ライト・ノベル
トラブルの後、久美子はマスターから「疲れてるみたいだし……頬も腫れているし、口の中も切っているみたいだから」と言われて帰らされた。
久美子は腫れた頬と手で押さえた。口の中はかなり出血しているらしく、ヌルヌルした液体が口蓋を満たす。飲み込むと金気臭い味がした。
血だ。
アタシの憎悪の副産物。
薬を買うために帰路とは逆方向の繁華街に向かう。深夜営業しているドラッグストアがあったはずだ。この世界に治癒魔法は無い。不便だ。
普段、久美子はアパートと『なかよし』の往復しかしない。久美子は、めったに歩かない繁華街を物珍しそうにキョロキョロ見ながら歩いた。怒りも痛みも少し忘れていた。
(あ、本屋だ。『実話アイアンナックル』の発売日だった。買わないと)
久美子の唯一の趣味が、発泡酒を飲みながらゴシップ雑誌『実話アイアンナックル』を読む事だった。この世界に来てからは、何もやる気が起こらず金を使う事もあまり無かった。そんな彼女の唯一の楽しみだった。
女悪魔だった時は、堕天使アゼザル様に仕えていた。彼は人間界に『不信』と『憎悪』を生まれさせ、世界を混沌に変えるのを至上の喜びとしていた。
彼に仕える彼女も、その『力』を分け与えられ存分に手伝いをした。『不信』『憎悪』『嫉妬』『怠惰』『傲慢』『性の放蕩』……人間どもが負の感情に駆られて愚かな振る舞いをするのを見るのが大好きだった。
『実話アイアンナックル』という書物には、そういった愚かな人間たちの振る舞いが克明に暴かれ、書き立てられていた。それを読むと、前の世界の幸せだったころを思い出し、自分の醜い外見や『なかよし』でのつまらない仕事を、一瞬でも忘れることが出来たのだ。
大型の書店に入り、雑誌コーナーに真っすぐ向かう。マガジンラックには『本日発売』と小さな札がついたコーナーがあり、下品なデザインの『アイアンナックル』も数冊陳列してあった。
(これこれ♪)久美子は嬉しさで気持ちの悪い笑顔を浮かべながら、ラックから一冊抜き取るとレジに向かおうとした。
(ん……レジはどこだ)初めて来た大型書店。勝手がわからない。久美子は雑誌を抱えて、棚から棚を見廻しながら歩いた。
(……なんだ?このコーナーは?マンガ……って奴のコーナーじゃないな)
久美子は、マンガっぽいイラストで満たされた書籍が積まれたコーナーの前で首を傾げた。脳内のデーターベースを探る。
(あぁ、『ライトノベル』『ラノベ』っていうジャンルの書籍か)
久美子にとっては何の興味も無い。書棚の下段に平積みされたカバーを眺めながら通り抜けようとした瞬間。足が止まった。
(ちょっと待て)
衝撃を受けた。平積みされた書籍のタイトルを見た瞬間、彼女の心の中に一条の光が差した。
前の世界に帰れるかもしれない。
(『異世界に行った俺が○○した件』『異世界でエルフのハーレムメイトつくっちゃいました☆』『異世界とオレとエルフな花嫁』『異世界 ドラッグストア奇譚』『異世界で俺と姫騎士が交換日記したら』……異世界異世界……異世界だらけだ!戻れるのか?送還魔法はこの世界にもあるのか?!想像だけで、これだけの書物があるはずは無い!実話だろコレ!帰れるんだ!このゴミ溜めみたいな世界から!)
久美子は興奮すると書棚の端にあるプラカゴを持ってくると、平積みされている書籍をタイトルも見ずに片っ端から放り込んでいく。
「兄ちゃん、レジはどこにあるんや?」
カゴに本を放り込む鬼気迫る表情の彼女を、怯えた顔で見つめていた愚かそうな男子高生。彼女は彼に声を掛けた。
「あ……あっちです」
瘤取り爺さんのように片方の頬を異様に腫れあがらせ、口を開けば黄色い歯がまだらに赤い血で染まっている幽鬼のような痩せた中年女性。そんなクリーチャーに声を掛けられた少年は怯えた表情で、棚の向こうを指差す。指は細かく震えていた。
「ありがと」彼女はニヤリと微笑むと、彼の肩を軽く叩いた。
男子高生は失禁した。