エピローグ1
「魔王様。起きて下さい。もう朝ですよ」
「むにゃむにゃ。まだ眠いよ……。あと五分」
魔王の部屋。日立はなんとか前回の死線を潜り抜ける事ができた。もう命の心配はないらしい。あれから三日が立った。医者の話ではもう今日から普通に生活をしてもいいと言う。頑丈すぎる魔王の肉体に感謝するべきだろう。
「起きて下さい、魔王様」
「あー。あと五分だから」
再度、リーシャが魔王を揺する。しかし魔王は抱き枕を硬く抱きしめ、離そうとしない。
「……。えい」
「のわぁぁぁあああ!?」
魔王が跳ね起きる。リーシャが魔王に電流を送りこんだのだ。
「お目覚めですね。おはようございます」
「おい! 普通起こすためでも電流を流すか!?」
魔王はすっかり目が覚め、リーシャの肩を掴む。
そしてその肩越しに時計が見えた。時刻は、午前四時。
「は? 時計の故障? まだ四時だけど?」
「いえ。故障ではありません。今は午前四時です」
リーシャは悪びれずに言う。
「え? じゃあなんで起こしたの? もしかして緊急事態なのか? だとしたら電流流してまで起こすのも納得だ。大きな声をだしてごめん」
日立は頭を下げた。良く考えれば、リーシャが理由もなくこんな時間に起こすわけがないのだ。
「いえ。現在は何もありません」
「ん? じゃあなんで起こした?」
「ただの私的な嫌がらせです」
「えぇえ!?」
日立がマスオさんみたいな驚き方をした。
「な、なんでそんな事をするのかな? リーシャさん?」
「……魔王様に心当たりはありませんか?」
「……あ」
心当たりなら、ある。日立は懸命に助けようとしてくれるリーシャの善意を踏みにじり、リーシャを物理的に眠らせたのだ。それが三日前。
見ると、リーシャは低い位置から日立をジト目で非難していた。
幼女メイドの無言の非難は彼には堪える。
「ごめん……。あの時はその、俺が悪かったよ」
「なるほど。素直に謝って下さると」
「ああ。俺にできる事ならなんでもするよ。だから許してくれないか?」
「ほう。なんでも、ですか……」
キラリと。リーシャの目が怪しく光る。怪しい光。日立は混乱した!
「あ、ああ」
「なら誠意として、三回まわってワンと言ってください」
「お前もか! それ、魔界では伝統的な謝罪の形だったりするのか!?」
日立はつい三日前にその要求をされている。普通、こんな要求は頻繁にされるものではない。
「いえ。ペトから聞きました。魔王様はこれがお好きなのでしょう?」
リーシャがほほ笑む。悪気はないようだ。
「そんな事実はない!」
「そうですか? あとは何でしたっけ……。そうだ、誠意の分割払いも許可しましょう」
「そんな許可はいらない!」
ペトの悪影響が凄い。
「こうすれば喜ぶと、ペトから聞いていたのですけど……」
「喜ばない! 俺は犬のマネをして喜ぶ趣味はない!」
ていうか、ペトにそう言われてリーシャが信じてしまった事実が魔王を悲しませる。
「そう、なのですか。これは困ってしまいましたね」
リーシャが悲し気に俯く。
リーシャはペトに吹き込まれた通り、この一連の流れを行った。でもそれは日立を喜ばせる為であったと彼はやっと気づく。
(リーシャは良い子なんだよな……。ただ、メイド狂いなだけで。側近に比べれば……。俺は犬のマネをして喜ぶ変態という汚名を背負ってでも、彼女を悲しませるべきではなかったかも)
「そうだ。思いつきました。さぁ、こっちへ来てください」
リーシャが日立を手招きする。だが既に、二人の距離は遠くない。
一・五メートル。立ち話をするにあたって適切な距離だ。
(これより近づけって!? それはかなり、緊張するな)
日立は恐る恐る、近づく。
「このくらいか?」
「まだです。まだまだです」
距離は半分以下に縮まっている。それでもメイドは不満そうだった。
(ええい! ままよ!)
日立は思い切ってあと一歩を踏み出した。もうほぼ密着している。
「あーこれではダメです。今の私は小さいので。魔王様、屈んでください」
「こ、こうか?」
言われるがままに腰を落とす。
「うん。これなら大丈夫ですね」
次の瞬間。日立はメイドに抱擁された。柔らかな肢体と花のような慎ましい香りが日立を優しく包み込む。
「は? な? えぇえ!?」
再びのマスオさん。
「魔王様。いえ、日立様」
「は、はい」
「もう、自分から死ぬようなことはしないで下さいね。貴方様は私のご主人様。代わりなどいないのですから。死なれてしまうと、私は困ってしまいます。わかりましたか?」
「う、うん」
日立は言われるがままに頷くしかなかった。今の彼はまともに思考できていない。少したって、日立は抱擁から解放された。
(名残惜しい……。いや待て、絶対あれは犯罪的な絵面だっただろ!)
「と、これで魔王様は元気になりましたかね。これもメイドの務めです」
「そんなメイドの務めは知らないが」
でもあればいいな、と思う日立だった。
「それでは魔王様、朝から失礼いたしました」
もう用は済んだとばかりに、リーシャはトテトテと出口に歩いていく。
「あ、うん。心配かけてごめん。もう俺は大丈夫だから」
「いいのですよ。これからも心配させて下さい。心配するのも、メイドの務めですから」
最後に一つ、ウインクをしてリーシャは出て行った。
「はは……。ホント、頼りになるメイドだよ。俺には勿体な過ぎる。……って駄目だ! こういう自虐は! 相応しくなれるように頑張らないと!」
日立は自分の頬を強めに叩いて喝を入れる。
「……いてー」
少し、強すぎたようだった。
「あ」
「お」
その少しあと。まだ午前五時。空が微かに明るくなってきた時間。
日立とライラが魔王城の中庭でばったりと遭遇した。日立はなんとなく寝直す気になれず散歩をしていた最中だ。
適当に城の内部を歩いていると、素振りをしているライラが視界に入った。そして二人は出くわしたのである。
あんな事があった後だ。お互いに少し、いやかなり気まずい。
「あー。おはようライラ」
「お、おはよう!」
ライラは頬を赤くして、少し目をそらす。
「い、いや。私も日立に大けがをさせてしまった。だからそれで帳消しだ」
「だけど――」
「いいんだ。私は気にしていない。というかこれ以上言うなら怒るぞ」
さっぱりとした彼女の態度が、やはり日立には心地よい。
(やっぱり、ライラは良い子だなぁ)
「わかったよ。もう言わない」
「うん。そうしてくれ。それでその、だな。私は、日立に聞きたいことがあってだな……」
「うん?」
ライラにしては珍しい事に歯切れが悪い。顔を更に赤くし、俯く。
指を交差させてもじもじしている。その姿は実に愛らしい。
「お、お前は私の事を好きだと言ったな! だから……これからどうするつもりなのだ!」
不意にライラは日立との距離をググっと縮めた。流石は一流の戦士である。
「ああ。決まっている」
日立がきっぱりと言う。その男らしい返事に、ライラはドギマギしてしまう。
「ど、どうするのだ?」
「ライラ、俺の師匠になってくれ!」
時間と空間が凍る。
周囲にいた野生動物は危険を察知し、一目散に逃げていく。
「は? 日立、すまない。良く聞こえなかった。もう一度言ってくれないか?」
「何度だって言う。俺の師匠になってくれ、ライラ!」
ライラの顔が赤くなる。これは怒りの赤だ。口元がひくひくと動いている。
「お前、私が好きなのだろう?」
「だからさ。ここまで尊敬できる最強の人物に師匠になって貰えれば、もう最高だぜ!」
ライラにとっては悲しい事に日立の好きは、恋愛的なものではなかった。
勿論。女性としての魅力も大いに感じてはいる。しかし日立の自己評価は低い。彼女のような偉大な人物に釣り合う訳がないと考えていた。だからこそ、日立が彼女を女性として愛する事は今のところは、ない。
「ふふふ。そうかそうか。私が師匠ね。なるほどなるほど」
ライラが俯き、肩を震わせる。彼女の豊かな赤髪が表情を隠す。
「どうだ? 受けてくれるか?」
「ああ! 受けてやるとも! よーしでは最初の鍛錬を開始しよう! 模擬戦の開始だ! うがーっ!」
ライラが犬歯をむき出し、日立に襲い掛かった。
「の、のわぁあああ! なぜだぁぁあああ!」
日立はそれから午前中の間、ひたすらライラに小突きまわされたのだった。