憧れた背中
「そなたがナサドか。ようやく会えたな、初めまして」
「お、お初にお目にかかります。リガルド家長男、ナサドにございます」
「はは、そう緊張せずとも良いが立派な挨拶ありがとう。よく来た、ゆっくりしていってくれ」
ナサドが初めて王宮に上がったのは12歳になったばかりの春のことだった。
龍国内でも名門中の名門であるリガルド家、その長男として慣例通り挨拶に上がったのが初めてだ。
その時のナサドは憧れの龍人を前に大層緊張していたのを覚えている。
なにせ初めて龍を目にしてから5年もの歳月を経て果たされた対面だったのだ。
父親に手を引かれ初めて訪れた龍誕祭のことがナサドは忘れられない。
大空を舞う鮮やかな赤の龍、ひたすら高く大きなその姿に一瞬で目を奪われた。
散々本で調べたはずの知識は本物を前に何の役にも立たない。
飛び立つ時の力強い風、空を切る翼の音、しなやかに空を泳ぐその体躯、何もかもがナサドの想像をはるかに越えていたのだ。
ただただ圧倒され、言葉も発せず、自分達とはまるで違う奇跡の存在なのだと本能がナサドに教えた。
ナサドに龍のすごさを初めて示してくれた龍人、それが龍国王太子オルフェルだ。
憧れの存在を前に、膝が自然に折れて地に着き、頭は誰に言われるでもなく深く下がった。
畏れ多いという言葉の意味を、わずか12歳にしてナサドは知る。
「そう固くなるなナサド。そなたに会えることを楽しみにしていた、出来るならば本来のそなたを見せてくれ」
「は……、楽しみ、に?」
「ああ。とても聡明だと噂は耳にしていたが、どのような者かと思っていたのでな。さすがイグニル自慢の息子なだけはある、そなたの将来が楽しみだ」
緊張で吐き気すら抱えていたナサドを前にオルフェルは朗らかに笑った。
その大きな手でカチコチに固まるナサドの頭を柔く撫で、心底楽しそうに声をかけてくれる。
龍型の時に感じた圧倒的な存在感はそのままに、けれど本人はその立場に甘んじることなく誰に対しても優しく温かだ。
ああ、とその時ナサドは強く思った。
この偉大な龍人様のためにこの生涯を捧げようと。
龍人の手足となり、少しでも支えとなりたいと。
ただただひたすらに憧れてきた存在を前に、明確な忠誠心が芽生えたのはおそらくこの瞬間だ。
言葉で説明するのは難しい。
龍貴族として龍人の傍に長く生き続けてきた血がそうさせるのだろうか。
しかしそれからナサドが龍人に向けるその憧れは、一度だって揺らぐことがなかった。
それは、ナサド自身の身体に変化が訪れた後も。
あの時誓った忠誠の形が少し変わった今ですらも。
「オルフェル殿下」
「ん、ああ、ナサド。どうした? 珍しいな、そなたから声をかけてくれるとは」
「突然申し訳ございません。……よろしければ、少しだけお時間をいただけないでしょうか」
末姫の婚約式を3日後に控えた龍王宮は慌ただしく回っている。
当事者であるメイリアーデやナサドはもちろんのこと、証人として見届ける王子達もそれぞれの役割に奔走していた。
そんな中でナサドから声をかけられたオルフェルは些か驚いた様子で足を止める。
龍人の邪魔になるようなことは一切しないと言っても過言ではないナサドが、こうして忙しい中を縫ってオルフェルに懇願することなど珍しい。いや、初めてと言ってもいいくらいだろう。
ナサド自身も自分のこの行動に驚いているのだからオルフェルが驚いても無理もない。
そして視線もそらさず返事を待つナサドにオルフェルも感じるものがあったのだろう。すぐにしっかりナサドに向き直って頷いた。
「夜になっても構わぬか? なに、そう遅い時間にはならぬと思うが」
「勿論です。申し訳ございません、お忙しい中我儘を申し上げて」
「はは、確かに珍しくはあるが嬉しくもあるぞ。そなたは遠慮が過ぎる所があるからな」
「……それは申し訳……いえ、ありがとうございますオルフェル殿下」
謝罪ではなく礼を告げるナサドにオルフェルはやはり少し驚いたように目を見開かせる。
しかしすぐにその表情を嬉しそうなものに変化させると「また知らせる」と一言告げナサドの肩を叩いた。
頷き返せばそのままオルフェルはその場を去っていく。
いつもながら真っすぐ芯のある背中を見送り、ナサドは緩く息を吐き出した。
未だ心臓がバクバクと音を立てて仕方ない。
その様子を見て笑い声が響いたのは直後のこと。
すでに自分の中に馴染んだその声にナサドは表情を緩めた。
「ナサドって本当にオル兄様大好きよね。私のところまで緊張感が伝わってきたわ」
「大好きとは畏れ多い、とてつもなく憧れているのです」
「……うん、そうね。本当に目がこれ以上ないほど輝いているものね」
メイリアーデはどうやら離れた場所からナサドの様子を見守っていたらしい。
いつものごとく緊張しまくり真っ青なナサドの指先を、メイリアーデが包み込む。
体温高めのメイリアーデの手の熱はじわりとナサドの手に吸収され、やがて生ぬるくなっていく。
他愛ない会話をしながら互いに笑い合うのはもう恒例となっていた。
「さあ、それじゃ今日の準備は巻いていかないとね。あれ、“巻き”ってどういう意味かしら? 自分で使っていて何だけど」
「進行を早めるという意味ですね。日本のテレビ業界用語です。テレビ、覚えていらっしゃいますか?」
「てれび……うーん……」
「無理に思い出そうとなさらなくて良いですよ。気になるようでしたらお教えしますが」
「……知っていた方が良い?」
「いいえ。あちらの世界の娯楽ですが、貴女はあまり興味がないご様子でしたので」
「なるほど、なら良いかな。あ、でも何か思い出話があったら是非教えてね」
「はい、勿論」
「とにもかくにも使い方は正しいみたいだし話を戻すけれど、張り切って“巻いて”いきましょう。実はね、ナサドの衣装確認すごく楽しみにしていたの。早く行きましょう」
「……私はメイリアーデ様の衣装を見る方が楽しみですが」
少しずつ、確実に時間は流れる。
メイリアーデは自然な流れでナサドの腕を取り、ナサドも緊張することなく笑み返す。
2人が寄り添う姿に王宮内の従者達も慣れ始めていた。
向けられる視線の中には未だ険しいものもあるが、概ね近しい臣下からは好意的に受け入れられている。
ナサドの変わらず謙虚な姿勢に安堵した者もいるようだ。
そのひとつひとつを確かめながらナサドは前を向く。
「……オル兄様ともちゃんと仲良くできるわ、ナサド。思う存分話してきてね」
計ったようなメイリアーデの言葉に思わず苦笑した。
何だかんだとメイリアーデには随分漏れてしまっているようだ、心の内側が。
それがくすぐったく恥ずかしく、嬉しい。
無邪気に見上げてくるその笑みに触れたくなる衝動を押し込めナサドは「はい」と返事をする。
わずかに細まるナサドの視線の熱さに先に降参したのはメイリアーデの方だ。
「な、なんだか暑いね。もうすぐ夏かな」
「まだ春になりたてですよ、メイリアーデ様」
初心なメイリアーデの姿に幸せを噛み締め、歩を進めた。
「すまぬな、結局遅くなってしまった」
「いいえ。貴重な時間を取っていただき感謝致します、オルフェル殿下」
「そなたは変わらず律儀だな。近く義弟となるのだから、もう少し砕けても良いのだぞ」
「……恐れ多いことにございます」
2人話す場が設けられたのは夕食も終わりしばらく経った時間帯だ。
いつもならば互いに番と過ごす時間でもあり、ナサドにとってみればそれが申し訳ない。
しかしオルフェルは「家族の頼みだからな」と変わらない笑みであっさり受け入れてくれた。
主であろうと家族であろうとオルフェルの人と向き合う気質は何も変わらない。
ナサドが強烈に憧れた“龍人様”のまま。
敵わないなと、決して声には出さないがナサドは何度目かも分からない思いを心の中で吐き出した。
……未だ龍人に対し畏れの方が大きい。
王族に入り、彼らの家族となるのだというその事実をどうにも傲慢に感じてしまう気持ちが拭えない。
本当に自分で良いのだろうか。
もっと相応しい人物はいるはずだ。
ずっと憧れてきた龍人を前にその思いは強くなるばかりというのが正直なところだった。
半分以上自業自得の部分もあるので、やはり口には出せないが。
それでも全て抱えこんで、受け入れ生きていくと決めた。
その思いが負けないよう、ナサドはオルフェルに視線を合わせる。
「話とはなんだ」と、オルフェルが切り出したのは直後だ。
その優しさに感謝しながらナサドは声をあげた。
「これはイェラン様もアラムト殿下もメイリアーデ様も御存じのことです。ごく個人的な事情をオルフェル殿下にまでお伝えする必要があるのか正直なところ迷いましたが、知っていただくべきだろうとそう判断致しました」
「個人的な事情、か。それはそなたがこの国を出ようとしていたことと関わりが?」
「っ、ご存じ、だったのですか」
「何となくだがな。……そなたの忠誠は確かに感じられるのに、そなたの言動がまるで分からなくなってしまった時期ならば私にもある。情けない話だが、今も答えは出ていなくてな」
「……申し訳ございません」
「良い、結果今そなたはここにいる」
何でもないことのようにからりと笑うオルフェルをナサドは強い人だと思う。
誰に対しても笑いかけ王太子であろうとするその背中をずっとナサドは見てきた。
今目の前でナサドの言葉に耳を傾けるその姿勢もまたナサドの知るオルフェルそのものだ。出会ってから今までナサドの中からオルフェルの印象が変わったことはない。
憧れの人は今も憧れのまま。
ゆっくりと息を吐き出し、ナサドは口を開いた。
「全て、お話致します。私のありのままを」
「……分かった。聞こう」
言いたいことは色々とあるだろう。
しかしそれよりもオルフェルはナサドの言葉を、意思を尊重したようだ。
ナサドの身に起きたこと、自身がすでに龍の身にあることを打ち明ける間、ひたすら相槌に徹し耳を傾ける。
龍国で幾度か起きた影の龍の存在、今代でそれが現実になっていること、初めて耳にしたらしいオルフェルはナサドのその究極の秘密に途中目を見開かせ絶句する。
そしてメイリアーデに前世の記憶があることは本人から聞いていたようだが、それがきっかけで神が動いていたこともやはり知らなかったようだ。神の眷属との会話はメイリアーデとナサドしか知らない。最も2人に近いところにいたイェランとユーリは何か察している様子だったがあえて聞いて来ることは無かった。
いつかもう少し自分達の立場が安定したころ時間をとり2人には話そうとメイリアーデと決めている。
ナサドの話を聞くにつれ、オルフェルの顔から色が失せていった。
悔いている風にも見えるその表情に、ナサドの顔もわずかに歪む。
オルフェルに悔いさせたいわけではなかったのだ。
やはり話すべきではなかっただろうか。
済んだことを今更話すのはかえってオルフェルに傷を生むかもしれないと、実際何度も悩んだ。
しかしそれでも知らぬふりはどうしても出来なかった。
イェランもアラムトもメイリアーデもそれぞれがナサドの秘密に辿り着き、最後まで気付かなかったのはオルフェルだけ。それはオルフェルが鈍いわけでは決してなく、ナサドが必死に隠した結果だ。
余計な事で手を煩わせたくなかったのだ。
初めて会話をしたときのあの温かな笑みを覚えている。
優しく撫でてくれた手のぬくもりを知っている。
ずっとその背を憧れて見続けてきた。
龍人のために生きて死のうとそう思わせてくれた憧れの人。
そんなオルフェルに少しでも弱く不相応な姿は見せたくない、そういったプライドもあったのだろう。
その手を払い、沈黙を選んだのは自分だ。
その選択を翻し今ここに話すことに意味はあるのか。
「…………すまぬ。そなたを長く独り苦しめてきたのだな、私達は」
……こうして尊敬する龍人を謝らせてまで告げる意味は。
それでもナサドはもう迷わない。
席を立ちオルフェルの前に跪くと、不敬とは承知の上でオルフェルのその手に自らのそれを添えた。
驚いたようにナサドを見るオルフェルに笑いかける。
「……メイリアーデ様がこうして私を守って下さったのです。いつも、私が独りで抱え込もうとするたびにこうして私を拾い上げて下さった」
だから同じようにとは滑稽な話かもしれない。
しかしナサドも他にどうすれば良いのか分からない。
何せ今まで長い間避け続けてきたことだ、こうした人との深い関わりは。
イェランに繋がれ、ユーリに見守られ、そしてメイリアーデによって再び始まった。
こうして生きる道を定めた今、アラムトとの時間も重なりナサドが決めた覚悟は逃げないこと。
龍である自分と“龍人”として生きていく自分に向き合って生きる。
次代の龍国を背負う彼にはなおのこと、龍として伝えなければいけないと思った。
いずれ王位を継げばユイガ家経由で聞くかもしれないこの国の秘密を、当事者である自分が直接伝えることにきっと意義はあるとそう信じるから。
「この先、この国で生きていく以上、私の過去は決して無くなりはしない。龍となったことも、犯した罪も、全て。私の今を作るうえで避けては通れないその過去を隠したまま、オルフェル殿下の家族を名乗ることは出来ないとそう思いました」
「……そうか」
「形は変われど、私がオルフェル殿下へ向ける忠誠は変わりません。今度こそオルフェル殿下の支えとなれるよう精進してまいります。同じ龍として」
自らを龍と名乗るのはやはりまだ畏れ多い。
けれどその名を背負うことをもうナサドは躊躇わない。
驚いた様子でナサドを見つめたオルフェルに曇りない視線を送る。
それがオルフェルに伝わったかどうかは分からない。
しかしやがてオルフェルが見せてくれたのは、苦いながらも確かな笑みだ。
大きく頷いたのはすぐのこと。
「ならば私も応えねばならんな。……兄として」
そうしてナサドの頭に乗ったのはオルフェルの手。
柔く撫でられる感覚は何十年も前に経験している。
大人の、いい歳をした男龍がそれをされるのは些か違和感があるがナサドはその温もりに嬉しくなって笑みを見せる。
少しだけ言葉を繋ぐ勇気が湧いた。
「ひとつ、我儘を申し上げて構いませんか」
「はは、今日は珍しいこと尽くしだな。何だ」
「……正式にメイリアーデ様の番となり私が龍の姿をお見せする時になりましたら、どうか私に龍化の訓練をしていただけないでしょうか」
「なんだ、そのようなことで良いのか。イェランではなくて良いのか」
「イェラン様は……感覚を教えるのがその、とても、ですね」
「……ああ、確かに下手だな奴は。才能がありすぎるが故」
「かといって年下のアラムト殿下に習うのも……いいえ、言い訳ですね。是非オルフェル殿下に教えていただきたいのです」
「良いだろう。私は少し厳しいぞ?」
「光栄です」
やりとりは未だぎこちなく、格好もなかなかつかない。
しかし2人の兄弟としての関係はこうして少しずつ始まっていく。
ナサドのオルフェルに対する憧れはこの先も途絶えることなく。
ちなみに、これよりちょうど1年ほど後、
「ナサド、今日も中庭で練習しよう」
「はい、よろしくお願いいたしますオルフェル殿下」
「……あれ、ムト兄様。龍って尻尾ありましたっけ」
「あるけれど今君が見えている尻尾はおそらく別種のものと思うよ」
「ブンブン振ってる……。ラン様、ナサドさんの尻尾の振り具合が半端ないです」
「……兄上に対してだけ異様に分かりやすいな、あいつ」
そんな光景が至る所で見られるようになる。
少しずつ、ゆっくりと。
しかし確実にナサドはそれぞれの王子と絆を深めていく。
厳しくも偉大な王太子、近しく不器用な次兄、気さくで少し意地悪な三兄に見守られ、ナサドは龍人としての地位を少しずつ築いていった。




