7.主従関係
メイリアーデの専属従者にナサドを選ぶ。
それはメイリアーデがイェランから告げられた10日後に正式に承認され発表された。
イェランには、それまでナサドの直属として働いていた近衛騎士が専属に昇格して付くこととなる。
表立って反対する声はなかった。
粛々とナサドがメイリアーデ付きになる準備は進められ、環境が整えられていく。
しかしその裏で、前例のない事態に誰もが驚き貴族達が騒然となっていることを王家は皆承知していた。
それでもナサドをメイリアーデに付けるという意見には兄達全員が賛成だというのだから驚きだ。
「ナサドなら良く仕えてくれるだろう。真面目な男だからな」
そう言ったのはオルフェル。
「僕も良いと思います。メイもナサドに懐いていましたし」
そう言ったのがアラムトだ。
イェランの意見は言わずもがな。
龍王は、息子達の言葉に押されるようにして頷いたという。
母も特にナサドについては思うこともないらしく、一切を父に任せている。
ただ一人、メイリアーデだけが状況を呑み込みきれていなかった。
イェランの言葉を全て鵜呑みにするわけではないが、確かに龍貴族の中には野心家で己の地位を築くためだけにより良い主に仕えようと動く者がいる。主を出世のための道具のように利用する貴族がいるのは事実だ。
しかし、そうではない貴族だって多くいることをメイリアーデは知っている。
メイリアーデだけではない。イェランはともかくとしても、人と良好な関係を築いているオルフェルやアラムトだって理解しているはずだ。別にナサドを無理して推す必要は感じない。
それなのにその2人さえもナサドを強く推していることに強烈な違和感を覚えていた。
オルフェルとイェランの関係性が複雑であることをすでにメイリアーデは知っている。
メイリアーデの動きでさえ、その派閥に影響を与えうる要素となることもうっすら気付いている。
今回ナサドがメイリアーデに付けば、確実に貴族達の中で話題に上るだろう。
メイリアーデはイェラン派に組み込まれた、と。それが本人の意志を無視したものだったとしてもだ。
正直リスクしかメイリアーデには感じなかった。
そして、12歳のメイリアーデですら分かるそんな構図を兄達が分からないわけがない。
それでもなおこの状況を選んだその意図が何なのか。
答えは出ないままに、とうとうその日はやってきた。
「本日より正式に姫の身の回りを仰せつかります。精一杯勤めますので、なにとぞよろしくお願いいたします」
目の前でナサドはそう言って膝をつく。
深く頭を下げ礼を尽くす彼の姿は洗練されていた。
……松木先生。
まだ色々と呑み込めていないメイリアーデは心の中でそう呟く。
訳の分からない不安と、複雑な自分の経歴と、かすかに流れる過去の記憶。色々と混ざり合って上手く言葉が出てこなかった。
しばらく沈黙が続き、それでもナサドは姿勢を崩さない。
メイリアーデから言葉が出るまで、静かに待っている。
だからナサドに気付かれないよう静かに息を吐き出し、頭の中でぐるぐると回る疑問を溶かした。
考えたいことは山ほどあったが、だからといって今それをぶつける相手が彼ではないとメイリアーデなりに分かっていたからだ。
「頭を上げて下さい、ナサド。こちらこそ、よろしくお願いします」
「はっ」
メイリアーデの言葉に反応して、ナサドの頭がゆっくり上がる。
様子を伺いながらその場に立ち上がったナサドのその顔は、いつもと変わらない無表情だ。
この世界に転生してから、もはや慣れたと言える程によく見る表情。
その原因をメイリアーデは知らない。
それでも、彼が決して笑えないわけではないことをメイリアーデは知っている。
理由を知りたいと、そう思ってしまうのは自分の我儘なのだろうか。
それすらもメイリアーデには分からない。
ナサドは自分のことをどう思っているのだろう。
仲の良いイェランから離されこんな子供の自分に仕えることに不満は無いのだろうか。
前世の想い人で、今でも心の奥に残る憧れの人。
どう頑張ってもメイリアーデからナサドや松木は切り離せない。
しかし、そんなことを本人に言う勇気はメイリアーデにはまだない。
わずかにナサドの顔がいつもより強張っていると気付いてしまっても、そのことを突っ込むことはできなかった。
……今は自分のするべきことをしよう。
前世とか、そういうものに惑わされないように。
いつだか自分で決めた、龍人として恥ずかしくない存在になれるように。
それこそ、いつか告げるときが来るならばその時は少しは誇れるようになっていたいから。
メイリアーデは、そう心を切り替えるしかなかった。
「私、ラン兄様ほど頭よくないしまだまだ子供です。たぶん迷惑をかけることたくさんあると思うけど、駄目なことをしたときはちゃんと叱ってください」
自分の中にある気持ちや疑問はとりあえず押し込んで告げる。
今なすべきことは、おそらく早く龍人として自立すること。
そう思ったからそのままに告げれば、ナサドは小さく目を見開いた。
メイリアーデの言葉が予想外だったのかもしれない。
「姫は龍国の宝でいらっしゃいます。迷惑などと、そのようなことは決してございません」
静かに、諭すようにナサドは言った。
おそらく従者に対して主を叱れと言ったことが彼の気にかかったのだろう。
そこまでへりくだる必要はないと、そう感じたのかもしれない。
この世界における龍人は絶対的な存在で、全てが是とされるような存在であることは知っている。
だからそういった言葉になるのも何となくだが分かった。
しかし、メイリアーデは首を横に振る。
この世界の龍の存在がどれほどのものかは知っているが、それを全て受け入れられるほどメイリアーデはこの世界の価値観に染まってはいないのだ。
前世の、日本人として一般人として過ごしたかすかな記憶があるからこそ、全てを割り切ることは難しい。
そしてそれを否定してしまったら、それこそメイリアーデのアイデンティティーも失われる気がした。
「これは私のわがままだよ、ナサド。兄様達にがっかりされるような私にはなりたくないの」
「姫」
「ラン兄様に長く仕えていたナサドなら、龍人が何を求められているか分かるよね? お願い、教えて欲しいの。それを正しいと思うかどうかは、ちゃんと自分で決めるから」
おそらく、そのあたりがギリギリの譲歩ラインだろう。
そう思いメイリアーデはナサドを見つめる。
本当は、兄達に失望されたくないだけではない。
人に嫌われることだってメイリアーデは怖いし、騙され利用されるのも嫌だし、何よりナサドに呆れられたくない。普通の人間と変わらずメイリアーデの心は欲にまみれている。
龍人を敬い必死に手を振って歓迎してくれる国民の笑顔をみたい。その気持ちもまた嘘ではないが、本音はひどく利己的な理由だった。
そんな自分に必要なのは、おそらく客観的に自分を見てくれる人。
甘やかしてくれる家族は大好きだが、それに甘んじている自分では駄目だともメイリアーデは思っていた。
家族で仲良く暮らしたい。
ナサドを笑顔にしたい。
国民たちにも笑っていて欲しい。
それだけ多く望む自分が、龍人の姫という立場に胡坐をかいているわけにはいかない。それだけは分かる。
『お前なあ、自分の友達が暴走してたら止めてやれよ』
前世で、松木はそうやって芽衣をよく窘めてくれた。
気さくで親しみやすい先生だったが、松木は駄目なものは駄目だときっぱり言ってくれていたのを確かに覚えている。
そういうところを芽衣は信頼していたし、だからナサドに対してもメイリアーデはそういう点において信頼できると思っている。
その思いのままに、メイリアーデは真っすぐにナサドを見つめ頭を下げた。
「お願いします。私に力を貸して」
きっぱりと告げれば、続いたのは沈黙。
頭を下げているから、メイリアーデからナサドの表情を知ることをはできない。
どれほど時間がかかったのか、妙に緊迫した空気のせいで感覚は鈍かった。
しかし、小さく側で息を吐き出す音が聞こえ気を持ち直すメイリアーデ。
「……主は頭を下げてはなりません。堂々と命じれば良いのです」
やがて聞こえてきたのは、メイリアーデを叱るというよりは諭すといった方が近いようなそんな声色の言葉。
ハッと顔を上げれば、目の前でナサドはやはり無表情のままメイリアーデを見つめていた。
しかし、その顔から強張りが抜けていることにメイリアーデは気付く。
「姫のお気持ち、承知致しました。姫のお役に立てますよう、誠心誠意尽くして参ります」
また深々と頭を下げたナサド。
生まれた時から変わらないその生真面目さと、前世のあの気さくだった松木は中々結びつかない。
言葉遣いも、所作も、表情だってあの頃とは違う。
けれど、メイリアーデの言葉に沿い意見を尊重しながらも、しっかり自分の意見を言ってくれるその姿勢は変わっていないとそう感じた。
ナサドのどこか奥底に松木の存在が確かにある。
そう思うと、ほっと安堵した。
そしてここまできてやっと、メイリアーデの肩から力が抜けたのだ。
「あと出来れば名前で呼んで? あのね、正直姫って呼ばれるの恥ずかしくて」
「かしこまりました、メイリアーデ様」
「……名前で呼ばれるのも何か照れ臭い」
「大変素晴らしいお名前と存じますが」
「……色々、色々あるんです」
メイリアーデとナサドの主従関係は、こうして始まった。