前夜
七原の葬式後も、例の辻斬りは続いていた。
まだ道場に十手持ちがきてはいないが、このままでは刀を潰された甲斐がない。
犯人は道場にいる何者かである。
「陣馬先生、もうみんな集まってます」
小目録の弐篠が敷居の向こうで膝をそろえている。
「今日は紀雷先生がいませんので」
「買い物の日か」
女の必要な買い物に付き合える人物が道場にいない。知り合いの料亭の仲居に頼んで、日を決めて紀雷を連れ出してもらう手はずになっていた。
「よし、かわりに俺が見る」
午後は寺子屋と見違えるようになる。
親は旗本から町人まで。体格のよしあし、筋のいい悪い、多様な顔ぶれの子供がそろう。
先生役は帆風が一番うまかった。できないことができるようになると、本人以上に喜ぶ。
紀雷はまじめできびしかったが、よく端々まで目が届いた。これも先生役として十二分に素養があるといえる。
比べて陣馬はといえば、できることは喧嘩が起きないよう、上座を暖めながら監視することぐらいであった。
教えを請う側も慣れたもので、弐篠のような師範代の下請け、つまり経験ある者が入門者に当面必要な技術を伝授する構造が自然発生した。
健全なようだが、やはりどこでも腐敗は起こる。
弐篠はよくやっているが、仲のいい者同士で徒党を組んで、道場内にひとつの権力を築こうとしている。跳ねっ返りは、即日に叩き潰される。力のない入門者は頭を下げて、徒党に与するしかない。
弐篠は実際に腕もたつ。だが賭博の金貸しといっしょに深更に帰ってきたことも一度や二度ではない。
「よくないことだよ」とりなした帆風もこの件には頭を悩ませていた。
「俺たち三人の目が届く数をとうに超えている。風通しが悪くて、床や柱が腐ってきているようなものだ……」
「先生、お待ちしていました」
京路はまだ十になったばかりだが、よく稽古をするのに実力が伴わないところが他人とは思えないのか、紀雷がよく手元に引き寄せていた。
今では秘書のように、引き継ぎや用務を仕切っている姿を目にすることが多い。
「京路は剣より、そっちの才覚を伸ばした方がいいかもね」
帆風の評はもっともだが、本人のやる気をへし折ることはない。
陣馬が見ても稽古に手を抜いている様子はない。だが実際に同じ年頃と立ち会わせると、攻めているのに終盤失速して勝ちを奪われている。
子供に持久力がないのは当然だから、
「そのうち勝てるようになるさ」
との帆風の意見に今はしたがうしかない。
三十人分の気勢が蒸れた空気に変わった頃、紀雷が帆風とともに帰ってきたので役を交代した。
「いっしょだったのか」
帆風はあご先で陣馬を自分の部屋へ向かわせた。
「荷物持ちとしてね。たまには妹孝行もするさ」
部屋に入ると、帆風は大の字になって横になった。
道場とはずいぶんと印象がちがうが、陣馬も柱に背を預けて、投げ出した足の先をわずかに重ねてみせる。
「辻斬りは続いているな」
帆風は天井を見つめながらいった。
「ああ」
「どうするかね」
開け放した障子から風が吹き込んでくる。紙の束が上からパタパタ崩れて、机の周りに積まれた本にかぶさっていく。
「うちの問題だ。うちが片付けねばなるまい」
「やっぱりそうだよねえ」
帆風は反動を付けて起き上がると、
「たしかこのあたりに……」
とふすまを開けて押し入れの奥まで体を突っ込んでいる。
「陣馬、これを持っていきたまえよ」
そういって取り出したのは刀だった。しかし姿が現れると、その刀は
「長いな」
だが陣馬には覚えがあった。
「五世空瀬身か、それが」
「うん、手元の偽よりずっと長いだろう」
手首を返して畳に柄を立てると、鞘の先が天井をこすった。
「真景、大朽縄だ」
「大朽縄……」
蛇の名を冠するに十分な偉容である。たしかに普段使いには都合が悪い。
神社に奉納するか。褒美として下賜されるかくらいしか使い道はあるまい。
「ごらんの通り、婆娑羅気取りで大見得切って歩くには似合いだろう。これで百本斬りを釣り出す」
「釣り出す?」
「百本斬りはなんでもいいわけじゃない。いい刀、高名な刀のほうがずっと百本斬りの価値が高まる」
陣馬ははっと気づいた。
「じゃあ以前、どうして俺の刀を折っていった」
「あの時も目的は大朽縄だった。当人は偽物とはわからなかったようだがね。
とにかく名刀を折ろうとかかってきた拍子、ちょうど前に陣馬がいたので打ち合いになった。
奇襲は虚を突くのが第一。最初の一撃を防がれたら失敗だ。だから相手は去ったんだよ。
陣馬の刀は折られ損だが、辻斬りの目的ははっきりした。俺も大朽縄を餌にする覚悟ができた。
だが陣馬にはいやな思いをさせてしまった。すまなかった」
「いいのか、累代の家宝だろう」
「引き出しの中でこやしにしておいても、刀の不幸だ。折られたら普段使いにちょうどの長さになる」
軽口を聞いているが、そのまなざしは真剣だった。
帆風は常に一途だった。目的のためには手段を選ばない。
たとえ家宝だろうと例外ではなかった。
「道場の恥をすすぐため必ず討ち果たせ、とはいわない。せめて貴奴の利き腕だけでも切り飛ばしてこい」
この大朽縄が、本当に下手人を連れてくれるだろうか不安もあるが、その鞘をつかんだ瞬間、もやもやした気持ちは一陣の風に吹き飛ばされた気がした。
業物とはそういうものである。
餌を手にし、陣馬には針の覚悟ができた。狭苦しい道場の諸問題から解放された、すがすがしい一剣士の覚悟である。