21.次兄の苦悩
イェランが過去どうして国外へと逃れることになったのか。
今でも深く苦悩しているイェランに、詳しい事情を知らないメイリアーデはどう言葉をかければ良いのか分からなかった。
あんなイェランの姿をメイリアーデは初めて見たし、イェラン自身あんな姿を人に見せたのはそうないだろう。
しかしそれでも100年以上を生きる次兄はしっかり心を切り替えてきた。
すでに全くいつもと変わらない様子で過ごしている。
「昨日は悪かったな。忘れろ」
メイリアーデにもそう一言告げて、何の隙もないいつものイェランに戻ったのだ。
「……大丈夫、なのかな」
隠しきれず心配が表に出てきてしまったのはむしろメイリアーデの方だった。
公務の合間、思わずそんな言葉がこぼれる。
「いかがなさいましたか、メイリアーデ様」
いつものごとくすぐさま反応したのはナサドだ。
そこで初めて声に出ていると気付いたメイリアーデは慌てて自らの口を塞ぐ。
しかし一度こぼれた言葉は当然だが引っ込むことなどできない。
「……イェラン様と、何かございましたか」
察しの良いナサドは、たったの一言でメイリアーデの悩みを見抜いてしまった。
わずかに、しかし以前よりも幾分分かりやすく心配そうにメイリアーデを見つめるナサド。
すぐ傍で膝を付きメイリアーデを見上げている。
言葉に詰まり眉端を下げたメイリアーデ。
その様子に何か思う所があったのか、ナサドは小さく息をつき言葉を続けた。
「イェラン様ならば、大丈夫です。あのお方はとても強いお方だ、傍にユーリ様もおられます。多くを背負い、それでも自分の心を見失わぬあの方を私はずっと見て参りました」
ナサドの言葉に驚くのはメイリアーデの方だ。
あの一言だけで、一体この男はどこまで察したのか。
「ナサドって超人?」
「は、いえ、そのような」
「どうして分かったの? あの時あの場には私とラン兄様しかいなかったのに」
「……何となくです。大層なものではございません」
どうやらナサドとイェランの絆はメイリアーデが思うよりも更にずっと固く濃いようだ。
わずかな情報だけでイェランの心情までもを察してしまうナサドに、メイリアーデはそう感じた。
「貴方達って本当に良い関係を築いてきたのね」
思わず出てきたメイリアーデの言葉にナサドが苦笑する。
「恐れ多いことにございますが」と一言加えて頭を下げるナサド。
本音で会話を交わして以来、本当にたまにではあるが、こうしてナサドが無表情を破ってくれるようになった。
松木先生とそう呼んでいた頃のように、彼は笑う。
松木とは違い声をあげて笑うようなことはしないが、それでもその笑みはあの頃と変わらないままだ。だからそれがナサドの本心なのだろうとメイリアーデには分かった。
ドキドキと、胸がうるさくて仕方ない。
そんなことを考えている場合ではないと思いながらも、松木と過ごした津村芽衣の日常を思い出す。
この胸の高まりが松木を思い出しての反応なのか、新たな顔を見せてくれるようになったナサドに対しての反応なのか、もう分からない。
ただ、どうしようもなくメイリアーデは彼が特別なのだとそれだけ再認識していた。
そしてそんなどこかぼんやりとし始めてきたメイリアーデの脳に次の瞬間届いたのは、ナサドの冷静な声だ。
「先日も申し上げましたが、私は自分の行ったことに後悔はしておりません。許されざることなのだとしても、あの時私にとってもあれは必要なことだった。……ですから、私のことで苦しまれるのはもうお止め下さい、イェラン様」
その言葉の向けられた先に反応して、メイリアーデは顔を上げる。
部屋の入口、扉を背にしていつの間にか一つの影がそこにはあった。
ハッと周りを見渡せば、そこにあるのは最近目にしたばかりの遮音膜だ。
「ラン兄様」
名を呼べば返ってきたのは深い溜息。
無表情の、いや、少し苦さの感じる表情を見せたイェランはまっすぐナサドを見つめていた。
「……いつから気付いていた。気配消して来たんだが?」
「こちらにいらした時からです。私に隠せるとお思いでしたか」
「相変わらずだな、おい」
イェランとナサドはお互いに表情も変えず会話をする。
しかしその内容は、どこか気軽ささえ感じるような親密さだ。
驚いてただただ2人を見つめるメイリアーデ。
「昨日、みっとも無いところ見せてしまったからな。また変な事でも考えてないか見に来たが、案の定か」
「イェラン様、メイリアーデ様は」
「分かってるっつの、皆まで言うな」
どうやらナサドの前ではイェランも随分饒舌になるらしい。
普段あまり見ないイェランの姿に、メイリアーデは尚更驚いて見つめていた。
しかし、イェランの方はメイリアーデをそのままにしておくつもりはないらしい。
ナサドと軽口を叩いた後、視線をメイリアーデに移す。
「余計なことを考えさせたな」
「そんな、余計な事なんてっ」
「聞け。俺と兄上のことは、本当はとっくに解決しているんだ。お前が心配するようなことなど何も無い、俺自身としても結論はとっくに出ている。それだけはお前に知っておいて欲しかった」
「兄様……」
おそらくイェランがここに来た理由はそれを伝えに来ることだったのだろう。
イェランとオルフェルの間にわだかまりはもう無いと。
現在オルフェルが王位継承者であることに何の不満もないのだと、イェランはそう言っている。
「昨日、言うべきだったんだがな」とぼそり呟きながら、それでも今改めて言いに来たということは、イェランにとってそれほどに大事なことなのだ。
だからメイリアーデは強く頷いて見せる。
イェランは、そんなメイリアーデに頷き返した後「だがな」と言葉を続けた。
「時々、思うことがある。あの時、俺がもう少し強かったらと。ナサドにあの選択をさせたのは俺だ」
「イェラン様」
咄嗟に声を上げるナサドにイェランは首を振る。
押し黙ったナサドを確認して、イェランはひとつ深呼吸をしはっきりと口にした。
「メイリアーデ。俺はな、死のうとしたんだよ昔」
「……え?」
「才の龍である俺の存在があるから兄上が苦しみ国民が惑わされるというならば、俺そのものが消えてしまえば良いと、そう本気で考えていた。そうまでしないと国が割れると……今思えば追いつめられていたんだろうな」
当事者の口から初めて語られる、事情。
深刻な事態だったのだと知ってはいた。
しかし、事実はそれよりもさらに酷だ。
絶句して頭が真っ白になるメイリアーデに近づき、イェランは目をそらさず続ける。
「本当は誰にも気付かせず逝くつもりだったんだがな、ナサドにだけは通用しなかった。こいつは俺を何とか生かすために国外への逃亡経路を確立し俺に説き続けた。一度国から離れ、手立てを考えようとな。そうして逃げた先で出会ったのがユーリだ」
「ラン、兄様」
「結果、俺は今ここにいる。守るべき家族も増えた。全てナサドのおかげだ。……だが一方で、国を混乱させた責を負ったのもまたこいつだった。俺が背負うべきものを全て俺はナサドに背負わせたんだよ」
何かを悔いるようにイェランは手を握りしめた。
イェランがずっと抱えてきた、決して軽くはない事実。
誰もが口を閉ざし腫れものに触るかのように公の場では避けられてきた過去の内側。
動揺するなと言う方が無理な話だ。
イェランが抱えてきただろう苦しみを想像しただけでメイリアーデの胸は苦しくなった。
イェランもオルフェルも、今はそんな様子などまるで見せずに日々を送っている。その裏でどれ程の思いを抑え込み過ごしてきたのだろうか。
国が割れるとイェランが考えてしまう程に一度家族の関係は崩れていたのだ。何も思わないわけがない。
そして事態を打開させようと動いたナサドが今なお責めを受けている。
そこまで知ればどんな言葉だって軽はずみな気がしてメイリアーデは何も言えなかった。
代わりに声を上げたのはナサドだ。
「……まるで私が聖人の行いをしたかのように、イェラン様は仰る。けれど、違います。本当は……本当に龍国外の地を求めていたのは私の方だった」
まるで独り言のように、その声は頼りなくすぐに空気に吸い込まれていく。
懺悔のようにも、感じた。
「あの地で多くのものを得て救われたのは私の方でした。途方に暮れていた私に、あの世界は多くの可能性を教えてくれた」
「あの、世界……?」
おそらく本人も無意識のうちに出てきただろう単語にメイリアーデは反応する。
あの“世界”。
その言い方に引っかかるものがあったのだ。
昔、国から離れた2人が辿り着いた場所を“あの世界”と表現するナサド。
それはつまり、彼らがこの世界ではない場所にいたということだ。
気付いたとたん、メイリアーデの背に冷たい何かが走った。
ドクドクと、胸が耳の奥で音を立てて激しく動く。
「2人は、どういう場所に、いたの……?」
たどたどしく、もつれながら問いかけるメイリアーデ。
答えをくれたのはイェランの方だった。
「この世界ではない、別の世界線にある日本という国だ。そこでは身分というもの自体が存在せず、誰もが皆自分の力で未来を切り開いていた」
「……っ、に、ほん」
それは、メイリアーデが前世に津村芽衣として過ごした国の名。
耳にした瞬間、一気に他の言葉が耳に入っては何も取り込まれず抜けていく。
……ずっと、知りたいと思っていたこと。
どうして前世で出会った彼らが異世界のこの場にいるのか。
聞きたくて聞けなくて、ただただ自分の記憶の中だけで存在していた世界。
3歳で津村芽衣の記憶を引き継いでから14年。
やっと、抱え続けていた謎に少しだけ手が届いた。
それは決して優しくはない答えではあったけれど。
それでも。それでも、ナサドやイェランが伝えてくれた言葉達が本心なのだとすれば。
「その場所に行って2人は……少しでも幸せ、だった? 価値ある時間を……」
衝撃を受けながら、上手く言葉が浮かばないながらも、メイリアーデは必死に声をあげる。
言葉は途中で途切れ、それ以上出てきてくれない。
それでも、どうしても知りたかった。
彼らにとっての、あの日々を。自分と過ごした時間に、少しでも価値を見出してくれていたのかを。
そしてそれにいち早く反応をしてくれたのは、ナサドだった。
彼は強く頷く。真っすぐと曇りのない目でメイリアーデを見つめて。
「この上なく幸せでした。今、この罰を受けていることがあの日々を送ったことの代償なのだとすれば、それすらも嬉しく感じてしまえるほどに」
ああ……
メイリアーデは心の中で言葉にならない声をあげて、それを表に出せない代わりに自分の手を強く握る。
強く握りすぎて震えていた。感覚などとうに麻痺している。
「イェラン様。ですから、どうかご自身をそれ以上責めるのはお止め下さい。全て私が自分で決め自分の意志で行ったことです。オルフェル殿下やご家族の心情を察すれば許されない事をしたのだと思えど、それでもなお後悔のひとつも私はしていない」
淀みなく、何の疑問もなく、ナサドは言った。
捨て身なのではなく、誰かの為に投げ打ったのでもなく、自分が望んで納得した結果なのだと。
罪と思いながらも、それでも過去を幸せな思い出だと。
それほど日本で過ごした日々には価値があったのだとナサドは言ってくれた。
彼をそこまで思わせたのが何なのか、メイリアーデには分からない。
それでもあの日々を宝のように大事に想ってきたのは、自分だけではなかったのだ。
その事実に、体の奥底から熱いものがこみ上げる。
嬉しいと、そうじわじわ沸き上がるこの心は津村芽衣のものなのかメイリアーデのものなのか。
もはやそんなことなど、どうでも良かった。
「……だとしてもだ。なぜ、俺だけが番を得て前と変わらず生きている。罪を償うべきは本当は」
「イェラン様ではございません。貴方様は何も悪くなどない。誰かが償わねばならぬ罪なのだとすれば、やはり背負うべきは私なのだと思っております。それは、イェラン様のためだけではなく、国のため、私自身の為にも」
「……ナサド。だが」
「御心配には及びません。全ては、私が望み自分で選んだこと。責任を持てぬようでは、私が自分を許すことなど出来ませんから。これは私の従者としての誇りなのです」
複雑な事情を、重みのある事情を抱え、津村芽衣の大事な人はここにいる。
決して綺麗なだけではない人生を、それでも必死に受け止めて2人は生きてきた。
苦悩しながら、迷いながら、それでも一歩一歩前を向いて。
……見合える自分になれるだろうか。
いつか、ちゃんと胸を張って真実を2人に話せる自分になれるだろうか。
そう思いながらイェランとナサドを見つめていたメイリアーデは知らなかった。
そのいつかが、もうすぐ目の前に迫っていることを。




