている。
脇の路地から、お月見用のススキを商う振売の声がした。
だが少年の耳には届いていない。じっと将棋盤を見つめ続けたままでいた。
少年は名を兵助といった。歳はまだ十一で、外で遊びたい盛りのはずなのに、兵助はここ十日の間、こうやって一人で将棋盤の前でずっと頭を捻っている。
ある時は、将棋の局面が墨書きされた半紙をずっと見続けて、どうやら詰物(詰将棋)を解いているらしかった。
小半刻も経った頃だろうか。
ふと疲れた頭を休めるかのように、兵助は畳の上に大の字になった。
天井を見遣るその眼は、誰かに思いを馳せているような、そんな風にも見えた。
*
兵助が将棋を覚えたのは、いつだったかはっきりしない。
父の政五郎が言うには、三つの頃には駒を触って、五つの時にはもう指し始めていたらしい。
政五郎の生業は大工で、雨が降って仕事が流れると、よく隣に住む清三郎という若者を家に上げて、一緒に将棋を指していた。
二人とも最初は軽口を叩いているが、次第に口数は少なくなって、いつしかむっつりと黙り込んでしまう。
長い時は、一刻も盤の前でしかめっ面をしながら向かい合っている。
やがてある瞬間が訪れると、ふわっと張り詰めた空気が緩んで、二人は突然饒舌に語り出す。
そんな時、一方は頭を掻いて悔しそうに笑って、もう一方は普段見たことのないような喜びを満面に浮かべるのが常だった。
幼い兵助には、この光景がいつも不思議だった。
きっと大人たちは、この瞬間のためにこの遊びをしているのだろうと、兵助は子供心に思っていた。
たとえ苦しくとも、最後にはきっと笑顔になれる。
そんな大人たちを見ていたから、兵助がこの遊技に興味を持ったのは、ごく自然なことだったろう。
いつも父の将棋を側で見ていた兵助だから、遊び方を覚えるのにはさほど時間を要さなかった。
駒の動かし方も自然と覚えてしまったし、「詰み」の概念を理解するのもあっという間だった。将棋は玉を詰ましたら勝ち、詰まされたら負け。
この単純明快な「きまり」が、兵助にとって潔く思えた。
そんな子供時代の将棋は、誰しも勝ったり負けたりで、日々の遊びの延長に過ぎないものなはずだが、兵助にはたった一つだけ、幼年時代の忘れられない敗戦があった。
ある夏の日、政五郎と一緒に浅草の観音様へ足を延ばした時のことである。
丁度この日は南風が強く、恙なく参拝を済ませたまではいいが、汗と土埃で親子はどろどろになってしまった。もう夕景が迫る時間帯で、暑い盛りは過ぎている。
ここでひとっ風呂浴びれば、さっぱりした心持で帰途につけるといった料簡で、政五郎は湯に入っていこうと兵助に持ち掛けた。
兵助もこれには直ぐに同意した。
いつもなら町内にある馴染みの湯屋にしか行かないが、今日ばかりはたまたま目に留まった湯へと飛び込みで入ることにした。
親子でひとっ風呂浴びてさっぱりしたところで、兵助は急に、二階へ上がりたいと言い出した。
大抵の湯屋の二階は、広々とした座敷になっている。
そこに上がるには、風呂代と別に八文の追加料金が必要なのだが、兵助は湯に行くといつも二階へ上がりたがって政五郎を困らせた。
これにはとある理由があった。
座敷では、寝転んで昼寝をする者、茶を飲んでいる者、或いは本を読んでいる者などが思い思いに過ごしている。
そんな中でも、どこの湯屋にもいたのが、将棋に興じている者たちだった。
享保のこの時代、将棋は一大流行を見せていて、湯屋の二階に行けば誰かしら将棋を指している者がいた。
いつしか湯屋には、相手を求めて近隣の愛棋家が集うようになり、さながら将棋サロンのようなものだった、と記録には見える。
兵助も、湯屋には自分の相手をしてくれる人がいることよく知っていた。
勿論、大人と子供では勝負にならないのだが、多くの大人たちは、手加減をして兵助に勝ちを譲ってくれる。
だから、湯屋へ行くのは、兵助にとってはたまらなく楽しい時間だった。
この日も兵助は、父にねだって二階へと上がることができた。
初めての湯屋だったから、いつもと違う雰囲気を感じて、益々気持ちも昂ぶったに違いない。
親子が梯子を登って二階へ上がると、座敷は割に閑散としていて、腕枕で寝転んでいる者や窓際で階下を見下ろしながら涼んでいる者がチラホラ見えるくらいだった。
そして僅かに一組だけ、座敷の片隅で盤を挟んでいるのが見えた。
兵助はこの時奇妙な印象を受けた。
なぜなら、対局していた二人は、浪人風の侍と、その娘と思しき女の子だったからである。
湯屋の二階で将棋を指す者と言えば、大概町方の男と相場は決まっている。
兵助の相手になってくれるのもいつもそうである。
だが今日は、兵助と年恰好も同じくらいの女の子が将棋を指していた。
自然と、兵助はその二人のほうへと吸い寄せられていった。
父親が武士であることなど気にせず、兵助は脇から盤面を覗き込んだ。
そんな兵助に、娘のほうも興味を持ったのはまた自然であったろう。
どちらから指そうと言ったのか、或いは親同士でどんな会話がなされたのか、今となっては分からない。
いつの間にか子供同士で対局が始まり、兵助はこてんぱんに負かされた。
この時大泣きをしたことを、兵助は今でもよく覚えている。
同じ年くらいの、それも女の子に負かされたのがたまらなく悔しかったのだ。
この何気ない夏の日の出来事が、兵助の運命を決定付けることとなった。
この日以来兵助は、真剣に将棋の勉強に励むようになったのである。
ただし、兵助はまだ簡単な字しか読めなかったし、家計を考えれば高価な棋書を買って定跡の勉強をすることなどは叶わなかった。
ではどうやって勉強をしたのか。
それは詰物、所謂詰将棋の創作であった。
詰将棋の歴史は古く、慶長年間には既に詰将棋集が作られていたという。
この享保時代には市販の詰将棋集も売られていたというが、これも高価なので兵助には手に入れることはできない。
だから仕方なく、将棋盤の上で、自分で詰将棋を作って楽しんでいた。
最初は単にこれしか遊ぶ方法がないというだけの、打算的な理由で詰将棋を作っていた。
退屈しのぎに、暇さえあれば将棋盤に向かい、駒を並べてみては新しい詰物を考えた。
初めのうちはごく簡単な物を作るだけで満足していたが、三手、五手、七手と、手数が増える度に形も複雑になり、作るのにも時間がかかってくる。
仕方なしに作り始めたはずの詰将棋だったが、いつしか兵助は、詰物の創作そのものに楽しみを見出すようになっていた。
毎日毎日考えても、詰物の図案は尽きることがない。兵助は僅か八十一枡の将棋盤の中に、底知れぬ宇宙が広がっている様な気がしていた。
兵助にとって詰将棋の創作は毎日の日課のようになっていたが、それは思わぬ効果を生み出した。
詰将棋を作るためには、逃れや余詰めが無いようあらゆる手順の読みを入れる必要がある。それを繰り返すことによって、自然と読みの深さや速さが鍛えられていく。
兵助の終盤力は、知らず知らずのうちに、刀が砥石で研ぎ澄まされるが如く、鋭さを増していったのである。
古典詰将棋については、こちらのサイトが参考になります。
http://park6.wakwak.com/~k-oohasi/shougi/