十話 揺らぐ魔王
場所は変わって同時刻、魔王の部屋。そこではいつものメンバー、魔王、ペトラルカ、リーシャの三人がいた。魔王は難しい表情で椅子にどっかりと腰掛け、後の二人はその側に立って控えている。魔王は入れ替わった初日に、中身がこの二人にばれてからは、自分の前では楽にしていいと何度も言っているのだが二人がそれを聞き入れることはない。「従者と主が同格なんてあり得ない」と返すのみだ。
魔王が難しい顔をしている理由。それはやはりライラに関する問題だった。カレー作りの後に一緒にボードゲームをするという林間学校のようなコンボをお見舞いしたが、その結果が魔王の予想と大分かけ離れていた。
魔王には女心というモノが分からない。篭絡の仕方なんて尚更だ。だから必死に考えた結果、自分の楽しかった林間学校を思い出した。あれを再現すれば、とりあえず楽しませることはできるのではないか、と破れかぶれの作戦だったのだ。
その結果、おかしな事になった。篭絡しようとしていたのに、こちらが篭絡されそうだ。ライラは基本的に、顔には仏頂面を張り付けている。それでも彼女は美しい。そんな彼女が当たり前の事を教えるだけで魔王を尊敬の眼差しで見つめてくれるのだ。終いには「今日はたのしかった」と邪気を全く感じさせない綺麗な笑顔を見せてくれた。
それを見た瞬間に、魔王は自分のしている事がクズ過ぎて恥ずかしくなった。恥ずかしすぎて、消えてしまいたくなった。だからこそ魔王は逃げるようにライラの部屋を抜け出したのだった。
あの純粋で無知で、だけどひたむきな彼女を騙そうとするなど……。そんな外道な事をして繋いだ命にどれだけの価値があるのだろうか? もういっそ彼女の勝負を受け入れて、死んだほうがマシかもしれない。楽かも、しれなかった。
そんな感じで、魔王は罪悪感に良心を痛めまくっていた。
「魔王様、大丈夫ですか? ずっと辛そうですけど?」
そんな魔王をペトラルカが心配そうにのぞき込む。魔王はそんな側近とも目を合わせられない。彼女もまた純粋な少女だ。自分が目を合わせるだけで汚してしまうような気がした。
「魔王様。結果を聞かせてください。あの赤ゴリラの篭絡は順調ですか? あいつは無知ですからね。そう難しいことではないはずです」
そんな傷心魔王の耳を揺さぶる下種な発言。勿論、その声の主は子供メイドなリーシャだった。魔王はリーシャを真っすぐに見る。こいつは別に純粋ではないからいいのだ。リーシャは子供の体になってからはそれに精神を引っ張られることはあるものの、まだまだ腹黒い一面も健在である。
「ライラを赤ゴリラって言うな。あんな女の子にそんな事言ったら可哀そうでしょうが」
「いいえ。奴は赤ゴリラです。戦い以外には何の価値も見出さない赤いゴリラなのですから。奴はメイドや芸術といった高尚な文化を理解できないのです」
やれやれ可哀そうなことだ、リーシャは首を振る。彼女の中では、メイドは最高の芸術に他ならない。
「それなんだよ。なんであの子は戦いにばかりこだわるんだ? 料理もしたことない。遊びもしたことがない。プレゼントって言葉も知らなかったんだ。流石におかしいだろ? 先代の魔王の娘だったのなら、いい暮らしをしていたんじゃないのか?」
魔王は浮かび上がる疑問をぶつける。ライラは魔王の予想よりも、ずっと無知だったのだ。
「むしろ、魔王の娘だったからライラは赤ゴリラなのですよ。魔王様はこの世界に来てから日も浅いし、魔王城から殆どでていないからわからないかもしれませんが、魔物に一番求められるのは力なのです。力のない魔物にはなんの権限もありません」
「……それは聞いた。ライラもそう言っていた」
「ライラは魔王の娘として恥ずかしくないようにと、強くあることを望まれました。普通の魔物なら、周囲よりも強くなればそれで満足します。けどライラは? 彼女の周りにいたのは魔王たる父、それに戦士長バルギウス。彼女の目標は高すぎたのです」
「なるほど……だから、なのかな」
魔王は眉根を寄せてため息を吐く。
「まぁこれは私の予想なんですけどね。ただ理由もなく鍛錬が大好きなだけかもしれません」
憮然として言うリーシャに魔王は苦笑するしかなかった。
そして、納得もしていた。あれ程戦いに執着し、それ以外を切り捨てているのには生まれが関係していたのか。今日、魔王の料理や遊びに付き合わせることができたのも、結局は戦いのためだ。魔王との決闘を餌としてぶら下げて、何とかライラをコントロールしているに過ぎない。
そんなライラの在り方に魔王は尊敬半分、同情半分だった。その生き方はかっこいいけど、悲しい気もする。戦い以外の全てを切り捨てるなんて、自分では考えられない。ライラからすれば、そんな同情は余計なお世話に違いないが。
「ライラを同情する必要はありませんよ。魔物としてはあそこまでの強さを持つ彼女は魔界のヒエラルキーのほぼ頂点なんですから。彼女が望めば、魔界でなら何でも手に入るでしょうね」
「でも、なんでも手に入るのに、ライラにはその全部がいらないんだ。求めるのは戦いだけなんだろ?」
皮肉なことだ、魔王は眉間のしわを深くする。
「まぁ、その通りですね。今は魔王様との死闘を望んでいます。そして魔王様を倒したら、次は戦士長バルギウスでしょうか。そこまで倒してしまうと、もう魔界に彼女の敵はいませんから……次は人間界でしょうか?」
「そうやって自分が死ぬまで戦うのか? そんなの、可哀そうじゃないか」
「だから言ったでしょう。ライラは赤ゴリラだと」
リーシャはライラを突き放すように言うが、どこか心配の色がその声音に現れていた。そこで魔王はやっと気が付く。
「リーシャ……。お前、ライラの心配をしていたのか? だから俺がライラに戦い以外を教えるように仕向けたのか?」
最初に魔王に篭絡するように言ったのはリーシャだ。ここまで全てがリーシャの描いた作戦通りなのだろうか?
「いいえ。そんな事はありません。ただの偶然ですよ。私はただ魔王様に最適の助言をしただけですから。勘違いしないで下さい。私にはあの赤ゴリラがどうなろうと知ったことではありませんよ」
頬を膨らませるリーシャ。それを魔王とペトラルカは苦笑した。
「リーシャちゃん、素直じゃないんだから……。そういえばリーシャちゃんとライラさんは顔見知りなんだよね?」
「武芸大会では大体、あのゴリラと決勝で戦うことになったんですよ。魔界百歳以下の部では私とライラの二強でしたから。私はそもそも大会なんて出たくなかったんですが、部族全体がうるさかったので出ざるを得なかったのです」
悪い記憶を思い出すように、ライラは顔をしかめる。
「百歳以下の部って……。何歳なんだお前は……」
「内緒です。メイドは年齢不詳なので」
魔王はリーシャの答えに更にげんなりする。そのまま魔王は希望を求めてペトラルカに視線を移す。そんな魔王に見つめられ、ペトラルカは慌てた。
「わ、わ、わ。私は二十四ですよ」
「十五位にしか見えない……。てかリーシャに至っては十歳以下にしか見えない……」
魔界での見た目による年齢詐欺に苦悩する魔王だった。もう自分が十八だとか言えない。
「それで、魔王様。どうなんでしょうか?」
「どうって、何が?」
リーシャの問いに、魔王はすっとぼける。
その魔王の反応は、メイドにお気に召さなかったらしい。プクッと頬を膨らませ、リーシャはすねた。
「だから、ライラの事ですよ。ライラ篭絡は順調なのですか?」
「本当に、リーシャはライラを気にかけているんだな」
そんなリーシャを見て、魔王は素直にほほ笑む。
魔王はまだリーシャとの付き合いは浅い。そんな魔王から見て、彼女は不思議で今ままでの魔王の人生の中で出会った事のないタイプだ。
気高い矜持を持ち、それを遵守する事を人生の本懐としている。
そんなリーシャを、魔王は理解できていなかった。
しかし今、リーシャがライラを気遣う所を見て、やっぱり彼女もメイド自分と同じような心の動きがあるのだと安心していた。
「……もう。本当にそんなのではないですから。その顔を辞めてください」
「あ、うん」
幼女のジト目に、魔王は顔を引き締めた。
「私は、ご主人様である魔王様。貴方様を気にかけているのですよ?」
「はぁ? 俺?」
突然の予期せぬ言葉に、魔王は目をぱちくりする。
「魔王様、今一度気を引き締めて下さい。いいですか? ライラは純然に、我々の敵なのです。彼女がその気になれば、魔王様を簡単に殺害できる敵です。それを貴方様は、彼女と過ごすうちに忘れてしまってはいませんか? 魔王様のメイドである私が、主人の安否を気遣うのは当然なのです」
そう言われて、魔王は考えた。
(確かに――)
確かに、俺はライラが己を殺しに来た敵である事を分かってはいても、完全に正しく認識してはいなかった。最初は認識し、警戒していた。しかしいつしか、彼女と接する内にその警戒はほぐれていってしまったのだ。
「そうですよ、魔王様。ちゃんと警戒しなきゃ、ダメです」
見ると、側近も心配そうに魔王を窺っている。
「ごめん。そうだよな。警戒しなきゃだよな。生き残るためには、完全にあいつを騙さないと、だよな」
「そうです。だから、あの女に同情なんて絶対にしないで下さい。そうしないと、魔王様。貴方様は絶対に死にます」
呆けたように呟く魔王。それを見て不安の色を濃くしたリーシャは、再度魔王に念を押した。
「……わかった。ライラの篭絡だけど、今のところは上手くいってると思う。明日も、この調子で上手くやってみるよ。あいつを、騙す」
その後、現在の経過を簡単に話し三人は解散した。
側近とメイド、その両者の顔は明るくない。二人とも、魔王の様子を心配していた。
しかし魔王は二人を追い出す。一人になりたかったのだ。
「あの子を騙す。本当にそれでいいのか?」
あの純粋すぎる少女、ライラを篭絡できれば確かに魔王の陣営は強化される。今後、魔王は死の恐怖に怯えずに安穏と暮らせるようになるのかもしれない。
ライラの力を借りれば、そのまま魔界を平和にできるかもしれない。
魔界を平和にしたいと言うペトの夢。それが現在の魔王の一番の目標だった。
そして魔界を平和に導いた魔王に自分がなれば、おのずとリーシャの最高の主人に仕えるという夢すらも達成できるかもしれない。
(しかし――)
その時、玉座に座っている魔王は俺じゃなくてもいいんじゃないか? そう、それがライラでも。魔王がライラになっても、魔界を平和に導けるのではないだろうか?
寧ろ、その方がすんなりと成功する気さえした。彼女には先代魔王の娘としての名声と実績がある。今の魔王にはそれもなく、そしてあるとされる力すらも偽物だ。
(所詮、俺は異物だ。ここでも。どこでも)
「俺は、本当に必要なのか?」
魔王の声が、たった一人ぼっちの部屋に虚ろに響いた。
おもむろに魔王は自分の頬を強くつねる。
「ははは。痛いな。やっぱり妄想じゃない、よな」
魔王は弱弱しく笑う。全くもって魔王には似合わない笑みだった。