29.脱出に向け
ルイの異変に気が付いてからどれほどの時間が経ったのか分からない。
深い眠りについたメイリアーデは、あのあと目覚める度に何度も何かを嗅がされた。
その途端やはり何も考えられなくなり意識が沈むのだから抵抗など出来るはずもない。
何度眠ったのかどれほど眠ったのか、もはやメイリアーデには判断がつかなくなっていた。
ひたすら眠り続けた影響なのか嗅がされた薬の効果なのか分からないが、体がとにかくダルい。
座ることすらひどく億劫で頭は重く視界はぼんやりとしたまま晴れないのだ。
部屋中に充満する甘ったるい香り。
それはルイから口元に布を当てられる際にも感じるもの。
どうやら自分の体に影響を与えているのはこの匂いらしいと、それだけ分かった。
どのような匂いか言葉にするのは難しいが、強いて言うならば桃とマンゴーを掛け合わせたような香りと言えば想像はつくだろうか。とにかく胸焼けしそうな甘さの匂いだ。
と、そこまで考えてメイリアーデはルイの存在がないことに気付く。
いつもならばこのようなことも考える余裕なく薬を嗅がされる。
しかし部屋はしんと静まり人の気配がなかった。
視界がかすんでいる上に部屋も暗いためいま自分が置かれている状況がどのようなものなのかメイリアーデには分からない。しかし少なからずしばらくぶりに意識が自分のもとにあると感じた。
「ナ、サド」
そうして自分で考える余裕が出てくると、頭を占めたのは大事な従者の安否だ。
このような状況に陥る前の会話をメイリアーデはちゃんと覚えている。
公務の帰り何者かの襲撃を受けたこと。
ナサドがメイリアーデを守ろうとやって来て、毒か何かで倒れたこと。
そうしてメイリアーデ自身も気が付いた時には意識が落ちていて、その間になぜかナサドが首謀者とされていること。
……ナサドはどこにいるのだろうか。
しかしとにかく早く合流して助けなければ。
状況を整理すればするほどナサドの危険を感じるのだ。
今一体どのような状況なのか、この閉ざされた世界からでは何一つ分からない。
しかしどう考えても今のこれは普通ではない。それだけは確かだ。
父や母、兄達はメイリアーデがここにいることを知っているだろうか。
いや、ない。ふと浮かんだ疑問はすぐメイリアーデが否定する。
メイリアーデは自分が相当に甘やかされ愛されて育ってきた自覚がある。
だからこそメイリアーデの身に何かが起こりそれを把握しているならば誰か1人は必ずここにいるはずだと確信していたのだ。
そもそも毒か薬か分からないが、このようにメイリアーデを強制的に寝台へと縛り付ける方法を家族は許さないだろう。
おそらくこれはルイの独断だ。いや、ルイというよりもスワルゼ家と言った方が良いのかもしれない。どちらにせよ龍王家には自分がここにいることなど知らせてはいないと思う。
となると、メイリアーデの消息は王宮側からすれば完全に途絶えたことになっているはずだ。
龍人が一名行方知れず。大事になっていることは間違いない。
ナサドの置かれている状況とてほとんど分からないが、耳に入る情報は厳しいものばかりだ。
メイリアーデを浚おうとした罪人として捕らえられているか、どこかに逃げてくれているか……意識を失う直前の状況を考えるに前者の可能性が高いと感じる。
どうか無事でいてくれと願うしかできない現状はなおさらメイリアーデを焦らせた。
……きっとイェランならばナサドの無実と無事のためにすでに動いてくれているはずだ。
あのイェランがナサドを疑うはずない。自分以上にナサドがどういう人物なのかイェランは知っている。
そうやって無理やりにでも思いこまないと、メイリアーデは自分を見失ってしまいそうだった。
いけないと、引きずられそうになる思考を無理やりにでも引き戻すメイリアーデ。
「ここから出るのが先」
そう、今はナサドの無実を主張するよりも自分自身が安全な場所に逃げなければいけない。
ここにいても自分の言葉は何一つ届かないと分かるから。
ルイの目的が何なのかメイリアーデには見当もつかない。
しかし彼らがメイリアーデを利用して何かをしようとしていることは明白だ。
純粋にメイリアーデを守ろうと動いているわけではないだろう。
もし仮に一部分でそう言った面があったとしても、他に目的があるのは間違いない。
メイリアーデを守るためナサドを疑ってかかっているのか、それともナサドを排除するために罪をかぶせているのか、現時点では判断がつかない。どうか前者であってくれと願ってはいるが、それにしても手段が強引すぎてルイの言葉をメイリアーデは信用しきれなかった。
素直に誠実に話してどうにかなるならばそうしたい。しかし状況を考えれば難しいことも分かる。
時間的余裕もない。
そう判断したメイリアーデは、すぐに脱出方法の検討に入った。
(目、はまだ駄目。耳は大丈夫)
一つ一つメイリアーデは自分の体の状況を整理する。
ぼんやりと視界に靄がかかっていて、いまだ目ははっきりとした輪郭を捉えてくれない。
部屋の内装どころか自分の手すらただの丸いモヤにしか見えない状況だ。
今メイリアーデが頼れるのは聴覚と触覚だけ。
起き上がっている現時点で体が重く感じるということは、まともに歩けるかすら少々怪しい。
この状況ではまず脱出以前の問題だ。
そもそもこの状況は何なのだろうか。
襲撃を受けた際も思ったが、龍人には毒が効かない。
風邪や病気というものにもメイリアーデは無縁なのだ。
唯一寝込んだ記憶と言えば、前世を思い出し知恵熱を出したあの一回きり。
たった一晩だけのあれですら家族は大騒ぎになった。それは龍人としては滅多に起きない出来事だったからだ。
それほど龍人という種族は頑丈で、よっぽどの外的な怪我でもしない限り途中で死ぬことがないのだ。
絶対種族と言われるだけあり、全てにおいて龍人は強くできている。
だから、おかしいのだ。
この体を襲う症状は、どう考えても風邪や病気の類ではない。明らかに毒の症状だ。
いや毒と言うよりは薬の副作用と言った方が正しいだろうか。
この感覚にはメイリアーデ自身覚えがあった。メイリアーデがというより、津村芽衣が。
体が弱く常に薬と共に生活していたような芽衣は、治療法を探る中で何度か薬の副作用によって寝込んだ経験がある。色々と医師が難しい言葉で説明をくれたが、芽衣がその中で知ったことはたった一つだけ。
薬の副作用が現れた時は、体内からそれが抜けてくれるまで待つしかない。
(あの匂い、もう嗅いでは駄目)
状況把握が圧倒的に足りていない中ではあったが、メイリアーデは毒を抜くことに専念しようと決める。
早くここから抜け出したいと焦る心を必死に抑えて、その身を横たえた。
体調がおかしなときは座っているだけでも体力を激しく消耗するのを知っている。
元気な状態の自分と比較し大丈夫だと過信することほど危険なことはないのだ。
多少の無理でここから抜け出せるなら賭ける意義はまだあるかもしれない。しかし今メイリアーデは目も働かない。歩けるかすら未知数となれば、さすがに無謀だろう。
すぐにそうやって冷静になれたのは、やはり前世の弱り切った状態の自分を何となくでも覚えていたから。
気持ちとは裏腹に体が全く思い通りに動かない歯がゆさをメイリアーデは知っているのだ。
そしてどうすることが一番の近道かも、やはり何となくではあったが覚えている。
前世の経験がこんなところで役に立つとは思っていなかった。そんなことを思いながら、メイリアーデはとにかく体を休めようと目を閉ざす。
足音が耳に届いたのは、その直後だった。
どこが扉か分からないが室外の遠くの方からそれは近づいて来る。
唐突に現れた気配に思わずメイリアーデの肩が跳ねた。
……怖い。
本能的にメイリアーデの精神はその存在を警戒する。
攻撃されたばかりの体は否が応にも強張ってわずかに震えてすらいる。
(落ち着いて)
ぎゅっと体を強く抱きしめながら自分にそう言い聞かせ、深呼吸。
その間にもカツカツと無駄のないリズムで響くそれはどんどん大きくなる。
得体の知れないものが近づく恐怖を押し込めるように、目を閉じるまぶたの力が強さを増した。
もう一度大きく深呼吸して務めて体の力を抜く。
扉の音が響いたのは、そこから数秒後だ。
「……よく眠っていらっしゃる。ようやく薬が効き始めたか」
静かな部屋に響くルイの声。
どこか嬉々とした風にも感じられる声色ではあるが、どのような表情をしているのか。
一体どうしてこのようなことをするのか問い詰めたくなる心をグッと抑えながらメイリアーデは寝たふりを続ける。
起き上がると途端にあの甘ったるい薬を嗅がされるのだ、そんな危険は少しでも減らしておきたい。そんな思いから体が不自然に動かぬよう、メイリアーデは細心の注意を払った。
それにしても、薬。
はっきりとルイの口から発された言葉に心臓が嫌な音を立てる。
やはり彼は意図的にメイリアーデの意識を操っていたのだ。
誰かに目的も分からず害される恐怖。独特の、感じたこともない感覚は背筋を這うようにして襲ってくる。
どうしたって今はルイの声も気配も、メイリアーデにとって恐怖でしかなかった。
はやく部屋から出て行ってくれないだろうか。そんなことを思ってしまうほどに。
「私がお守り致します、姫様」
そっと、頬に温い何かが当たる。
ルイの手だと理解するのにどれだけの時間を要しただろうか。
唐突な触れ合いに体が反応しそうになるのを必死に押しとどめるメイリアーデ。
意識的に制御していたはずの息が乱れそうになった。
どのように呼吸していたのか忘れかけ、しかし不自然になればすぐに気付かれるだろう恐怖にメイリアーデの脳は混乱する。
思わず目を閉ざす力が強くなったことに、ルイは気付いていないだろうか。
頭を支配するのは恐怖が大部分で、冷静になれない自分になおのことメイリアーデは焦った。
しかし幸いなことにルイはこちらを怪しむ様子もなく独り言を続ける。
「龍になるのは、私だ。番に相応しいのは、リガルドではない」
吐き出された冷たい言葉に息をのみかけて慌てて留めた。
龍になる。番。リガルド。
身近な言葉の中から出てきたそれらに、やっとメイリアーデは今回の事件の鱗片を知ったのだ。
(権力、争い……)
一体どこまで闇が深いのかと思わずにはいられない。
兄達の後継者問題だけでは済まないのか。
スワルゼ家とリガルド家。
どちらも古くから龍人と深く付き合いがある三大貴族。
龍貴族の中でも頂点に位置する、龍国民であれば誰もが知る名家だ。
どちらが上でどちらが下というものではない。
しかしその当事者たちはそういう認識ではないのだと、ルイの言葉でメイリアーデは初めて知る。
オルフェルと親しいスワルゼ家、イェランと相性の良いリガルド家。考えたくは無いが、少なからず兄達の継承問題も未だ尾を引いていると考えるのが自然だろう。
現在メイリアーデの番候補として名が挙がっているのは、ルイとロンガとナサドの三名。
ルイ以外はどちらもリガルド家に縁のある者で、その事実が全く関係していないとはどうにも思えなかった。
(とすると、ナサドが首謀者とされているのもやっぱり……)
ナサドを排除するため。
ルイの言葉の真意をメイリアーデはそう推測する。
番候補として挙がったナサド、そしてリガルド家を候補から消したいのだろうと。
ナサドは罪人でリガルド家からも除籍されている。しかしながら生まれがリガルド家であることは事実であり、当然それは周知の事実だ。
ナサドが今件の主犯と断定されれば、もうナサドは龍国にはいられない。龍国追放程度で済むだろうか、いや無理だろうとメイリアーデでも分かる。いくらイェランやメイリアーデが庇おうとも、さすがに父は認めないだろう。龍人が傲慢になることを決して許さず人との協和を第一に秩序を守る王であることをメイリアーデは知っていた。
そしてナサドが主犯となれば、いくら除籍していると言えど生家のリガルド家とてただでは済まない。番どころの話ではなくなる。
憶測の部分も多分にはあるが、そういう事態になるのはあながち大げさな話ではないだろう。
これがルイの目的なのかは分からない。目指すところのひとつであるのは間違いないとメイリアーデは思う。
……嫌だ。
メイリアーデの心に芽生えるのはそんな拒絶だった。
これ以上ナサドが苦境に立たされるのもメイリアーデには耐えられそうにない。
大事な人なのだ。前世から続く初恋の人で、大事なことを教えてくれた恩人。
従者となってからだってナサドには支えられ通しだった。
やっと少しだけ信頼を預けてくれるようになったというのに。
ナサドから今までもらった分を少しでも返したい。自分なりにナサドを目いっぱい大事にしたいのだ。
それを、何一つ出来ないままにまた離れてしまうのだろうか。
無理だと、メイリアーデはそう思った。
「姫はどうだ、ルイ」
「父上。よく眠っていらっしゃいますよ、薬が効いてきたのでしょう」
ナサドへの思いを馳せていたメイリアーデに唐突に第三者の声が届く。
ルイが父上と呼ぶ人間は1人しかいない。
スワルゼ家の現当主であるリンゼルだ。
いつの間にここに来ていたのか。
分からないが、目を閉ざしているメイリアーデでも分かるほど強い視線を感じる。
途端に空気が薄くなったように思った。
「……さすがは女性龍、龍毒草の効き目がこれほど弱いとはな」
龍毒草。
リンゼルの台詞からメイリアーデの知らない単語が聞こえる。
それは一体どのようなものなのか。
考える間もなくリンゼルとルイの会話は続いた。
「父上、あの男が姫様にかけた洗脳は強力です。ここまで来るのに3日もかかりました、もう少し薬の量を増やした方が良いのでは?」
「ならん。龍毒草は本来龍にとって猛毒、すでに致死量を越える量を使っているのだ。姫様の毒殺が目的ではないのだぞ」
「しかし、イェラン殿下が我々を疑っておいでです。急ぎ姫様には目を覚ましていただかねば」
「……分も弁えぬ愚弟か。従者が従者ならば主も主だな、とことん我らを侮辱してくれる」
それはメイリアーデにとって初めて龍人に向けられた憎悪の感情だったのかもしれない。
華やかに笑い庭園を案内してくれていたリンゼルの姿はここにはない。
別人かと思うほどの声質はメイリアーデの背筋を凍らせる。
「父上、龍人様にそのような物言いは……。あの方ももしやナサドに洗脳されているのやも」
「ルイ。そなたは黙って父に従えば良い。黙って、ナサドを憎んでいれば良いのだ」
「父上、それは」
「良いな?」
「は、い……父上」
「……あのまま帰ってこなければよかったものを。才の龍とは忌々しい。そうは思わんか」
「その通りでございますね、父上」
目を閉ざし続けるメイリアーデに詳細な状況は理解できない。
だがルイの様子が明らかにおかしいことにこの時メイリアーデは改めて気付いた。
ルイとリンゼルの会話はどこか噛み合っていない。
そして、リンゼルとの会話を続けるうちにどんどんとルイの声が単調になっているようにも感じるのだ。
ルイは確かにナサドを良く思っていなかったが、ここまであからさまにナサドを憎むような男だっただろうか。直接的な言葉を使い何もかも疑ってかかるような人物ではなかったように思う。
そのルイが暴言ともとれるリンゼルの言葉を淡々と肯定している。
はじめは諫めてさえいたのに、リンゼルが語気を強めれば一切感情の見えない声で付き従っている。
一拍遅れてメイリアーデの鼻につんと、何か嗅いだことのない匂いが届いた。
……まさか。
瞬間に察してしまったのは、自分の置かれた状況が状況だからなのか。
「ルイ、この場は私に任せナナキの様子を見てきておくれ。何やら元気がないようなのでな」
「分かりました。母上のもとへ参ります」
「それで良い」
会話が終わると部屋から1人分の気配が消える。
リンゼルの言葉通りルイはナナキの元へと向かったのだろう。
リンゼルにルイにナナキ。
この場がスワルゼ家の本邸なのだと確信するのに時間はかからない。
スワルゼの主要人物が3人とも本邸から離れるのは、時期や状況を考えても無いだろう。
ならば、ここはどこなのか。
そうぐるぐると思考を巡らせていたメイリアーデに声が響いた。
「狸寝入りとは感心しませんな、姫様」
大げさに肩が揺れてしまったのは仕方がないだろう。
はっきりと、疑う余地もなく断定された言葉。
いつからかは分からないが、メイリアーデが覚醒していることをリンゼルは当に気付いていたのだろう。
再び注がれる強い視線。
怖いと、体は素直に恐怖を伝える。
しかしここまできてその言葉を無視することもできない。
大きく深呼吸をして無理やり震えを外に逃がしたメイリアーデは起き上がった。
「……貴方、一体何を考えているのリンゼル」
どうしても強くなってしまう語気、警戒を露にしたメイリアーデの表情に、リンゼルは見たこともないほど暗く笑った。




