シャンプーとリンスとトリートメント
「八万円の靴を買って四年間履くのがいいのか、四年間毎年新しい二万円の靴を買って履くのがいいのか。あたしは絶対後者。だって、八万円の靴が四年後ボロボロになってたらどうするのよ」
外から帰ってきたあと、冷蔵庫からパックの牛乳とコーヒーを取り出し、アイスオレをつくりながら彼女はそう言った。
僕はリビングのソファの上で、僕の右手の指を一本一本ペロペロと舐める飼い猫のことを見ているところだった。僕と彼女が飼っている猫は、めったに人の指を舐めるなんてこと、しない。普段は「ミロ」と名前を呼んでも近寄ってくるどころか顔をこちらに向けることさえしないし、膝の上に乗ってくることも、甘えた声で鳴くこともしない。けれど、ときどき、本当にときどき、こうやって僕(や彼女)のそばに自分から寄ってきて、甘えたところを見せてくれる。それはとっても可愛らしくて、それ以外の九十九回無視されていたって、一回の指ペロペロで充分ペイできるほど僕はうれしくなってしまう。
「ねえ、あなたはどう思う?」
彼女はソファの僕の横に座って、僕の指を舐めるミロの背中を右手――左手はアイスオレの入ったグラスを持っている――で撫でながら訊ねてきた。
僕は心の中で、そもそもなんで八万円を四年間なんだろうと思う。十万円を五年間の方が、たとえ、たとえ話だとしてもキリがいいじゃないか。けれど、そんなことはわざわざ言わない。女の脳と男の脳はまるっきり違うのだ。そういうほんのちょっとした違いを追及したところで、良いことなんてなにひとつないことくらい僕も経験的に理解している。
「僕もそう思うよ」
僕はミロの舌遣いをじっと見つめながら言う。
「そうって? 二万円の靴を四年間毎年買うってこと?」
彼女はアイスオレをひと口ゴクリと飲んで言う。
「まったく、連中ったら売れればいいって思ってるんだから、嫌になるわ。四年後に想像力が及ばないのよね。あるいは、そもそも想像することを放棄してるんだわ」
なるほど、靴屋の店員に言われたらしい。僕の指を人差し指から順番に一本一本舐めていたミロは、僕の小指を舐め終わり、ソファをおりて自分の右の前足を舐め始めていた。僕は彼女が家に帰ってきたとき荷物を持っていたのか思い出そうとし、けれど、彼女が部屋に入ってきたとき僕はミロのことだけを見ていたから、彼女の方を向いてないやって思い出し、訊いてみる。
「それで、結局新しい靴は買ったの?」
彼女はアイスオレを飲み切って、グラスを目の前のガラステーブルの上に置いてから言った。
「買ったよ。でもその店では買わなかった。別の店で八万円の靴を買ったわ」彼女はとても可愛いらしい顔をして笑った。「『こちらの靴でしたら五年間は履けますよ』なんて馬鹿な言葉がなかったら私は最初の店で買ったのにさ」
僕は彼女に向かって微笑んでみせると、ガラステーブルの脚に身体を擦りつけているミロに向かって「ミロ」と呼んでみた。けれどミロは僕の方を見向きもしないで、ガラステーブルの下を通って、夕暮れのやわらかな陽が差し込む窓際の方に行ってしまった。
「あたしは、そういうちょっとしたことっていうのが、人生の綾なんだといつも思うの。たった一行の言葉が、たったひとつの行動がその後を百八十度変えてしまうでしょ。もちろん店員の言葉によって、向こう五年間この靴を履こうって気になって買う人もいるわけだけどね。少なくとも私とその店員の糸は、店員の言葉によってぷっつりと切れてしまったの」
彼女はそう言ってソファを立ち上がると、アイスオレを入れていたグラスを持って、キッチンに歩いていった。「すぐに夕食を作るね。今日はあなたの好きなビーフシチューよ。レーズンロールパンも買ってきたから」
僕は、レーズンロールパンの袋を持ち上げてニッコリ笑う彼女に向かって唇を尖らせてキスする仕草をすると、ソファの上に横になった。締め切り前の仕事を終えたところだったのだ。僕は昨夜から一睡もしていなかった。
目を閉じると、なぜだか、僕と彼女が出会った日のことが頭の中に浮かび上がった。
僕と彼女は当時同じマンションに住んでいた。住んでいたといっても、マンションに設置されているエレベーターで初めて一緒になるまで、まったく会ったこともなく、お互いのことなど知りもしなかった。
平日の昼下がりだった。
僕はそのときまだ目覚めたばかりだった。その日は仕事が朝までかかって、午前中いっぱい眠っていたのだ。弁当を買いに行こうと部屋を出た僕は、五月の太陽の眩しさに目を細めたことを覚えている。
マンションの九階に住んでいた僕はエレベーターの前まで行くと、下向きの矢印ボタンを押してエレベーターがくるのを待った。エレベーターは上から降りてくるところだった。何階に止まっていたのかはわからない。僕が階数表示に目をやったときには、十三階だった。
エレベーターが九階に止まり、僕は中に入った。エレベーターの中には、女の人がひとり乗っていた。彼女は操作盤の前に立って僕が奥に乗り込むと、閉まるのボタンを押した。エレベーターは緩慢な動きだった。エレベーターが動き出して十秒くらいが経ったころだろうか。
「シャンプー……」
自分でもよくわからないまま、気づいたとき僕はそうつぶやいていた。
僕の言葉に彼女は「えっ!?」って顔して僕を見て、小さく笑って恥ずかしそうに「ごめんなさい」と言った。なぜ彼女がごめんなさいと言ったのか。彼女の左手の甲に黒のボールペンで「シャンプー」と書いてあったのだ。僕はエレベーターに乗って寝ぼけた頭でぼんやりとしたまま、目に入った単語を口に出してしまったらしい。
僕はあわてて「いや、あの、こちらこそ」なんてドギマギした態度を見せ、僕の姿に彼女は笑い声をあげた。彼女の笑顔はとても素敵な笑顔だった。彼女のことを美人だとか可愛いだとか、そのときそんなことはまったく思わなかった。とにかく彼女の笑顔は、僕がいつも女の子が笑うときには、そんな風に笑ってほしいと思っている、まさにその通りの笑顔だった。
その日僕らが言葉を交わしたのは、それだけだった。
エレベーターはすぐに一階について、僕と彼女はマンションのエントランスを出るとそれぞれ右と左に別れた。僕はコンビニまで歩いていって、そこで弁当を買って部屋に戻った。帰り、マンションのエレベーターの中は僕ひとりだけだった。僕はコンビニ弁当を右手に持って、ひとりきりのエレベーターの中で彼女の笑顔を思い出した。そして、もう一度彼女に笑顔を投げ掛けられたい、そう思った。
僕は翌日の昼下がり、初めて彼女に会った時間と同じくらいの時間に左手の甲に「リンス」と書いて部屋を出た。
エレベーターの前で、下向きの矢印ボタンを押す。エレベーターはそのとき一階にあった。九階にエレベーターがあがってきたとき、エレベーターの中には誰もいなかった。僕は中には乗り込まず、エレベーターを見送った。一度部屋に戻り、十分後にもう一度エレベーターの前にきて、エレベーターを呼んでみた。けれど、やはり今回も中には誰も乗っていなかった。僕はその後三日間、初めて彼女に会ったときと同じ昼下がりの時間に、左手甲に「リンス」と書いてエレベーターに乗った。四日目五日目は昼下がりにマンションに居られなかったけれど、六日目七日目はまた昼下がりの時間にエレベーターに乗った。
そんな風にして数日間が過ぎた。
彼女に再び会うことができたのは、初めて彼女に会った日から二十一日後の朝だった。夜じゅう降り続いていた雨は朝になってもまったく止む気配を見せなかった。季節は梅雨にかわっていた。僕は二十一日間左手の甲に「リンス」と書いて過ごしていたことになる。
徹夜で仕事をしていた僕はその日も初めて彼女に会った日と同じように寝ぼけた頭でエレベーターを待っていた。
左手に「リンス」とは書いていながらも、すでに二十一日間彼女に会えていないことと、彼女に初めて会った昼下がりではなく、ほとんど夜明けとも呼べる早朝だったことで、僕は彼女に会えるなんてことを考えてもいなかった。だから部屋を出るときも新たに「リンス」とは書かなかった。新しく書かなくても、昨日までのインクが充分手に残ったままだったというのも理由ではあるけれど。
エレベーターが何階から僕が待つ九階にまでやってきたのかも、見ていなかった。けれど、エレベーターの扉が開いて中に入ると、二十一日前と同じように操作盤の前に彼女が立っていた。
彼女は「あら」というような表情をして僕の顔を見た。彼女に会うことをあれほど望んでいたのに、まったく予期せぬときに会えてしまったことで、僕は驚いた顔をしたまま固まって、彼女になにも言えないでいた。
エレベーターは緩慢な速度で下降を始めた。僕はなにか言わなければと思う。彼女の笑顔をみるために、僕は毎日毎日彼女に会える機会を待っていたのだ。その彼女が今現実に僕の数十センチ目の前にいる。エレベーターは動きを止めない。すぐに一階に着くだろう。僕と彼女はおそらく、前回と同じようにエントランスを右と左に別れて終わってしまう。僕は頭をフル回転させていた。けれど徹夜明けの寝ぼけた頭で僕が考えられることは、情けないほどなにもなかった。僕は彼女の左後ろに立ったまま、彼女のことをじっと見つめるだけだった。エレベーター内の階数表示の点滅は5を過ぎ、4に向かっている。僕は苦笑いをこぼして目を閉じた。まったく、自分の使えなさに笑えてしまった。
「リンス……?」
それは彼女の声だった。言葉を言おうとして言ったのではなく、思わず口からこぼれてしまったというような、ぼそっとした声だった。僕は目を開ける。彼女は僕の顔を見ていた。僕は自分の左手甲の「リンス」に目をやり、彼女を見て、照れ笑いを浮かべてしまった。彼女は僕の照れ笑いを見て、満面の笑顔を僕に向けた。けれど僕たちがなにかを話し始める前に、エレベーターは一階についてしまった。
エントランスで僕らは傘を広げると、僕は左に彼女は右に、やはりふたりは別れてしまった。
僕は彼女の笑顔をもう一度見ることができた喜びと、なにも話すことができなかった絶望と両方抱えて、泣きたいような気持ちなった。
「ねえ!」
二歩ほど歩いたときだった。大きな声が僕の背中を包み込んだ。僕はゆっくりと振り返る。
赤い傘をさした彼女が僕の方を向いて、立っていた。
「トリートメントはどうするの?」
彼女は右側の眉毛をあげて、含み笑いをしていた。
雨がビニール傘にあたる「ボトボトボトボト」という音が響いていた。
僕の頭の中は真っ白だった。
僕は自分の鼓動がとても速くなっているのがわかった。
「今度、一緒に買いに行きませんか?」
気づいたとき、僕は彼女に向かってそう言っていた。心よりも言葉の方が早かった。そしてすぐに気恥ずかしさに自分の顔が赤くなるのがわかった。
彼女は両肩をほんの少しあげて口元を緩めた。「まあ」と言っているように思えた。
彼女は傘を左側の頬で押さえ、ショルダーバックから手帳を取り出すと、ペンを走らせ、ページを引きちぎり、僕のそばまで歩いてきた。
「メールちょうだい」
とても優しい声だった。
僕が紙を受け取ると、彼女は一度僕の目を覗き込んで小さく笑った。百パーセント満面の笑みも素敵だけど、彼女の小さな笑みもやっぱりとても素敵だった。
彼女が目の前の角を右に曲がって見えなくなって、初めて雨が降っていたことを僕は思い出した。雨がビニール傘を打つ「ボトボトボトボト」という音が突然降ってきたのだ。彼女に渡された紙を握りしめ、彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は一時的に無音の中にいたようだった。
そしてその夜、僕は彼女にメールを送った。
揺り起こされて、僕は目を覚ました。
彼女の顔がすぐ目の前にあって、柔らかい微笑みが目に入る。
「ビーフシチュー、できたよ」
いつの間にか、僕は眠りに落ちていたらしい。僕は半分夢の中で彼女の笑みを見、彼女の声を聴いた。意識がはっきりしてくるにつれ、ビーフシチューの香しい匂いが鼻先に流れ込んでくる。
僕は彼女の顔を見上げる格好で、顔じゅうを皺いっぱいにして、くしゃっとした笑みを浮かべてみる。
「なにそれ?」
彼女は皺いっぱいの僕の両頬をつまんで笑った。
僕たちの人生の綾は……僕はそんなことを彼女に言ってみようかと思った。
けれど、そのときミロが目覚めたばかりの僕の胸の上に飛び乗ってきた。僕は苦しさに「うっ!」と声をあげ、その声に彼女は笑いながらミロの頭にキスをすると、「あったかいうちに食べようよ」と言ってキッチンに戻っていってしまった。僕はミロの身体をゆっくりと撫でる。ミロの身体はあたたかく、気持ちがいい。
僕たちの人生の綾は、僕たちふたりを祝福してくれたね。
さっき彼女に言おうと思った台詞を、僕はミロに向かってつぶやいてみた。