26.予兆
メイリアーデがナサドを特別視しているのではないか。
番の候補としてナサドを考えているのかもしれない。
そんな噂はあっという間に王宮内に広まった。
体調を戻し従者業に復帰したナサドも往来で噂を耳にしたのだろう。表情こそ変えないが、どことなく居心地悪そうだ。
「……ごめんなさい、ここまで大事になるとは思わなかったの。結局ナサドにまで迷惑かけてしまったわ」
「いえ、元はと言えば私の自己管理が出来ていなかったのが原因です。改めましてご心配いただきましたお詫びとお礼を」
「そ、そんなかしこまらないで? 本当に申し訳なくて仕方ないの」
ナサドは相変わらず自分のことよりメイリアーデ優先で、謝っているのはこちらなのに逆に頭を下げられる。メイリアーデにとってそれはあまり気持ちの良いものではない。
慌ててナサドの姿勢を直させると、そんなメイリアーデの心情を察したのだろう。苦笑を浮かべて「ありがとうございます」と一言くれた。
ナサドが自分の番候補。
ナサドの今の立場を考えればその噂があまり大きく広がるのは望ましくない。迷惑をかけることだって本望ではないのだ。
しかし番候補にナサドの名前が挙がることに正直悪い気はしなかった。嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが混ざって、メイリアーデの胸中は複雑だ。
そしてそんなどこか落ち着きのないメイリアーデに憶測は更に広がる。
スワルゼ家のルイからお茶の誘いがあったのは、ちょうど噂が広大きくなり始めた直後だった。
「メイリアーデ姫様、お時間を取っていただきありがとうございます」
「お誘いありがとう。久しぶりね、ルイ」
ルドの弟でメイリアーデの番候補としても名の挙がっているルイ。
以前会ったときと変わらず華やかな笑みを見せている。
そして相変わらず彼はそばにナサドを寄せることを嫌った。
噂が影響しているのかルイのナサドへと向ける視線は鋭さを増している。
もっともメイリアーデにはそのような素振りも見せないが。
「先日我が家の花壇に新たな花が咲きまして、当家で使っております茶葉によく合う香りですので是非とも姫様に献上したく参りました」
「とても良い香りね! ありがとう、お茶の時間が楽しくなりそう」
「勿体ないお言葉にございます」
穏やかに、そしてスマートな笑顔でルイはメイリアーデに話しかける。
ナサドのことについて思うところが無いわけでは無かったが、それでも以前メイリアーデはルイなりの考えを聞いてしまっているので口には出さずに笑顔で応対した。
あの頃よりも事情を知って、ナサドに対するメイリアーデの信頼は増している。しかし、それはわざわざルイに言うようなことではない。
実際ナサドが罰を受け入れたのは事実だし、ルイがそれを受けて相応の扱いをしていることも間違いとは言えないからだ。むしろそういった線引きをしなければ規律は守れない。ナサド自身もそれは言っていたことで、これが普通の対応なのだ。ナサドも心得ているようで、ルイの姿を認めれば一度深く頭を下げてからどこかへと下がっていった。
気にするなという方が無理ではあったが、わざわざ持ち出して事を大きくする気も今はない。
そのためルイに合わせナサドの気配を消したお茶会は、終始穏やかな空気で進められた。
「姫様におかれましては、近く単独公務をお勤めになられるとのこと。改めましておめでとうございます」
「ありがとう。いよいよ間近に迫って少し緊張しているわ」
「姫様ならばきっと立派にお役目果たされることでしょう。ですが、少しでも心穏やかにお過ごしいただけますようこちらのサシェもどうぞお持ち下さい」
「え、あ、いい香り。もらっても良いの?」
「はい、勿論です。姫様さえよろしければお受け取り下さいますと嬉しく存じます」
「ならばお言葉に甘えていただこうかしら。ありがとう」
相変わらず用意周到でメイリアーデに至れり尽くせりのルイ。
スワルゼ家の面々は社交界やこういった交流の場での気遣いが本当に上手で、相手の喜ぶツボをしっかり心得ている。
受け取ったサシェはまさにメイリアーデ好みの香り。いつの間に……と思わずメイリアーデから苦笑がこぼれた。
「ルイはさぞかしご令嬢達から人気があるのでしょうね」
「そのようなことは、ないかと思いますが」
「ないわけないわ、綺麗で穏やかで上品で気配り上手。紳士として完成されているもの。ルイに敵いそうな人は正直ムトお兄様くらいしか思い付かないわ」
「アラムト殿下と並べていただくなど誠に恐れ多いことにございます、姫様」
ストレートに言葉を述べるメイリアーデにルイもまた苦笑を浮かべて謙遜している。
このようなところもまた人気があるだろうなと内心思いながら、メイリアーデはカップに口を付けた。
いつの間に調べたのか、献上されたお茶もまたメイリアーデ好みの味。
やはり紳士として完璧だと苦笑が深まる。
ルイの表情に僅かな変化が訪れたのはその直後だ。
「……メイリアーデ姫様だけにございますよ」
「え?」
「私がこのように動くのは、お相手が姫様なればこそです」
さらりと、綺麗な笑顔のままルイは告げている。
しかしこちらへ向けるその眼差しの真剣さにメイリアーデは気付いた。
真意は何だろうか。純粋な忠誠心なのか、はたまた番候補とされていることを意識してのことか。
思わず眉を寄せてしまったのはメイリアーデの失敗だ。軽く「お上手ね」と笑えてしまえれば何てことはなかったのだ。
しかしそれを実行するには間が空きすぎた。結局その場を支配したのは気まずい沈黙。
ルイが苦笑し声を上げるのはすぐのことだ。
「申し訳ございません、困らせてしまいましたね」
「……いいえ、私の方こそごめんなさい」
「姫様がお気になさることではございません。気が急いた私の落ち度です」
何も気にしないよう綺麗に笑って話を区切るルイ。
対して自分の至らなさに内心少し落ち込んでしまう。
それでもせめて取り繕おうと必死に笑顔を見せれば、ルイは頷いて誤魔化されてくれた。
気が急いた。その言葉の意味をメイリアーデは考える。
近頃急にナサドが番候補として噂に上るようになって、気になったのだろうかと。
ルイが突然このような言動に出た理由に心当たりがあるとするならば、時期的にもそれしか思い当たらない。
いつも綺麗な笑顔を見せるが、メイリアーデはルイが自分に純粋な好意を向けてくれていると感じたことはなかった。ルイだけではなくもう1人の候補として上がっているロンガも同様だ。
メイの番になればその生家は確かに強い権力を持つ可能性がある。それを見越して番という言葉を意識しているのはおそらくどちらもだろう。しかし、それ以外の感情は見えてこない。それが正直なところ。
だから、せめてもの誠意としてメイリアーデはルイに向き合う。
「ルイ、私の勘違いだったならば笑って。けれど、ひとつだけ貴方に伝えておくわ」
「は、何でしょうか」
「私、まだ番については考えられないわ。中途半端な気持ちで選べるものではないの。一時の感情で、覚悟もないままに番は選べない。それは、誰に対しても」
目の前でルイが息を飲むのが分かった。
おそらくメイリアーデの発した言葉の真意を悟ったのだろう。
ルイもロンガもナサドも、現時点では番として考えていない。
つまり今自分に対して何らかのアプローチをかけたところで無意味だと言外に言っているのだ。
正直なところナサドに対して思いっきり意識してしまっている自覚はあるが、その感情を理解できていない現状では口に出せるはずもない。
番を選ぶとなると、やはり国内の権力バランスが気になってしまうのが正直なところだった。
オルフェル派とイェラン派、この国には不穏な気配がまだ色濃く残っている。兄達の苦悩は深く、根は深い。20年以上たっても未だ消えずメイリアーデの耳にも入ってくる派閥争い。意識しないというのは無理な話だ。自分が感情に任せて番を選ぶことによって今の派閥がどう動いてしまうのか。オルフェルと親交の深いスワルゼ家、イェランと相性の良いリガルド家。候補として挙がった名が国でも有数の、そして派閥争いの頂点に位置するであろう貴族家の出身だからこそ安易に選べはしない。ナサドに至っては言わずもがなだ。それらの問題を打ち破って相手に苦労を強いてでも番になりたいと思える程の感情はなかった。
つまり今はまだ時期ではないというのがメイリアーデとしての答えだ。
「貴方の気遣いはとても嬉しい。もし本心からの気持ちでそういった意図を持って言ってくれているのだとしたら、それは本当にごめんなさい。けれど、それが私にとって今の正直な気持ちよ」
本来ならばこのようなことまで言う必要はないのだろう。
しかし他にどう言えば良いのか分からない。気付かないふりをして、上手くあしらって、適度に距離を保つ事をこのルイ相手にするには経験値が足りない。本人に分かりやすく嘘を付き続けるくらいならばきちんと告げた方がまだマシだと思うのだ。それは、時には踏み込む覚悟も必要だと教えてくれた彼だからこそ。
そんなメイリアーデの想いがどこまで伝わったのかは定かではない。
しかし、メイリアーデの言葉を受けてルイの顔に浮かぶ表情は決して険しいものではなかった。
「姫様は本当に素直なお方です。……貴女様が、もう少し軽い身の上でいらっしゃったらと思わずにはいられない」
「それは、どういう」
「……いえ、申し訳ございません。ただの戯言にございますれば、お気になさらず」
険しくはないが、少々寂しげな表情に映ったのはメイリアーデの気のせいだろうか。
ぽつりと、何かを吐き出すようにルイは静かに息をする。
やがてやや思案した後、ルイはメイリアーデに視線を合わせた。
「ひとつだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ、何かしら」
「メイリアーデ姫様にとって、ナサド殿はどのような存在ですか?」
ルイからナサドの名が出たことにメイリアーデは驚く。
ナサドをいつも警戒し、そばに寄せようとせず、罪人として扱うルイ。
そんなルイから聞かれる質問だとは思わなかったからだ。
だから目を見開きメイリアーデは固まる。ルイは真剣な表情でこちらを見ていた。
ルイがメイリアーデにそれを聞いてどうしたいのか、分からない。
しかしルイの顔を真っすぐ見返したメイリアーデは短く答える。
「大事な従者よ。私や龍人を何よりも尊び守ろうとしてくれる、そんな従者」
「……さように、ございますか」
苦虫を噛んだような、何かに思い悩むような、ルイの顔。
おそらく彼にとってメイリアーデの言葉には思うところがあるのだろう。
それでもそれを言わずに相槌で済ませたのは、ルイなりの配慮だと分かる。
だからメイリアーデはそれ以上の言葉をあえてかけはしなかった。
「今日は誘ってくれてありがとう、ルイ。貴方のおかげで落ち着いて公務をこなせそうよ」
時間もそろそろ頃合い。
務めて穏やかに声をあげながら、メイリアーデは席を立つ。
ルイはすぐに我に返って立ち上がり、メイリアーデのエスコートをしてくれる。
「こちらこそお忙しい中お時間をとっていただきありがとうございました。ご公務のご成功をお祈り申し上げます」
「ええ、ありがとう」
次の瞬間にはいつものルイへと戻るのだから、やはりルイはすごい。
心の中で感心して、メイリアーデは笑顔を見せた。
「なぜ多くを苦しめてなお……」
メイリアーデの元を辞した後、廊下で零れた言葉を拾う者はいない。




