二話 魔王様、敵襲です!
「なるほど。貴方の事情はわかりました」
狭いクローゼット内で事情聴衆が終わると、少女はそう言った。
「信じてくれるのか? こんな突拍子もない話を?」
「はい。信じます。私は嘘を見抜く力があるんです。だから貴方の話は信じます。とっても不思議な出来事ですけどね」
「嘘を見抜く力、か。便利なものだな」
「……そうですね。とってもとっても便利なのです」
そういう少女の表情に影が差した。魔王はそれに気づき、だが何も言えない。
(あーこれこの能力が引き金になって昔なんか事件になった奴だな多分。でもこんな時、何ていえば良いのかわからないの……)
魔王は気の利いた事を言えない男だった。ただ表情を暗くする少女の前でオロオロするだけだ。だが彼女は直ぐに顔を上げた。その表情にはもう曇りはない。
「おほん。それで俺をどうするつもりだ」
「えっと。あと少し質問させて下さい。その後で考えます。あの、さっき言ったように嘘を言ってもわかるので隠さないでくださいね」
「わかった。どんとこい」
魔王は少し破れかぶれになっていた。年下の少女に尋問されるという稀有な状況にパにくっているのだ。
「えっと。貴方は魔王様になって何がしたいんですか?」
少女は恐る恐る、草むらに隠れる小動物のようにビクビクしながら問いかけてくる。
元々、気が小さいのだろう。
「世界征服」
「そ、そうですか。大きな目標ですね」
少女はちょっと引いている。
「ありがとう」
「じゃあ次です。貴方は元人間だっていってましたね。そんな貴方は魔物を大事にすることができますか? 差別しませんか?」
言われて魔王はさっき見た図鑑を思い出した。
(例え足が複数本あろうが、足元が魚だろうが、おっぱいがあれば俺は幸せだな)
魔王は巨乳派だった。そしてストライクゾーンが広い。
「できるぞ。俺の愛は深いからな」
「……! そうですか。ありがとうございます!」
魔王の返答に少女は顔を綻ばせる。
「じゃあじゃあ、次の質問です! 貴方は争いが嫌いですか? この世界を平和に導くつもりはありますか?」
「俺は争いは好まない。平和主義なんだ。世界だって平和なほうが良いに決まっている」
(争うと痛いからなー。痛いのは嫌だ)
言ってることはまともだが、その根拠は実に雑魚キャラである。
「そ、そうですよね! ね!」
笑顔満点で魔王に接近する少女。そのまま魔王の両手をとってバンザイバンザイ。
「うお! 急にどうした。それにち、近い!」
香しく、甘い少女の匂いがはっきりと感じられる距離に魔王は狼狽する。女の子の手の柔らかさを魔王はここで初めて知った。
「嬉しいのです! 貴方、貴方様こそが魔王様に相応しいお方! 私を貴方の側近にしてください!」
「と、とりあえず離れてくれ!」
「申し訳ありません」
謝ってちょっとだけ離れるが、表情はまだ緩んでいる。それにまだ充分近い。
(この子、距離感が近すぎる! パーソナルスペースという概念はないのだろうか!)
「とにかく、お前は俺を見逃してくれる上に、俺に仕えてくれるってことか?」
「はい! 一生の忠誠を誓います! ですから何卒!」
また近づいてくる。魔王はため息をつき、彼女と離れることを諦めた。
「……じゃあよろしく。俺には願ってもないことだからな」
「わぁ! よろしくお願いします、魔王様!」
(どうしてこうなった……?)
魔王は目を覆い、頭を抱える。
何はともあれ、魔王は本当の部下を初めてゲッツしたのだった。
6
「えーと君の名前は何だっけ?」
「ペトラルカです! 種族はホビットです。なんでも好きに呼んでくれて結構ですが、できればペトと呼んでください。お母さんもお父さんも私をそう呼んでいました!」
「そうか、じゃあペトって呼ぶよ。所でペトは何故クローゼットの中なんかで寝てたの?」
「あー……。それは、ここが私の部屋だからですね」
ペトが恥ずかしそうに、モジモジしながら答える。
「え、ここが!?」
「側近なら側に住めと魔王様がおっしゃいまして、ここになったのです……」
「そりゃあ……大変だったな。直ぐに別の部屋を用意しようか」
「いえいえ、住めば都。今ではこの狭さがなんだか病みつきなのです! 是非、このままにしてください! お願いします!」
「えぇ……」
魔王は可哀そうな子を見る目でペトを見る。段々ペトが小動物の様に見えてきた。ネズミなどといった小動物は狭い場所を好むのだ。
「魔王様のお名前はなんですか?」
ペトはそんな魔王の様子に気づかないのか、普通に質問する。天然なのかもしれない。
「逆に聞くけど、魔王の名前はなんだったんだ?」
「アルタイル様です」
「ふーん」
(夏の大三角みたいな名前だな)
「俺のことは魔王って呼んでくれ。前の奴と同じようにな。その方が自然だし」
「お名前、教えてくれないんですか?」
残念そうなペトラルカ。しかし魔王は申し訳なく思いつつも、過去の名前を教えるつもりはない。異世界の魔王と入れ替わるだなんて、非現実的な状況である今、自分の本名を口にするのは、風情に欠ける気がしたからである。
「もう、捨てた名だからな。俺は、過去を振り返らない主義なんだ」
魔王、渾身のどや顔。このセリフが言いたいだけだった。
「……! かっこいいです!」
だが一名。アホな女の子、ペトラルカはそんな魔王を尊敬の眼差しで見つめるのだった。
「そ、そうか? かっこいいか?」
「はい!」
力強く頷かれ、魔王は顔をそむける。その顔は少し赤くなっていたが、ペトラルカが気づくことはなかった。
(やべー。この子ピュアだ。冗談とか真に受けるタイプだ。今度から気をつけよ)
「コホン。ところでペトには聞きたいことがあるんだ。それも沢山。この世界の事。魔王の人間関係とか。俺は入れ替わったばかりだからさ。何にも知らないんだ」
「いいですよ。何でも聞いて下さい。お役に立ちたいんです。あ、多分かなり掛かると思うので今日はお昼と夕食はここに運んできてもらうことにしましょう。それに何も知らない状態で出歩くとボロが出る可能性が高いですし。そうなったらとっても大変です」
(すでにボロ出しまくったのは黙っておこう)
「ありがとう。そうしてくれ」
ペトの妥当な提案を承諾し、それに感謝する。そんな魔王をペトはジッと見つめる。
「あの、どうした?」
「えっと、魔王様にありがとうなんて言ってもらえるなんて可笑しくて。前の魔王様だったら絶対いいません。そもそも私の話聞いてくれないですし」
ペトは少し寂しそうにそう言った。
「……前の魔王はどういうヤツだったんだ?」
「アルタイル様は……。その前に魔王という地位について説明が必要ですね」
「そ、頼む」
もう魔王はこの側近の前でキャラを作って魔王を演じようとは考えていない。情けないところをもう幾つも見せている。故に諦めて自然体で接した。
「魔王はどのようになるものかご存知ですか?」
「んー。魔王ってのは強いヤツがなるんだろうしなぁ。魔王の席が空席になったら一番強い家臣が指名されるのかね?」
「そうやって魔王になることもありますが……。一番大事なのは、この魔界で最強であるということです。つまり誰であろうが、どんなに人格に問題があろうが最強なら問題ないのです。身分も財産も関係ありません。流れの旅人でも、魔王を倒せば魔王になれるのです」
人格に問題がある、という所でペトは少し言いにくそうになる。
「その旅人がアルタイルってわけか?」
「はい。アルタイル様は、ある日突然魔王城に乗り込んでいって当時の魔王をその他家臣もろとも皆殺しにしました。その日から魔王はアルタイル様になったのです」
それを聞いて、魔王は背筋が冷たくなった。魔王もかつて対面した時を思い出す。恐ろしい男だった。
(落ち着け。今その力は俺にある、はずだ)
「滅茶苦茶だな。それで民衆の反発はないのか?」
「ありません。人間が神を信奉するように、魔界の民は力を信奉するのです。より強い力には従う、そういう風になっています」
ペトは少し悲しそうに言う。
「アルタイル様は魔王になりました。しかしあの方は魔王になっただけ。魔王の責務を果たすことは一切ありませんでした。あの方が魔王であった十年間、ただの一度も」
「魔王にも仕事があるのか?」
完全にやりたい放題かと魔王は思っていた。
「有事の際に、外敵の排除が魔王様のお仕事です」
「ふーん。でも有事の際だろ? 普段はなにもしなくていいわけか」
魔王は日本の自衛隊を思い出す。基本的に働いてないイメージ。大変失礼な魔王である。
「でも大事なんです! とっても大事なお仕事なんです」
ペトの声から魔王は悲痛なモノを感じ取る。
「……。もしかしてその働かない魔王のせいで、今の魔界はやばいのか?」
「それが荒れ放題でして……。各地の統治機構は腐敗し、魔獣があたりを跋扈しています」
「魔獣? 魔物と違うの?」
「知性があるのが魔物。知性がないのが魔獣。しかも魔獣は知性を持つ生物を狙う外敵で、年々増えます。それを定期的に減らすのも魔王様のお仕事だったんですが……」
「全部サボってたわけか。ひでー奴だ。それで奴はいつも何をしていたんだ?」
「……毎日お酒を飲んで、女性とその……え、エッチなことを……」
ペトの声はだんだんと小さくなる。反対に顔はどんどん赤みが強くいなっていく。
「わ、わかったからもう言わなくていい」
(十年もそんな羨ましい生活を……。魔王め! 待てよ?)
そこで魔王に下種な発想が降ってくる。それをそのまま口にしてしまった。
「もしかしてペトも魔王の……」
「わ、私は違いますから! 確かにそんな目的で、魔王様に誘拐されて側近にされてしまったんです。側近になる実力もないのに! でも魔王様は嫌がる女の子に乱暴だけはしない方だったので……」
ペトは両手をバタバタさせて否定した。
「暴力的な奴にも意外な一面があるんだな。女には優しかったのか」
「少なくとも男性に対してよりは、ですが。男女関係なく、歯向かう者は皆殺しです」
「……なるほど。大体わかったよ。魔王の性格が」
(暴力的。女好き。酒好き。働かない。我儘。しかし最強。周囲からしたら手に負えんな)
「今魔王様が想像している姿を、より十倍悪くしたのがアルタイル様です」
言ってからペトは急に周囲をうかがいだす。
「どした?」
「あの。今のをアルタイル様に聞かれてたら、私は死んでしまうなと思って」
笑顔を作ろうとしているが引きつっていている。
「心配するな。もう俺が魔王なんだからさ」
深く考えず、魔王はそう言った。
「嘘じゃ、ないですね。本当に貴方は魔王様……」
ペトの深紅の瞳が魔王を見つめる。尊敬以外の色も混ざっていそうなその瞳に魔王は緊張してきた。もう一度言おう。魔王は童貞だ。
「あ! そろそろお昼になるので、お食事をここに持ってくるように頼んできますね」
不意にペトは飛び上がって部屋から出て行った。
(危ない……。あのまま見つめられていたら、何か勘違いしてしまったかもしれない)
自分の心臓が早鐘を打つのを魔王は感じていた。
(しかし――)
今ペトから聞いた話。魔王がどんな人物だったか知る事。それは目的の一つだった。一つの目的を達成したというのに、ポジティブな気分になれない。力以外、全てが足りない魔王。それが現在の自分の立ち位置だ。今まで魔王はその力だけ周囲を従え、好き放題に振舞うことができた。でも、入れ替わった自分に、その力がなかったら?
(魔王のこの体に秘められた力を俺は全部ひきだせるのか?)
それにもし失敗すれば、次に打倒されるのは自分だ。その瞬間を考えるだけで、心が冷たくなる。
加えて、現在の魔界はやばいらしい。それを修正するのも魔王の仕事だ。
(俺は……魔王としてやっていけるのか? 俺は、ただのガキなんだぞ)
魔王はやっとことの重大さに気が付いた。魔王は魔界の主。世界の行く末を、膨大な命を左右する重要なポストだ。
「はぁ」
魔王は大きなため息をつく。そのタイミングで部屋の扉が勢いよく開き、そのままペトが慌てた様子で入ってくる。
「ま、魔王様! このままでは死んでしまいます!」
「は?」
魔王は硬直した。
7
「待て。誰が死ぬんだ?」
「……魔王様が、です」
「そう……。なんで?」
「あと少ししたら竜人のリーシャさんが襲ってきます! それをこの子たちが伝えてくれたのです!」
ペトの両肩には一羽ずつ小さな鳥が止まっている。
「……鳥が?」
「ただの鳥じゃなくて私の使い魔です。魔王様の身辺警護の為に偵察に飛ばしていた内の二羽です」
魔王は感心したようにペトと鳥とを見比べる。
「ほー便利なもんだな。大事な情報ありがとう」
「魔王様! リーシャさんはとっても強い方なんですよ! 魔界でも指折りの魔人なんですから! もっと危機感を持ってください!」
いまいち緊張感のない魔王に、ペトは思わず大声をだしてしまう。すると魔王はゆっくりと椅子から立ち上がり、ペトに背を向けて窓から外を眺めだした。
「……」
魔王は口を固く閉じ、ペトに返事をしない。
「……? 魔王様?」
魔王の様子がおかしいことに、魔王が震えまくっていることにやっとペトは気づいた。
(は? なんだこの急展開! 初日にして魔界でも屈指の実力者に狙われるの? ありえねーありえねーよまじで! まずは雑魚からなんじゃないの!?)
魔王は無言だ。しかし内心では醜く動揺しまくっていた。魔王は昨日まで世界征服を志すだけの痛い高校生だった。そんな彼は勿論、命を懸けた状況に身を置いたこともなければ戦いに対する心構えもない。
「……震えてますよ?」
おずおずとペトが声をかけてくる。魔王は振り向かない。振り向けば情けなく怯えていることがばれてしまう。それを隠す位のプライドは彼にはあった。
「が、ガハハハッ。これは武者震いというヤツだ。ククク、リーシャという竜人、俺様の初戦には相応しい相手ではないか」
「……魔王様。戦いが怖いのですか?」
不意に、ペトが核心を突いてくる。魔王は背を向けたままだ。
「馬鹿いえ! 俺は魔王なんだ。怖いものか!」
魔王は声すらも震えている。
「嘘です。私には分かります」
魔王は余裕を失っていたため、ペトの能力を忘れていた。
(嘘判定か……)
自分の情けない心内は暴かれた。最早、何を取り繕っても無駄か。魔王はやっとペトの方に向き直った。
「……!」
ペトは魔王を見て、思わず息をのむ。魔王は泣いていた。暴力の象徴たる魔王は現在、命の危機を前にして自分の命惜しさに涙している。そんな光景は昨日までの魔王なら絶対にありえないものだった。
外見は同じなのに、中身はこうも違う。
「さっきまで偉そうにしていて悪かった。俺は……魔王になれる器じゃないな。まだ戦ってもいないのに、怖くて仕方ないんだ」
大粒の涙をぽろぽろ流しながら、魔王は小さな側近に打ち明ける。
「魔王様……?」
困惑するペトラルカ。
「でもしょうがないだろ! 俺はなんの特別な力もない、無力な学生なんだから! ……俺の夢は世界征服だとか、もうペトには話したよな? それに嘘判定は反応しなかったか?」
「えっと……。はい、確かに少し反応しました。でも私も良くわからない程に、微妙な反応だったんです。だから、気のせいかと思ったのですが……」
言いずらそうに、ペトラルカは言葉を紡ぐ。
「そうだろう? あれは冗談なんだから。本気で実現させようなんて、考えちゃいなかったんだ。ごっこだよ。世界征服ごっこ。俺はさ、幼い頃に両親を亡くした。多分よくあることだろう。ちょっとした不運だ。それでも俺は弱くて、そんな現実に耐えられなかった。そんなある日見たアニメ。主人公が世界征服を目指すんだ。そんでそいつ、楽しそうだった。そんだけ。そんだけの理由で、俺は世界征服したいとか言うようになった。そんな妄想にかまけている間だけ、俺の心は満たされたんだ……」
魔王は壊れた人形のように、勢いよくまくし立てた。下を向いて俯き、ペトラルカの顔を見ようとしない。見れないのだ。彼にとって、ペトラルカのように、真実に大きな夢を持つ存在はただただ眩しかった。
「魔王になる儀式だって、本当に遊び心だった。本気で期待なんてしちゃいない。暇つぶしだ。けど何の偶然か、俺は今、魔王だ。俺が魔王? 俺のようなただのガキが? 務まるわけがないよ。俺には自信なんて一かけらもない。ペトラルカお前はまだ、こんな俺に仕えると言えるか?」
魔王は問うた。しかし直ぐに返事はない。気まずい沈黙が場を支配する。
「……ちょっと待ってて下さい」
情けない魔王を一人残して、ペトは部屋を出ていく。扉が普段よりも幾倍か大きな音を立てて閉まった。
ペトラルカ、魔王の側近。彼女はこの情けない魔王を見て、腹を立ててしまったのだろうか?
(俺に愛想をつかしたか。当然だ。強くない魔王は魔王じゃない。彼女は魔王の側近、最強に仕える従者なんだから)
理屈が頭で理解できても、魔王はペトに側にいて欲しかった。ペトに忠誠を誓われた時、魔王は嬉しかったのだ。彼女は短い時間ではあるが、彼の孤独を癒してくれていた。
(でもそれは終わりだな……)
魔王は鏡で再び自身の体を観察する。
筋肉質な巨体。禍々しい二本の角。しかし顔は涙にまみれ、歪んでいる。
「なぁ。俺は勝てると思うか? あんたは最強なんだろ?」
勿論、その質問に返答はない。魔王は苦笑して手近な椅子にどっかりと座りこむ。
(ペトは……)
彼女は待っていてと言った。その意味はなんだろう? 竜人とやらを連れてくるのだろうか? それとも――。いや、やめよう。今、自分にできることはない。彼女は待てと言った。だから、待とう。一瞬でも俺に仕えると言ってくれた彼女。彼女になら俺は何をされていい。
ペトは言葉通りに直ぐに帰って来た。
「魔王様、お待たせ、しました。はぁ」
ペトは走ってきたのか息を切らせている。出ていく前と違うのは服装。彼女に似合う可愛らしい服ではなく、今は重そうで不似合いな鎧を身につけていた。
「ペト、お前……」
「魔王様! 魔王様が怖いなら、私が前で戦いますから! 魔王様は後ろで大丈夫です!」
言ってペトは歩き出すが、慣れない鎧のせいか何もないのに足を滑らせ見事に転ぶ。その際に彼女は魔王の机にぶつかってしまった。机は倒れ、中にあった物が辺りに散乱してしまう。
だがそれを見ても魔王は笑わないし、表情を緩めもしない。ただ少し悲しそうに顔をゆがめた。
「ペト……。お前は魔界を良くしたいんだろ? それは俺に仕えなくても叶えられるし、俺みたいな偽物の夢じゃない。このままだと、死ぬだけだろう? お前だけでも逃げろ。俺は逃げたって、逃げ切れる自信すらない」
「そんなこと、言わないでください」
ペトはいいながら起き上がった。
「貴方じゃないと。人間で、しかも弱い。戦いの怖さで泣いちゃうような貴方だからこそ、私はついて行きたいと思うんです。私も弱いから。弱くないと、弱い人の気持ちはわからないし、守ることはできないですよ、多分」
そして深紅の瞳で、魔王の黒の瞳を見つめた。
(俺には嘘判定の能力は無いけど、わかった。ペトは本気だ。俺に本気で仕えようと思ってくれている)
魔王はペトラルカを信じた。彼女が魔王にそうするように、純粋に信じようとした。
「俺は良い部下をもったよ」
魔王の瞳からは、また涙があふれている。けどきっと、それはさっきまでとは違う種類の涙。恐怖からくるのとは、別の涙だ。
「ただの部下じゃないです。私は魔王様の側近ですからね」
クスリと、ペトはいたずらっぽい笑みを浮かべる。魔王は慌てて涙をぬぐう。今更だけど、女の子前で自分だけ泣いているのが恥ずかしくなったのだ。
「コホン。じゃあ側近。俺は後ろで何をすればいい?」
「魔法を打って下さい。前は精一杯、私が支えます」
言われ、魔王は申し訳なさそうに腕を組んだ。
「あのな……。俺は魔法なんて一つも使えない。俺の世界には魔法なんてなかったからな」
「それも、嘘じゃないですね……。わかりました。じゃあこれ読んでてください」
ペトはクローゼットの自室から一冊の本を持ってきて魔王に渡した。
「これは……!」
魔王は目を丸くする。表情には困惑の色が深く浮かんでいた。
「これできっと魔王様もパワーアップできるはずですよ!」
「簡単そうにいうけどなぁ……。決戦前に読むものか? 間に合う気がしない」
「が、頑張ればきっと大丈夫ですよ……!」
ぺトの根拠の無いフォローを受け流しつつ、魔王は再び渡された本に視線を落とす。
(どう考えても無理だろ! 一夜漬けで大学受験に挑む以上に難易度が高い気がするぞ!)
何を隠そう、ペトラルカが渡してきたのは『初級魔法教本』だった。彼女は、今から決戦までの短い時間に、魔王に魔法を覚えろと言っているのだ。いくらなんでも、無理難題としか思えない。
しかし無理難題であるとはいえ、諦めるわけにはいかない。魔王は藁にもすがる思いでページを捲る。
(……! あったぞ。今からでも習得できそうな魔法が一つだけ!)
だが予想に反して、すぐに習得できそうな魔法はあった。魔王は食い入るようにページを読み込む。思いがけない収穫にわくわくしていた彼の表情は、読みすすめるにつれ、しかしすぐに絶望的に変わってしまった。
(この魔法は使えるようになるかも知れないが……。使ってはいけない魔法だ……)
あまりのショックに魔王は膝をつき、俯いてしまう。一回期待してしまった分、彼のショックは大きかった。
(ああ、やっぱり俺は今日死ぬに違いない。俺だけならいいが、ペトラルカを巻きこむわけにはいかないだろう。やはり、今からでも彼女に逃げるように説得しようか……)
もはや諦めつつある魔王の視線には、見覚えのある宝石が転がっていた。さっきペトラルカが転んだ拍子に床に散らばったものだ。
(……。おかしいな。この変な形の宝石だけ、どこかで見たことがあるような気がする)
魔王は床に散らばる無数の宝石から、たった一つだけの、見覚えのある宝石を手に取った。じっと、それを眺める。
(俺はこれを何処で見たのだろうか? 宝石なんて俺には無縁のはずだが……。――! そうか、あの時の!)
不意に、魔王は思い出した。そして目を見開いて、その宝石と、『初級魔法教本』とを交互に熱く見つめる。
「この二つがあれば、俺は勝てるかもしれない!」
魔王の興奮して震えた声が、部屋に鳴り響いた。彼は目を瞑り、手持ちのカードで如何にして勝利を掴むことができるかを考える。考える。