夕焼け少女は黄昏に佇む
その少女は黄昏のもとでいつもにこにこと笑っていた。
隼人はそんな彼女の笑顔が好きだ。夕焼けに照らされ、慕情か入り日か、朱に染まった頬を綻ばす彼女、葵先輩の笑顔が好きだった。
「隼人君、これから依頼? 私も手伝うよ」
授業が終わってしばらく経った放課後、太陽が沈みかけ、夕日が学校の校舎を赤く彩るそんな放課後、葵は決まってその時間、屋上に佇んでいる。学校指定のセーラー服、背中全体を撫でるほどに長い茶髪、端麗としたその顔は見る者全ての時間を止めてしまうほどに美しかった。
そして決まって隼人は彼女に対面する。
「すいませんいつも手伝ってもらって。先輩には感謝してもしきれないくらいですよ」
そう言っていつもの会話が開始される。いつも通り。そう、いつも通りなのだ。葵先輩の問いかけに隼人が感謝交じりに受け答えする、それが二人の会話の始まりだった。
隼人と葵先輩の所属する部活は「校内問題解決部」。平たく言えば何でも屋だ。単に依頼者の抱える問題を解決していき、悩みを持った学生の手助けをするといった部活である。報酬は無し、大会に出るわけでもなく、普段は依頼が無ければ何の活動もしない部活であるため学校側からの部費は無い。
そんな空き教室を利用したジリ貧部活には隼人だけが所属している。
「それで隼人君、今日の依頼は?」
「今回は剣道部の主将からの依頼です――浮気調査をして欲しいとか」
「わお」
正直こんな依頼は乗り気ではない。もし仮に浮気が発覚した場合、それを依頼者である剣道部主将に伝え、場所を設けて主将、彼女、浮気相手の三人の話し合いに同席して仲介をしなくてはいけない。最悪の場合、修羅場を目の前で傍観するのでなく、体を張って止めなければならないというハードな依頼である。
隼人は自分とは反対にウキウキな様子である葵先輩を尻目にため息をついた。
数時間後、隼人と葵先輩は剣道部主将の彼女を尾行していた。
「あの一年生が主将の彼女さんね。私と違ってすっごい清楚な子だけど――本当に浮気をするような子なのかな?」
「人は見かけによらないって言いますからね。それに葵先輩も十分清楚じゃないですか」
廊下の壁に諜報員のように隠れる二人。そして葵先輩は隼人の頭を後ろから抱くように腕を回している。『葵先輩も十分清楚じゃないですか』の文言だけに反応して顔を赤らめている葵先輩はご満悦だ。
「誰かを待っているんでしょうか?」
二人の視線の先の主将の彼女は3年生のとある教室の前でそわそわとしている。主将のクラスは2つ隣、これで主将を待っているのではないと断定できる。
「ねえ隼人君。あの落ち着きようの無さはやっぱり――」
葵先輩の言わんとしていることは隼人にも容易に理解できる。主将以外の誰かを待っているのだ。
「でもまだ男かどうか分からないですよ。女の先輩を待っているのかもしれませんし」
監視を続行すること数分。一人の男子生徒が教室から姿を現す。今まで教室から出てきた生徒は主将の彼女の存在など気にも留めずに横をすり抜けていった、だが今回はどうだろうか。真っすぐと主将の彼女の方へと歩いていく。
「ビンゴ!!」
パチンと指を鳴らす葵先輩。
「何予想が当たって嬉しそうになってるんですか。それにしても本当に浮気――」
「浮気って何が?」
すぐさま後ろを振り返る。隼人の視線の先にいたのは同じくクラスの女生徒だ。
「浮気って……隼人君浮気してるの!? 彼女いるなんて、そんな……」
『浮気』の一言で周囲の視線が釘付けとなる。それに気が付いた隼人は急いで誤解の解決に移行する。
「――違うんだって。僕は浮気なんてしてないし彼女もいないから」
身振り手振りで誤解を解こうと奮闘する隼人の前で、女生徒は頬を徐々に赤らめていく。
「――そっか。彼女いなかったんだ、それなら私にもチャンス――」
「何この女」
冷気を宿した鋭い声が響く。自分の首に後ろから腕を回した声主の方向を見据える。そこには今にも女生徒に飛び掛かりそうな雰囲気を醸し出す葵先輩の表情があった。
「――ううん。何でもないの。じゃあね隼人君」
そう言い残した女生徒は足早に走り去っていった。
「――ねえ隼人君」
先ほどの冷たい声音が再び襲来する。
「あの子と一体どんな関係なの?」
じりじりと詰め寄る葵先輩。俯き気味に虚ろな瞳で隼人を見つめる葵先輩がいきなり飛び掛かった。
「痛った!!」
隼人の上に馬乗りする形となった葵先輩は、力いっぱい両手で彼の制服のネクタイを握り絞める。そして――
「何でかな何でかな!? 隼人君が他の女の子と話してるなんて羨ましいー! 私の方が隼人君を好きだもんー。誰よりも隼人君のこと好きなのー!!」
とてつもない実力行使でぐわんぐわんと頭を揺さぶられる隼人。脳みそがシャッフルされるような感覚に陥った隼人が全力の弁明を告げる。
「べ……別に話したっていいじゃないですかクラスメイトなんだし。てゆうかそんなバイオレンスな告白なんてやめてくださいよ!! それに主将の彼女さんを追っかけるんでしょ!?」
「――!! 追っかけるなんて、隼人君は追っかけ趣味が……」
「そんな趣味はねえですからとっとと離してくださいよ」
そしてようやく彼を離した葵先輩、多少の怒りと嫉妬、そして悲しみが彼女の表情を染め上げていた。
学校の廊下で大騒ぎする隼人の滑稽な姿はたちまち有名となり、一時的に学校中の有名人となったのはまた別のお話。
その後、二人は主将の彼女と男子生徒の尾行を続けた結果、主将の彼女はシロだということが判明した。二人は単なる幼馴染で、成績の良い男子生徒に勉強を教わっていただけだったようだ。そして男子生徒には彼女がいることも分かり、今回の浮気疑惑は杞憂で終わった。
「あーあつまんないのー。せっかくドロドロした展開が見れると期待したのになー」
「――先輩は異常ですよ……」
「私が異常? ――! そっかぁ、あなたは私を異常だと思っている、それは私に対する普通ではない気持ちを抱いている。つまり私に恋心を抱いてるってことだー!!」
「何ですかその変な公式は?」
やれやれといった嘆息の連鎖が隼人の口から洩れる。
全くこの人は……。
葵先輩。
夕焼けに焦がされた屋上で彼女と出会った。最初は何なんだこの人は? と直感的に思ってしまうほど不思議な人。綺麗に流れる長い茶髪、凛とした瞳、ぷっくらとした桜色の唇、スラリとした体形。誰もが目を引くような超絶美人の女の子である。
だが彼女は誰からも見向きもされないような人でもあった。
そしてその度に彼女の表情が暗く、悲しみに包まれていくことを隼人は知っていた。
「はーやーとくーん。そろそろ遅い時間だよ? 早く帰らないと家の人が心配するかも」
「――ああしまった。今日は晩御飯の買い物当番なのを忘れてた! すいません葵先輩、お先に失礼します」
鞄を持って、急いで下校する。
「ばいばい………………隼人君」
走り去っていく隼人の背中をじっと見つめる葵先輩。彼の姿が見えなくなるまで、じっと、一心に見続けた。
昨日の浮気疑惑は結局のところシロ。単なる思い過ごしだったようだ。現状報告として聞いた話だが、剣道部主将と彼女さんは普段通り睦合っているようだ。よかった。
おかげで主将、彼女、浮気相手だと疑ってかかった先輩と隼人、葵先輩の同席した話し合いは何事もなく終了した――終始悲しみに満ちた表情の葵先輩を除き。
「――そしてその二人の様子をまるで鏡のように映しだしたかのような仲の隼人と葵先輩。今日も人目を気にせずくっつき合う二人は超絶ラブコメ展開を迎えていた」
「人のナレーションに勝手に付け足さないでくださいよ。あとここ僕のクラスなんですからそんなに寄らないでください」
「ええー。みんな気にしないよ私たちのことなんて」
「いや僕が恥ずかしいですから」
不満そうに隼人から距離を取る葵先輩。
「それでそれで、今日は何かあるの? 依頼!」
「今日は特に無いです」
依頼が無ければ活動は無い。いつも通りに空き教室で待機しているだけである。正直昨日のような胃を痛めるような依頼には関わりたくないのが本心だ。であれば依頼の無い今日という日は隼人にとって幸福なのである。
ねえ、知ってる?
教室のどこかから囁くような声。
昨日の放課後、階段から足を踏み外して落っこちた生徒がいるんだって。
うん知ってる。たしか入院するほどひどい怪我なんだってね。
噂だと誰かに後ろ髪を引っ張られて落っこちたんだって。でもその場にはその生徒一人。髪を引っ張ったような人なんていなかったんだって。
もう何人目? 謎の怪我して入院する人。死人は出てないからいいけど、この学校呪われてるんじゃないの?
それでね。この緊急事態をどうするかって、職員室で協議されてるみたいだよ? 外のお偉いさん方を招いて。
本格的にヤバいね。
「……」
あまり聞きたくはなかったことを聞いてしまった。
「はあ」
朝から憂鬱な気分だ。
「隼人君……」
ねえこれって、守り神の祟りなんじゃない?
ああ知ってる。この学校の創立以前からこの地を災厄から守るために祀ってたっていうあれでしょ?
うん。それで学校を建てるために守り神を祀るほこらも壊されて、守り神が怒り狂った。そして本来鎮めるべき災厄を守り神自身が引き起こしてるってこと。
こっわ、私たちも気を付けないとねー。
「僕は大丈夫ですよ――葵先輩。僕は普通の僕です」
その日、普段は明るいはずの学校が嫌に暗い雰囲気を醸し出していた。まるで何か災厄が降り注いでいるかのように――
次の日、隼人は学校を休んだ。
風邪なのか何なのか、特に学校への連絡も無く無断欠席扱いであった。
隼人の教室を覗いても、彼の姿は無い。そしていつもの夕日に照らされた屋上、そこに彼が来ることはなかった。
「……隼人君……」
予想以上に大きなため息。いったい彼はどうしたのだろうか? 昨日の様子も気になる。
そよ風に吹かれ、サラサラの髪の毛とスカートの裾がそよぐ。今日は憂鬱だ。
葵先輩は隼人に慕情を抱いている。
彼が特別何かをしたわけではない、ただ一緒の部活で、一緒に過ごす時間が長く、自然と彼に惹かれていったのだろう。
しかし葵先輩には分からない。この気持ちが本当の好きなのかを。
彼女は恋というものをしたことがなかった。だから分からない、本当の好きを。
彼女はこの気持ちが本当かどうかを知りたいと思った。
今日の放課後、再び学生が事故に巻き込まれた。
男子生徒が急に足が無くなったように倒れ込み、階段から落ちて足首を骨折する怪我を負った。
「この学校……廃校になるんですって」
ある日の放課後、いつもの時間、いつもの屋上に隼人に言われた言葉は、葵にとって衝撃的なものだった。
ここ数日間、隼人は学校を休んでいた。そのため葵は部室にいることも無く、ただこの屋上で物思いに更けていた。
そして今日突然、隼人が学校に登校したのだ――重々しい雰囲気を伴って。
そして今に至る――
「廃校って、そんな……何で」
葵には全て分かっていた。なぜ学校が廃校になるのか。それを承知で分かり切った質問をした。
「この学校で起きている怪奇現象……ですよ」
この高校の怪奇現象。
それは放課後になると頻繁に学生たちがけがを負い、入院までする羽目になるという。
噂程度に囁かれるのは、かつての信仰を失い、人間たちへ復讐を誓った守り神の祟りだと。
「葵先輩、みんな怖いんですよ。得体のしれない闇がこの学校を覆いつくしている。けが人も増え、保護者達からの信頼もとうに失ったこの学校、もう存続することも難しい状況なんです」
「……」
「だから閉鎖しようと、これ以上誰にも不幸な目に遭わないように」
その瞬間後、放課後の屋上を冷やす冷たい風が二人に吹き付けられる。お互いの髪が風にそよがれ、魂を持った生き物のようにゆらゆらと靡いた。
「警察の捜査でも犯人を裏付ける明確な証拠は発見されなかったみたいです」
そうなのだ。
被害に遭った学生全員が一人の時にこの事故に巻き込まれている。だが目撃者はおらず、そして怪我をした生徒には特に争った外傷は見られず、誰かに怪我をさせられたということはあり得ないとの結論が出された。
前回の事故も含めて全部で八六件にも及ぶこの事故の真相は謎のままであった。
被害者の多くは階段から足を踏み外して転倒、そこから下の階へと階段を転げ落ちる形で大けがを負っている。無論誰かに背中を押されたなどということも考えられなかった。
しかし被害者全員は口をそろえてこう言った――階段から落ちる瞬間、確かに人の気配がしたと。
「でも警察も教師もみな最初はそれほど信じているわけではなかったんです」
でも怪事故これほど連鎖した。追及に疲れ切った学校関係者は責任を取るため、そして終わらせるためにこの呪われた学校をたたむつもりです――そう付け加えた。
「だからこの部活も今日でおしまいです……」
「そんな……」
スカートの裾をぎゅっと握りしめ俯く葵先輩。彼女の瞳からあふれ出し、滴る涙が見えた。耐えかねる寂しさと絶望感をまぎわらすために唇を噛み締める。
「だから僕は――この部活のためにも、学校のためにも、全責任を取って最後の依頼をこなします」
顔を上げる葵先輩。いまいち状況を飲み込めない葵先輩の表情を見て微笑みを漏らした隼人は、彼女の両肩に優しく両手を置いた。
優しく語りかける。
「これは僕自身の依頼を僕たちで解決しようということです」
依頼って、どんなの?
心の中で深呼吸をする。そして真剣な眼差しで葵先輩を至近距離から見つめる。目の前の少女の顔がぐんぐんと紅潮していくのを無視し、彼はこう告げた。
「この災厄を終わらせる。そのために――」
そのために――、その前置きの後に続いた隼人の言葉はこうだ。
「葵先輩を――成仏させてください」
葵先輩を成仏させる、その言葉を聞いた瞬間、葵先輩の双眸が大きく開かれた。
「わ……私……を?」
のどに詰まった言葉を何とか絞り出す。
二人の逢瀬が終わるように、話しやすい位置まで顔を遠ざける隼人。
「そうですよ」
再びの微笑み。屈することのできない笑顔に葵先輩は顔を背ける、だがそれだけが理由ではないだろう。
「幽霊であり、守り神であるあなたを成仏させて、学校を――いや、葵先輩を救ってみせます」
そうして隼人は葵先輩を抱きしめた。葵先輩の柔らかな体を全身で感じる。
「辛かったんですよね? 寂しかったんですよね? 誰からも見向きもされなくなって、存在自体が無かったことのように扱われて」
抱きしめる力を強める隼人。そんな彼に屈したように葵先輩からも隼人の体に腕を回した。
葵先輩はこの地に古くから祭られた守り神だった。
天災も事故も全て物の怪のしわざだと信じられていた時代、学校ができる以前からこの地で天災から人々を守ってきた守り神、それが葵先輩である。
その後、その地を県が買い取り、この学校が建てられた。もちろん葵先輩の存在などを無視し、本来守り神を鎮めるためのほこらを壊した。
時代の経過とともに守り神のような存在は信じられなくなった。そして学校が建てられた影響でお供え物もなくなり、葵先輩は居場所を失ってしまったのだ。
居場所を奪われた怒りと見捨てられた寂しさから人を襲うようになった、この学校の生徒を。
そうして悪霊として葵先輩はこの学校に憑りついた。
「だから……僕にできることはこれしかないんですよ」
小さな声で、だがはっきりと毅然として隼人は言った。
「僕は葵先輩を無視なんてしません、寂しい思いなんてさせませんよ」
赤く染まった耳元で呟く。
「もう一人なんかじゃないですよ?」
葵先輩の頬を伝って、隼人の頬にも彼女の大粒の涙が流れ込んだ。
「僕は葵先輩を認めています、ずっと」
再びの睦が終わり、隼人は彼女の体を離した。
「――だからこそ、僕は葵先輩を救います、葵先輩の望みを叶えます」
しばらくの沈黙の後、紡ぎ出されたのはこんなセリフだ。
「私は……隼人君が好き――でもこれは本物の好きなのか、どうなのか」
彼女は作り物の恋をしていた。
誰かに、隼人に恋をすることで、隼人を心の拠り所とすることで完全な悪霊に堕ちずに葵先輩として存在できた。しかしそれは偽りの恋である。
「だから私に教えてほしい――本物の好きを」
それが彼女の望みなのだろう。本当の好きという気持ちを知りたいのである。
「好きという気持ちに偽物なんてないんですよ。好きと感じたら、それはもう本物の恋、なんですよ」
その瞬間――隼人の耳元で感じる彼女の嗚咽。
今の彼女は悪霊でも、守り神でもない――ただ一人の恋する女の子なのである。
だから隼人は言った。言わなければならなかった言葉を。
「僕の抱いている好きも本物だから」
その言葉の刹那、糸が切れたような号泣が屋上に響いた――隼人にしか聞こえない彼女の叫びが。
「……ありがとう、誰にも見えない私を見つけてくれて……」
その言葉と共に、彼女に再びの笑顔が灯った。
隼人はそんな彼女の笑顔が大好きだ。
そうして彼女はいなくなった。
瞳から垂れる一筋の涙を拭う隼人。
葵先輩は消えてしまった――だけど彼女のぬくもりは決して消えることはないだろう。
なんたって、僕はずっと葵先輩を忘れないから――