8.拒絶
「先生は高いところが好きなんですか?」
「は? 何だ急に。というか津村、お前ちゃんと寝ていろ。まだ顔色悪いから」
「大丈夫ですよ」
ぼんやりとした意識の中、懐かしい言葉が巡ってくる。
日本語を聞いたのは何年振りだろうか、もうずっと聞いていなかった言語。
遠い過去の、懐かしい記憶だ。
「だって先生って何でも読むけど、飛行機とか東京タワーとか、展望台とか、そういう関係の本が多い気がするんです」
「……よく見てるな」
「私って他の人より保健室に来る機会多いから気付いちゃったんです」
「……そう、か。その体質、改善すると良いな」
松木はよく人を心配し、ころころと表情を動かし世話を焼いてくれる“良い人”だったとメイリアーデは記憶している。
本好きで図書室に籠ることもあったが、決してインドア派なわけではなく、旅行が趣味だと言ってあちこちに飛び回っているような人だった。
旅行先の話や本で知った知識など、松木はよく芽衣に話してくれた。
体が弱く普通のように生活が上手くできていなかった芽衣。
落ち込んだ時、苦しんだ時、松木自身が見聞きした話をきかせ世界はもっと広いのだと伝えてくれた。
気持ちを内側に向かせることはない、この世界には多くの可能性が広がっている、希望を捨てるのはまだ早いぞと、ずっと励ましてくれた松木。
前世で津村芽衣が明るさを忘れず前向きに生きてこられたのは、松木の存在なしには語れない。
自分を救ってくれた先生だからこそ、自分もまた松木を救える存在になりたい。
いつだったか、芽衣は強くそう思った。
だから例えば想いが届くことがなかったとしても、芽衣は諦めきれなかったのだ。
別れの日が来ても繋がっていたくて、いつか彼に相応しい自分となって胸張って会いたいと願って、約束をした。
……約束?
ふと、メイリアーデは思い返す。
メイリアーデが持っていた記憶の中に、彼と交わした約束など存在しない。
津村芽衣としての記憶は、松木にきっぱり振られた場面で終わっている。
その後のことも、その時の気持ちのことも、思い出した事はなかった。
「先生。私……」
メイリアーデの中にはまた言った覚えのない台詞が流れ込む。
その続きが何なのか、自分自身のことなのに分からない。
何だろうか。
何かとても……、とても大事なことな気がする。
そう思うのに、思い出したいと強く願えば願う程目の前は白くぼやけていく。
何か強いものに引っ張られ、意識が遠ざかっていくのが自分でも分かる。
結局、その中身をメイリアーデが思い出すことはなかった。
「メイリアーデ様、おはようございます。お支度はお済みでしょうか」
「おはよう、ナサド。入って大丈夫だよ」
「失礼致します」
ナサドは今日も変わらない。
無表情で淡々と仕事をこなす。
つい先程まで前世の記憶を思い返していたからなのか、その違いはより大きく感じた。
15歳。
津村芽衣が松木と出会った年齢にメイリアーデもなった。
だからなのかもしれない、こんな風に前世を頻繁に思い出すのは。
……いい加減、前世の影を追いすぎることはやめた方が良いのかもしれない。
津村芽衣の人生は確かに終わったのだ。前世の記憶は切り離して、メイリアーデとしての人生を送るべきなのかも。
そう何度もメイリアーデは悩む。
松木の顔とナサドの顔のどちらが彼の素に近いのか分からないが、メイリアーデにとってはどちらも大事な存在だ。
松木と過ごした記憶よりもナサドと過ごす時間の方がすでに多い。松木の面影を密かに追いながらも、しかしナサドとして生きる彼の良さだってメイリアーデは理解してしまった。
口数が多い方ではないが、必要な時にはちゃんと手を差し伸べてくれるところ。
少し堅すぎるくらい真面目だけど、いつだって龍人に敬意を払いこちらの気持ちを尊重してくれるところ。
松木とは微妙に違うけれど、それでもナサドは決して冷淡な人物ではなかった。誠実で信頼できる人柄であることを、この3年でメイリアーデは知っている。
表情や口調が違うだけで、おそらく松木もナサドも根本は同じなのだろう。
だから無理に彼の事情に突っ込んで笑顔を無理矢理引き出すのはいけないことなのかもしれない。
そう思うようにもなった。
しかし、それでもメイリアーデはどうしたって松木の存在を切り離せないのだ。
松木に未だ恋をしているのかすら、メイリアーデには分からない。ぐるぐると考えは絡まり八方塞がりだ。
「ねえ、ナサド。ナサドは高いところ、好き?」
「は……、と言いますと」
「……なんとなく。ごめんなさい、何でもないの」
思わず問いとなって出てきてしまった言葉にメイリアーデは首を振る。
自分の気持ちが定まらないのに中途半端に過去を引き出すのは駄目だ。
そう思い、メイリアーデはへにゃっと笑って話を切った。
しかし、ナサドは少し考え込む仕草を見せた後に小さく反応する。
「……好きですよ」
「……え?」
「広く視界の開ける場所は、気持ちが良いですから」
彼自身の嗜好を初めて耳にしたメイリアーデは軽く目を見開いた。
ナサドの表情は相変わらずで、声も淡々としていて、しかし本当にわずかに目元が柔らかい。
この3年で読み取れるようになった彼の表情の変化に、思わず頬が熱を持っていく。
ドクドクと心臓を強く鳴らすこの原因がどこにあるのか、まだ自分自身でもはっきりとしていない。
誤魔化すように、大きく声をあげた。
「そ、そっか! ナサドも仲間だねっ、私も大好きでね、だから高いところを飛ぶことのできる兄様達が羨ましいなって!」
バタバタと手を振りながらテンション高く返事するメイリアーデ。
ナサドは「そうですか」と変わらずのローテンションで、メイリアーデに相槌をうつ。
自分だけいっぱいいっぱいになっている現状が尚更恥ずかしくなり、メイリアーデの顔は赤みを増した。
湯気でも出てきそうなほどに顔が熱く、思わずその場にうずくまるメイリアーデ。
今の今まで必死に自分を抑えナサドの前では大人しくしていたのに、一度緩むとどうにも抑えきれない。
いつだってナサドの前では大人の女でいたいと思うのに、上手くいかない。
そんなメイリアーデの様子をどう解釈したのか、ナサドが近くまでやってきて膝を付き覗き込んできた。
ただでさえ落ち着いていないメイリアーデの心臓がなおさらうるさく鼓動する。
「メイリアーデ様、どこかお加減が悪いのですか。顔色が」
「な、なんでもないの! その、ほら、私だけ興奮して恥ずかしくなってしまっただけっ」
「しかし」
「だ、大丈夫だから」
……松木とまるで同じような反応だ。
いっぱいいっぱいになる頭の片隅でメイリアーデはそんなことを思う。
松木もこうして心配性でよく必要以上に心配してくれる人だったと思い返す。
「……ナサドって、けっこう世話焼きだよね」
ボロリと思わず声にして出てきたその言葉に、ナサドは小さく目を揺らした。
「申し訳ございません。ご不快でしたか」
そうして表情に色を失くし頭を垂れる姿は、松木とは似つかない。
……昔を思い出していたからだろうか?
それとも、松木との共通点をまたひとつ見つけたからだろうか?
メイリアーデの中に、松木とナサドの関係性を知りたいと思う欲が膨れる。
これほど事実を知りたいと強く思ったことはなかった。
だから、声があがったのはほぼ勢いだ。
「それがナサドの素の部分ならば、私は嬉しい。不快などではないわ」
「……メイリアーデ様のお気持ちに感謝致します」
「ねえ、ナサド。貴方どうして表情をいつも抑えているの? 本当の貴方はきっと」
「メイリアーデ様」
しかし、ナサドは最後まで言わせてはくれない。
そしてハッと我に返り言葉を切ったメイリアーデをナサドは下から真っすぐ見つめる。
「メイリアーデ様がお気になさる必要はございません。私はメイリアーデ様に快適にお過ごしいただくためだけに存在する僕です。お心を煩わせてしまったのならば、誠に申し訳ございません」
それは、今までにないほどに強くきっぱりとした言葉だった。
丁寧な言葉に包まれた、明確な拒絶。
「ナサド」
「……そろそろお時間です、メイリアーデ様。龍誕祭へ向かうご準備を」
淡々と表情を一切消して元の従者の姿へと戻ったナサド。
メイリアーデはその変わり様にショックを受け、その場でしばらく呆然としてしまった。