49.揺れる心
息を大きく吸い込み吐き出す。
一体この扉に手が伸びるまでどれほど繰り返したことだろうか。
事実を知る前と知った後では緊張感がやはり段違いだ。
結局扉をノックをするまで数分かかった。
「メイリアーデ様。本日もお越し下さったのですね、ありがとうございます」
「こんにちは、ナサド」
ナサドはいつもと何ら変わらない。
穏やかな笑顔で深々頭を下げてメイリアーデを迎え入れてくれる。
普段と変わらぬその姿勢が一層メイリアーデの胸にささった。
メイリアーデが一度だって気付けなかったナサドの秘密。
穏やかに笑うその心の内で何度彼は葛藤した?
静かに1人国を出ると彼はどれほど悩み覚悟を決めたのか。
ナサドの笑みを見ると色々な想いが込み上がって来て、思わず泣きそうになった。
「メイリアーデ様? いかがなさいましたか」
「……ううん、何でもないの。少し、自分が情けなくなっただけ」
「それは」
「本当に大丈夫よ。後ろ向きになる時間なんてないのだから」
相変わらず自分は感情を取り繕うことで下手くそで、甘ったれだ。
しかしパチンと自分の頬を叩いたメイリアーデはナサドを見つめ笑う。
泣いている暇も心配をかける時間だってない。
そう自分を叱咤した。
「ルドから聞いたわ、少しずつ歩行練習しているって。順調に回復しているみたいで少し安心した」
「お陰様でたいぶ体調も落ち着いてまいりました。メイリアーデ様はじめ陛下、殿下方には格別のご配慮をいただきまして、感謝しております」
「そんなに畏まらなくても良いのに。特に私なんて完全私欲よ?」
「……お心遣いありがとうございます、メイリアーデ様」
事件が起きてすでに数か月。
これだけ経ってようやくナサドは歩く練習ができるまで回復した。
逆を言うなら、これほど時間をかけなければ治らない傷をナサドは抱えたということだ。
聞けば体に受けた傷自体は驚異的な早さで治ったのだという。
それでもナサドの体調が上向きにならなかったのは内臓系の損傷が激しかったから。
主にその治療を担当していたのはルドであり、そのことからもメイリアーデはナサドの身に何が起きていたのか理解する。
……龍毒草の影響を受けていたのだと。
メイリアーデが襲撃を受けたあの現場で、ナサドが倒れ込んだのは龍毒草を吸い込んだから。
事実メイリアーデもあの時体が麻痺して動けなかった。
女龍の方が毒に強い体だと聞いてはいたが、そのメイリアーデでも回復に時間を要したのだ。
女龍でもなければ龍人として認知もされていないナサドが治療に時間がかかるのは当然だ。
下手をすれば命を落としていても不思議ではない。むしろ助かったのが奇跡的だとすら思う。
そう思えばメイリアーデが少々過剰にナサドの様子を気にしてしまうのは自然な流れだった。
「もう眩暈や視界不良はないの?」
「……ルドからお聞きになられたのですか?」
「いえ、貴方の症状に少し思い当たることがあって」
「……それ、は。……いえ、お陰様でだいぶ回復しております。まだ少々眩暈はございますが、視力に関しましてはほぼ日常に支障のない範囲かと」
「そっか、良かった」
龍毒草の苦しみを身をもって知っているメイリアーデ。
ナサドへの言葉が随分と具体的になっていたことに、ナサドはすぐに気付いたようだ。
メイリアーデの様子の変化、問われる内容、表情を見て思うところがあったのだろう。
怪訝そうにこちらを見つめ、わずかに警戒した様子で声を上げる。
「メイリアーデ様、どなたかから何かお聞きになられましたか?」
「うん?」
「……いつもとご様子が違うように見受けられましたので。なぜ私の症状をご存じなのかお伺いしてもよろしいでしょうか」
久々に彼から発せられる張りつめた空気。
分かりやすく顔を強張らせるナサドのその心中など、全て分かるわけでは当然ない。
しかし何となくでも察することは出来た。
ナサドの正体にメイリアーデが気付けばメイリアーデが何を言い出すのか、きっとナサドは理解している。
そしてメイリアーデを巻き込む方法を、ナサドは決して良しとはしない。
だからこその警戒なのだと。
……ああ、歯がゆい。
ナサドがもっと狡猾な性格であってくれたら良かったのに。
メイリアーデを利用してくれれば良かったのだ。
自分はその時きっと喜んで利用されるくらいナサドに惚れている。
しかしそんなナサドならばそもそも罪を負ってまで自分が龍人であると隠し通しはしないとも分かる。
龍人に何一つ損なわせず秘密を守り抜こうとしているナサド。
そういった頑固なまでの強い信念が彼の中にあったから、メイリアーデもオルフェルもイェランも、そしておそらくはアラムトも心動かされたのだ。
彼の龍人に対する愛情あればこそ。
(本当に、とんでもない人を愛してしまった)
心の中で何度目とも分からない呟きをこぼす。
大きな秘密を抱え、心身ボロボロになろうとも、ナサドの龍人に対する情は絶えることがない。
そんな彼に見合える自分になれるだろうか。
未だにメイリアーデは不安だらけで、自信も正直言えば持てていない。
それでもメイリアーデは顔を上げる。
なれるかどうかじゃなくてなるんだと自分に言い聞かせる。
大きく息を吸い込んで、メイリアーデはナサドに告げた。
「……本を読んだわ」
「本、ですか?」
「ええ。フレディーの日記という、本」
ナサドは目を見開きメイリアーデを見返す。
絶句し、言葉にならない様子でナサドは固まっていた。
「貴方は、フレディー公と同じでしょう?」
はっきり告げたメイリアーデにナサドの顔がくしゃりと大きく歪んだのはどれほど経ってのことか。
「……違い、ます。私は、そのような」
その口から出てきたのは否定だ。
認めてしまうことを恐れるように、明らかに落ち着かない様子のまま首を振るナサド。
それはメイリアーデが初めて見るナサドの一面だった。
「メイリアーデ様、何か誤解をされておいでではないでしょうか。私は彼の方とは何の接点もございません」
そして途端に無表情になって告げて来るナサドにメイリアーデは苦笑する。
メイリアーデにすら分かるようなボロを出すほど彼が動揺したのを見て少し安心したのかもしれない。
ああ、彼の心にまだ入り込む隙はあるかもしれない、と。
少し卑怯な気もするが、メイリアーデは迷っていられないのだ。
「ナサド。貴方はフレディー公がどのような方か、知っているのね? 秘された名である彼のことを貴方は迷いなく理解した。それが何よりの証よ」
「っ、それ、は……私の趣味は、読書ですから」
「うん。貴方が真面目な人で、やると決めたら貫く人だということを私は知っているわ。だからそういう反応になるかもしれないと思っていた。……誤魔化されてあげられなくてごめんね」
「メイリ、アーデ様」
「貴方が望んでいないだろうことを分かっていて、それでも秘密を暴くような真似をしたことも謝る。けれどどうしても無視はできないの、貴方に関してだけは」
言い切る形できっぱりと告げてナサドを見つめるメイリアーデ。
目の前でナサドは呆然とメイリアーデを見返し、どう言葉を繋げようかと迷っているようにも見えた。
……本当は彼の秘密を直接こうして明かす必要はないのかもしれない。
ナサドが必死に隠してきたものを強引に引っ張り出すのは、彼の思いを踏みにじる行為なのかもしれないと思う自分もいる。
しかし黙ったままでは決して言えないことがメイリアーデにはあって、それを言わなければ絶対に後悔すると思ったのだ。
だからメイリアーデはその思いのままナサドから視線を外さず言葉を続ける。
「貴方は私に言ってくれたね。私が何者であろうと私が私である限り変わらないと」
「……申し、上げました」
「私も、貴方に同じことを言いたかったの。貴方が貴方である限り、この想いも願いも何一つ変わらない。私は“ナサド”と共に生きたいとそう思うから」
「っ、メイリアーデ様」
「ナサドが何者であろうと、どのような事情を抱えていようと、私はメイリアーデとして貴方を大事に想う。それだけは知って欲しい。主だからとか、女龍だからとか、そういう理由じゃないよ」
上手くは笑えない。
緊張と不安と、そして少しだけ抱く希望と、色んな感情が混ざり合ってさぞかし顔は強張っているだろう。
それでも視線を外さず心の内を明かしたメイリアーデ。
ナサドは初めやはり呆然としていて、その後苦い顔を見せたかと思えば、やがてその顔の上にわずかな笑みを浮かべる。
「……貴女様はいつでも、どのようなお姿でもお変わりありませんね」
「え?」
「真っすぐで、言いにくいことも必要だと思えばはっきり仰る。そうやって幾度も私を救ってくださいました」
「……黙っていられないだけよ? 無神経の無鉄砲と言われても仕方ないと思うけれど」
「そのようなことはございません。少なくとも私はそのような貴女様に心を拾っていただきました。松木としても、ナサドとしても」
「……ナサド」
「だからこそ、私は枷にはなりたくない」
ここまできてナサドはようやく否定することを止めた。
そのことに気付き目を見開かせるメイリアーデ。
ナサドは小さく息をついてそっと視線を外す。
そうして彼の口から聞かされるのは、ナサドの龍人との思い出だ。
「初めて龍人様を拝見したのは、私がまだ5歳の時でした。その年の龍誕祭で空を飛んでいらしたオルフェル殿下は雄大で美しく、そのお姿にくぎ付けになったことを今もはっきりと覚えております」
「……うん」
「龍と人とは天と地ほどの違いがあるのだと、そう思いました。我が国の頂におわす王族の方々はそれほど尊く偉大なのだと。しかしご挨拶に伺えばオルフェル殿下は朗らかに笑い快く迎え入れて下さる……どうしようもなく憧れました。いつかその手となり足となりお役に立ちたいと、そう厚かましくも願ってしまうほどに」
ナサドがいつだって龍人を敬い忠誠を誓い続けてくれた根源。
彼にとっての始まりはオルフェルだったのだという。
絶対的な憧憬の対象で、いつだって目で追い続けていたと。
「オルフェル殿下のように温かな人になりたいと、そう願いました。あの方に胸をはれる自分でありたいとそう思ったのです」
独り言のような小さな声で、それでもナサドの声は揺らがない。
それほど彼にとってその思いは当然のことであり昔から抱き続けてきたものなのだろう。
あの時、オルフェルが初めて人前で怒り崩れた時、彼を救ったのはナサドの言葉だ。
意識も怪しく息すら絶え絶えの状態でそれでも忠誠を誓ったナサドの姿をメイリアーデは今も鮮明に覚えている。
きっとそれはナサドのこのオルフェルへの尊敬があったからなのだろう。
「イェラン様はお会いした時からとても不器用な方で、感情を表情に乗せるのが苦手な方で、しかしオルフェル殿下とはまた別の優しさをお持ちの方でした。……私の体に異変が起きた時、真っ先に私を庇い共にこの秘密を守って下さったのも彼の方だった」
少し親し気な笑みを浮かべイェランを語るナサドのその表情は、かつて松木と呼ばれていた時代のそのものと同じ。
穏やかに、親しみのこもったナサドの言葉。
2人の間に主従以上の関係性が築かれていることは、もう言うまでもない。
「アラムト殿下は、私にとって初めての年下の龍人様でした。あの方はとても聡明で察しが良くこちらが何を言うでもなくご自分で全てを決めてしまわれる。とても自立した考えをお持ちの頼もしいお方です」
「ええ、そうね」
「……特別な立場にいらっしゃるご兄妹に囲まれ、苦悩されたと思います。それでもアラムト殿下はいつも胸をはりご自身に出来ることを探し動き続けた。とても強い方なのだと、私はそう思っております」
龍人について1人ひとり愛情をこめてナサドは思い返す。
丁寧にそれぞれの名を呼ぶナサドを見て、彼の龍人への思いを嘘だと思う人間などいないだろう。
「そして、メイリアーデ様」とナサドが続けたのはほどなくしてだった。
「いつも貴女様は私を守ろうとして下さいました。私のような厄介な身の上の従者をいつだって温かく迎え入れて下さった。辛い現実も、目を背けたくなる事実も、決して貴女様は逃げずに真っすぐ向き合って下さった」
「そんな、私は大層なことなど」
「いいえ。メイリアーデ様の仰った言葉、行動でどれほど多くの方々が救われたか分かりません。私もその中の一人です」
「っ」
「メイリアーデ様。私にとって龍人様は皆、心より尊敬する方々なのです。強く気高く、情に溢れ美しい」
どこまでいってもナサドはやはりナサドで、いつだってメイリアーデの一番喜ぶ言葉を彼は力強く言ってくれる。
龍人が原因で自分だって苦しみこうして体中ボロボロになったというのに、それでもナサドが語る龍人への情は相変わらず温かい。
「その尊敬する方々の枷には、絶対になりたくない」
だからこそ、その意志もまたひどく頑なだった。
自分が龍人なのだと認めた上で、それでも龍人として生きる道は考えていないのだとそう続ける。
「私は、貴方を枷だなどと思ったことなんてないよ」
メイリアーデはすぐにナサドのその言葉を否定した。
しかしナサドはすぐさま首を振り笑う。
「周囲はそうは見ませんよ。私が犯した罪は消えない。私が貴女様の番になれば、龍貴族、国民達に不信の種を蒔くこととなりましょう」
「けれど貴方の犯した罪は……っ」
「与えられていた情に気付けず、独り善がりな決断を致しました。今でも尾は引いております。メイリアーデ様、私がしたことは決して小さなことではないのです。罪と、そう呼ばれても仕方のないことをしてしまった。多くを悲しませ差し伸べられた手を払い、国を混乱させた過去は消えません。どのような事情があろうと、責められてしかるべきだと私は思っております」
「ナサド」
「このまま私がメイリアーデ様に甘えてしまえば、私の存在がいつか貴女様の枷となってしまう。イェラン様を苦しめ続けたように、今度は貴女様を苦しめてしまう。私が原因で私の愛する龍人様方にこれ以上の重荷を背負わせることなど、私は耐えられないのです」
違うと、そうメイリアーデは言いたかった。
重荷になどならない。
過去を罪だとそう彼が言うならば、共に背負う覚悟だってとっくにしている。
それを枷だなどと寸分も思わないほどにメイリアーデはナサドを愛しているのだ。
それらは全て自分が望んだこと。
誰かに強要されたわけでも、誰かに同情したわけでもない。
自分で選んだ展望だ。
しかしナサドは頑なに「これ以上は龍人様に甘えられない」と言ってきかない。
これ以上の迷惑をかけたくない、それは自分の信念に反するのだと、そう言葉を重ねる。
紛れもない彼の本心なのだろうと思うからこそ、その意志を捻じ伏せてまで反論することはとても難しい。
自分の考えを押し付けたところでどうにかなるものでもないと分かるから。
けれど、それでもだ。
「……諦めないよ、私は」
「メイリアーデ様?」
「最後の最後まで、あがきます。困らせてごめんね? あともう少し、付き合ってください」
にこりと笑んでナサドを見つめる。
そう、ナサドの意志が固いようにメイリアーデの覚悟だって固い。
簡単に諦められるような想いなどではないのだから。
「……メイリアーデ様、私、は」
目の前で苦い顔をして何かをこらえるナサド。
言葉はそれ以上続かず、彼の手は強く握りしめられている。
その上に自分の手を重ねメイリアーデは笑う。
振り回し続け困らせ続け、それでもこうして自分の意志を貫くことをメイリアーデは心で詫びる。
それでもそれ以上口は開かず、しばらくそのままナサドの傍にいたのだった。




