5.見守る者(sideナサド)
前世との完全な別れが迫っている。
それを自覚したメイリアーデは、しかしナサドの想像よりはずいぶん穏やかな様子で帰ってきた。
『また1人で抱えようとしたわね』と、そんな拗ねた声をあげながら。
どうにも本人に言えなかったメイリアーデの変化。
相変わらずメイリアーデは自分に対する美化が過ぎるとナサドは苦笑する。
メイリアーデを守るために黙って見守ったと、なぜだかメイリアーデは確信しているようだった。
しかしナサドの本心はもう少し複雑だ。
メイリアーデに余計な動揺を与えたくないという気持ちは確かにあった。しかしそれ以上に自分は。
ナサドはその思いこそ飲み込み首を振る。
「ん……、ナサド」
「……お休み、メイ」
想像よりも穏やかとは言え当然メイリアーデが何の傷も負わないわけではない。
どうしようもないと分かりながらやはり寂しいのだと泣いたメイリアーデが疲れて意識を閉ざしたのはつい先程のこと。
目元の腫れた部分をそっと冷やしてやりながら眠りについたメイリアーデをしばらく眺め、ナサドは部屋を後にした。
「やはり来たか、ナサド」
「……何してるんだイェラン、こんな時間に」
「さあ、何でしょうね松木先生」
「野村……情報源はお前か」
向かった先は“いつもの場所”。
ナサドが1人で頭を落ち着けたいときに決まって訪れる中庭の一角だ。
いつもならば人気のない静かな場所に先客がいた。
ナサドにとって義兄夫婦であり、友人であるイェランとユーリ。
長年の付き合いだから、お互いのことは最低限の会話で分かってしまう。
照れが勝り渋い顔をするナサドに、やはりイェランとユーリもいつも通りの仏頂面と笑顔をそれぞれ浮かべていた。
「先生、メイリアーデ……大丈夫?」
「大丈夫だよ、野村が傍にいてくれたお陰だ。ありがとな」
「……あいつは」
「疲れて眠ってる。溜め込むよりずっと良いさ」
「お前の言えた言葉じゃないな」
「イェランにだけは言われなくないがな」
「素直一番な私からすると、どっちもどっちですよ?」
「……お前は直線すぎだ」
「やだ、褒められた」
「はは、相変わらずだな本当」
軽口を叩いて息を吐き出す。
相変わらずナサドに少し過保護な友人達は、こうしてナサドを気にかけここぞと言うときには必ずやって来る。
素直にお礼を言えないあまのじゃくな自分が顔を出して、やはり随分甘えているなと苦笑した。
「お前は大丈夫なのか」
「大丈夫だよ、本当に」
「の割に随分不安そうだが?」
「……まあ、それは少しはな」
「少し、ね」
含みを持たせたイェランの言葉にやはりナサドは苦笑を重ねる。
どうやらこの敏い友人には何もかもお見通しのようだ。
「これくらいは強がらせてくれ。無理はしていない」
内に渦巻く不安を隠さず、しかしナサドは結局それ以上語らない。
いや、語れなかった。
枷になってしまわないだろうか、だなど。
芽衣の記憶を完全に失い本来のメイリアーデになった時に、メイリアーデは一体何を思うだろうか。
死してなお“松木”を愛してくれた芽衣の心や執着が消えても、メイリアーデはナサドを心から愛する番と思ってくれるだろうか。
前世も何も関係ないただの元従者を、番にしてしまったことに後悔し苦しまないだろうか。
メイリアーデが与えてくれた愛情を、ナサドは疑わずに信じられる。
芽衣に対してだけではない、メイリアーデに対する自分の愛情もまた疑う余地はない。
それでもどうしても付きまとう不安は、中々消えてはくれなかった。
どこか最後まで対等になりきれないのも、遠慮してしまうのも、しつこく巣食っている不安が原因なのだろう。
「……覚えているか。メイリアーデが津村の生まれ変わりだと初めて知った後お前らが2人きりになった時を」
「なんだ急に。覚えているが」
「お前はあいつに、過去がどうあれメイリアーデがメイリアーデである限り忠誠を尽くすと誓ったそうだな」
「それが何だ」
「あいつはそれを喜んでいたぞ。津村芽衣ではなくメイリアーデとして扱ってくれたことが嬉しいと」
「……は」
「あいつがお前を番に望むと明確に意思表示したのはそこからだ。“メイリアーデ”としてお前が必要だと自覚したのもな」
ああ、やはりイェランには全て見抜かれてしまっている。
何も口に出していないというのに的確な言葉でナサドの心を軽くした。
ナサドは「ありがとう」と心で唱える。
相変わらずこの夫婦に隠し事は難しい。
閉ざしていた想いが少しこぼれて言葉になった。
「何かを疑っているわけではないんだ。ただ、俺はこれ以上重荷にはなりたくない」
「まだ言うか」
「言うさ。メイリアーデ様にはいつだって幸せに笑っていて欲しいんだよ。前世の分まで、末長く」
「ナサド」
「……もう手離してはやれないんだ、どうすればそれが叶うか考えていたら少しな」
目の前でイェランとユーリが揃って目を見開く。
そうしてプッと吹き出したのはユーリの方だ。
「なんだ、ただの惚気か。砂吐きます、ラン様?」
「……ネタにするな」
惚気たつもりは断じて無い。
ナサドにとってはそれなりに切実な悩みだ。
それを見てユーリの笑みは深くなった。
慈愛に満ちた、昔彼女が高校生の時では見られなかった表情。
「ねえ、先生。私は嬉しいんですよ、ものすごく。だって先生のその悩みはとても前向きなものだから。芽衣も……メイリアーデも、悲しそうには笑わなくなった。昔どんなに願ったって叶わずいたそんな小さなことが今は当たり前で、だから私は嬉しいんです」
「野村」
「大丈夫。きちんと先生はメイリアーデを幸せに出来ているし、メイリアーデは先生をきちんと愛しています。例えば芽衣の記憶が目に見えないものになったからといって、2人はきちんと芽衣の想いを抱えて幸せになれる」
だから大丈夫。
明るいだけではない優しい言葉にナサドは息をのむ。
しかしその雰囲気をいつまでも保たないのがユーリらしさだろう。
バシンと強くナサドの背を叩いた。
「全く! 先生もメイリアーデもお互いを大事にしすぎて相手のことばっかり考えるんだから! 似たもの夫婦だなあ!」
「……野村、おま、少しは手加減ってものを」
「何を、元武人がか弱い女の子の平手くらい何てことないでしょう? 激励です、激励」
「か弱くはないだろう……、お前は十分頼もしいよ」
「え、褒めてます?」
「複雑だが、褒めてはいる」
「え、何で複雑」
「……ありがとう。もう野村を生徒とは言えないな」
「ふふ、友達に格上げしましたか、そろそろ」
「とっくにな、大事な友だと思っている」
「え……、え!? ちょ、ら、ラン様!! 天変地異!!」
「……今更気付いたのか、お前」
喜怒哀楽、はっきりと表に出すユーリ。
驚いたように声をあげてイェランに縋る様子に、ナサドは声をあげて笑った。
呆れたようにユーリを眺めるイェランの表情もまた柔らかい。
日本に行ったことでもたらされたもの。
罪を犯し辿り着いた先で出会えた大事なものが、ここにもある。
だから間違いだらけだった自分の過去も全否定は出来ないのだ。
例えば苦い思い出も、そのおかげで抱えている悩みも、過去に犯した間違いすらも受け入れ前に進む糧となる。
「ナサド。お前自身はどうなんだ」
「どうって何が」
「お前は幸せか」
そうして問われたイェランの言葉に、ナサドは目を見開いた。
一体何を問われているのか分からず数秒固まる。
幸せかどうか。
そんなことなど考える余地もなかった。
ナサドにとってそれは考えるまでもなく当然のものだから。
そうしてナサドは気付くのだ。
ああ、孤独ではないと。
幸せなのだと、当たり前のように思える。
断言できるほどに、ナサドは甘やかされていた。
頼る先を、愛を注げる場を、使命を果たせる場所を、見付けたのだ。
正しく縁に出会えた。
「幸せだよ。これ以上何を願えば良いのかと悩むくらいには」
笑んで答えたナサドに、イェランもほっとした様に笑う。
イェランにとってナサドの幸せは果たすべき使命だったのだろう。
どれほどこちらの勝手に付き合わせただけだと言ってもイェランは首を縦には振らなかったから。
イェランは、自分の事情に巻き込まれ被害を受けたナサドを守ろうと必死に動いていた。
ナサドは一度だってイェランに巻き込まれたなどとは思っていないし、逆に巻き込んだのは自分の方だと思っている。
しかしイェランがひたすらに義理堅い人物であることを、ナサドは知っていた。
深く関わりを持ったナサドを放っておけるような性格ではなく、仏頂面とは裏腹な情に厚く面倒見の良い一面を知っている。
敬愛する元主であり、気の置けない友であり、今は共に龍国を守っていく同志のイェラン。
そうして昔から今もずっと寄り添ってくれた。
そういう人と出会えたこと、こうしてイェランに心を預けてもらえる自分のこともナサドは誇りに思う。
……イェランを少しは解放できただろうか。
ようやく自分達は本当の意味で対等な友人になれたのかもしれない。
過去を乗り越え、互いに互いを支え合えるようなそんな仲に。
イェランの素直な笑みを見つめ、ナサドもまたほっと息をはく。
そうしてイェランはさらにナサドに問いかけた。
「龍として生きる今に迷いはないか」
返事などナサドには決まっている。
即答だ。
「何故そんなことを聞く。あるはずがないさ」
「だそうです、兄上。頼ってみてはいかがですか」
そしてイェランは視線をナサドの後ろへと移した。
一体何の話だと問おうとしたナサドは、はっと振り返る。
イェランの視線を辿れば、少しだけ遠くの方に影がひとつ。
そこにいたのはナサドが尊敬してやまない王太子だ。
分かりやすくナサドは固まった。
いつからそこに。
一体いつから会話を聞いて。
頭に浮かんだ数々の疑問、当然言葉には出てこない。
憧れが強すぎるが為に多少猫すら被ってしまっていた相手がそこにいる。
突如湧き立つ様々な感情の行き場に困り、ナサドはひっそりとイェランの足を踏み潰した。
当然オルフェルの視界には映らぬ角度で。
「っ、ナサド……! お前……っ」
「うるさい。ふざけるな。人を騙して楽しいか。二重人格だと思われたらどうする」
「兄上前にして優等生ぶるお前が悪いんだろうが」
「お前も大して変わらないだろう」
「お前ほど酷くない、お前が裏表激しすぎるんだよ」
決して他には届かない小声で、それも超高速で喧嘩をする。
唯一聞こえているユーリは呆れ顔だ。
ああ、いつから聞いていたのか分からないが酷い言葉遣いを聞かせてしまった。
龍人相手に粗雑な言葉を使った自分を、オルフェルは嫌がっていないだろうか。
恐ろしくなってオルフェルの方を見ることが出来ない。
そうして半ば八つ当たりのようにイェランを睨みつければ、オルフェルの方からもう一つ陽気な声が響いた。
「あはは、本当仲いいねラン兄上とナサドは! 面白いなあ、普段からそういう感じで良いのに!」
「……アラ、ムト……殿下」
ああ、あろうことかアラムトにまで見られてしまった。
ナサドの緊張はそれだけで一気に跳ね上がり、頭が真っ白に弾けとぶ。
「……イェラン、やはり他にやり方を考えた方が良かったのではないか。ナサドが不憫だ」
「ええ? 良いじゃないですか、オル兄上。これくらいしないとナサドの鉄壁は崩れませんって」
「それより何故お前がここにいるムト」
「うわ、僕だけ仲間外れにしようったってそうは行きませんよラン兄上。こんな面白そ……大事なこと部外者でいるつもりは無いので」
「……いま面白そうと言わなかったかお前」
「す、すまぬイェラン。少々心配でな、私がアラムトにも相談したのだ」
ナサドのショックをよそに龍王子3名は軽口を叩き合っている。
当然ながらナサドは顔を上げることが出来ない。
イェラン相手には長年の付き合いもあって口調も何も素のまま語れる。
しかしオルフェルやアラムトもとなれば話は別だ。
根本的にナサドの龍王族に対する尊敬は少々異常なほどに強い。
同じ王族になったからといって、そうすぐに対等な関係性になどなれるはずもなかった。
……すぐにと言うには既に10年以上経ってはいるが。
まだまだナサドがそういった面で慣れるには時間がかかりそうだ。
がっつり固まり言葉を失ったナサド。
がっつりイェランの足を踏んだまま、綺麗な石像のように動かない。
バシンとイェランがナサドの頭を強く叩いたのは次の瞬間だった。
いい加減慣れろと言いながら、叩いた手でナサドの頭をガシリと掴み視線を無理やりオルフェルに向ける。
要するに焦れたということだろう。
「い、イェラン。そなたいくらなんでもそれは粗暴すぎるのでは」
「これくらいしなければこの者はいつまでも固まります」
「しかしだな」
「それより。先ほどお聞きになられた通りナサドには十分龍人としての心構えが出来ております、無理をしているわけでは無いとも分かったかと思いますが」
「……ああ、確かに聞いた。ナサドの言葉を私は嬉しく思う」
「ならば良いのではないですか、ナサドを頼っても。それを重荷とはこの者は思いはしない」
そうして流れた沈黙に、ようやくナサドは我に返った。
はっと届いた言葉を反芻してオルフェルを見上げる。
どこか迷ったように、しかし真っすぐナサドを見つめるオルフェルの視線を受けてナサドはようやく声を出すことに成功する。
「何かございましたかオルフェル殿下。もしや私にお役に立てることが」
そうして問えば、次に返って来たのは苦笑だ。
「変わらぬな、そなたは。出会った頃より変わらぬ。お陰で私の自尊心は随分と救われた」
「……っ、そのような。身に余る光栄です」
「すまぬな。そなたはいつもそうして私の願いを全て叶えるため全力を出してくれるものだからこれを頼めば無理を強いてしまうのではないかと頼むに頼めなかった」
「は……」
「先にメイリアーデに相談しようかとも思ったが、メイリアーデはメイリアーデで今大事な時期のようだ」
「ああ、オルフェル様それで今日女子会に。てっきりセイラ姉様と一緒にいたいだけだと」
「……否定はせぬが、主題はこちらだった。メイリアーデ以外ではイェランが親しいだろう、だから代わりにと相談すれば場を設けるからここに来てくれと案内されてな。すまぬ、そなた達の会話を盗み聞きするつもりは無かったのだ」
「ナサド、一応僕からも弁解しておくけど、オル兄上は何度も盗み聞きを辞めようとしていたよ? ラン兄上と僕が引き留めてただけだから責めないであげてね」
「……その、なぜアラムト殿下は引き留めを」
「あはは、こんな機会滅多にないじゃない?」
「つまりお前は全力で盗み聞きしに来てたと。ムト、お前な」
「ラン兄上だって黙殺していたのだから同罪ですよ。まあ良いじゃないですか、そろそろナサドとの距離も詰めたかったし。10年だよ? どれだけ忍耐強いわけ、君」
話が逸れに逸れる。
それでも温かな空気にナサドはついに笑ってしまった。
ああ、本当に自分は幸せ者なのだと、そう思って。
これほど甘やかされて良いのだろうかと思いながら。
ようやく心が落ち着く。
「オルフェル殿下。私にお役に立てることがございましたら、何なりと仰って下さい。王家の皆様に頼られることはこの上なく幸せです」
本心から告げれば、オルフェルが苦笑した。
敵わぬと、なぜだかそんな勿体ない言葉を頂戴する。
そうして告げられた相談に、今度はナサドが苦笑する番だ。
どうやらこれはもうそういう巡り合わせなのだろうと、密かに思う。
「それとな、これは相談というよりもただのお節介なのだが」
「はい、何でしょうか」
「良ければメイリアーデにもイェランのように気安く話してやってくれ。憧れているようだからな。ただの兄馬鹿で申し訳ないが」
「……はい」
力の弱いナサドの返事に、オルフェルはまた苦笑した。
そうすぐには難しいかと付け足して。
その言葉にナサドは首を振る。
隠すことは、もう無理そうだ。
「私の中の問題なのです。後少し、なのですが」
「……そうか。答えは見つかりそうか」
「はい。今はそう思っています」
即答できる自分が嬉しい。
目を細め笑うオルフェルの、おそらくは家族にだけ見せる笑み。
多くに見守られているのだと、そう理解してナサドの頭は自然と下がる。
「ありがとうございます」と告げれば、やはり皆揃って苦笑した。




