事実
グレイとムーランは、街道に沿って歩いていく。聞いた話では、アルラト山は徒歩なら二日か三日ほどで到着する、とのことだ。道中は賊の類いが出るわけでもなく、特に問題はないらしい。
ただ、街道を真っ直ぐ行けば……アルラト山にはたどり着ける。だが、そこから先は通行止めになっている。今回の暗殺の標的である、ロクスリー伯爵が通行止めにしてしまっているのだ。山の中にゴブリンの群れが住み着いた、という理由らしいのだが。
そのため、アルラト山の奥にあるセールイ村には、物資がいっさい届かなくなってしまった。わざわざゴブリンが出るかもしれない山の中に入り、小さな村で商売しようなどと言う物好きな行商人はいない。
セールイ村の人間から殺害依頼が来たのも、そこに理由があるのかもしれない……。
「そう言えば、衛兵が話してるのを聞いたんだけど……」
歩いている途中、いきなりムーランが話しかけてきた。
「どうしたんだ」
「アルラト山に、ライカンが出たって噂だよ……本当かどうかは知らないけどね……」
ムーランの言葉を聞き、グレイは足を止めた。そして訝しげな表情になる。
「ライカンだと……本当なのか?」
「わからない……でまかせかもしれないけどね」
ムーランはそう言って笑ったが、グレイの表情は晴れなかった。ライカンは強敵だ。野獣の殺傷能力と人間の知性とを兼ね備え、しかも少々の手傷なら一瞬で治癒してしまう。グレイはかつて、一度だけ戦ったことがあるが……一匹仕留めるのに数人がかりだった記憶がある。
ロクスリー伯爵の暗殺すら、骨が折れる仕事なのに……。
「ライカンがいるとなると、かなり厄介だな……」
グレイは呟くと、再び歩き出した。すると、ムーランがいきなり尻を叩いてくる。グレイはうろたえた。
「な、何だよ?」
「しっかりしなよ……あんた、ドラゴンを退治した勇者なんだろ? 期待してるからね」
そう言うと、ムーランは微笑んだ。一方、グレイは苦笑する。
「ドラゴン、か……あれはドラゴンなんて上等なもんじゃない」
そう、自分が退治したのはドラゴンということになってはいる。しかし、あれはドラゴンではないのだ。ただの巨大なトカゲ……のような生き物である。空を飛ぶ訳でも、口から炎を吐く訳でもない。もちろん、魔法の力などあるはずもない。
もっとも、その巨大なドラゴンに大勢の人間が襲われ殺され、餌として食われたのも事実なのだが。
やがて、そのドラゴンにより……一つの集落が壊滅させられたのだ。知らせを受けて激怒した国王の命を受け、ドラゴン討伐隊が組織された。約二十人の騎士、そして腕利きの傭兵からなる精鋭部隊だ。
そして、現れたドラゴンは想像とは違っていたが……手強い怪物であったことに変わりはない。妙に小さな前足を持ち、二本足で走り、大きな顎で騎士たちを馬ごと噛み殺し、強靭な尻尾で叩き潰していく。鉄の鎧など、お構い無しだった。
次々と薙ぎ倒され、絶命していく騎士たち……そんな中、グレイは油をかけて火を点けた。さらに素早い動きで、ドラゴンの一撃を避けながら斬りつける。攻撃を避けては斬り、避けては斬りを繰り返す……斬り殺すのではなく、出血多量による死亡を狙ったのだ。
壮絶な死闘の末、生き延びたのはグレイの他、僅か三人だった。しかも、他の三人はその時の傷がもとで、後に騎士や傭兵を引退する羽目になる。
ただ一人、五体満足だったグレイは、騎士の称号を授与された。
「グレイ……何かヤバそうなのがいるよ」
前を歩いていたムーランが立ち止まり、グレイに囁く。だが、グレイも既に気づいていた。荷物をその場に置く。そして一人、歩いて行った。
道の先の方に、長剣を担いだ男がいる……ボロボロの服を着て、髭は伸び放題だ。一人で何やらブツブツ呟いており、遠くからでも気が触れた者であるのが見てとれた。
「お前……何をやってるんだ?」
グレイは静かな口調で尋ねた。しかし――
「お前もか……お前もなのか!」
わめきながら、長剣を振り上げる男。言うまでもなく、グレイはこの男に見覚えはないし心当たりもないが……男の目は血走り、焦点が合っていなかった。本来なら、いちいちこんな者を相手にしたくはないのだが、今回はそうも言っていられない。
「まあ待て……そんな物を振り回すな」
そう言いながら、近寄って行くグレイ。すると男は、奇声を発しながら長剣を降り下ろす――
だが、その軌道を見切るのは簡単だった。グレイはあっさりかわす。と同時に細身の剣を抜き、首めがけて一閃――
男の首の横が、ぱっくりと裂けた。そして鮮血が迸る……並みの人間なら、その時点で終わりのはずだ。
しかし、男の命はまだ尽きていなかったらしい。最期の力を振り絞り、長剣を振り上げる……。
その瞬間、グレイは己の剣を男の腹に突き刺した。
そして、内臓を切り裂く――
直後、男はうつ伏せに倒れ……そして絶命した。
グレイは男の持ち物を調べる。だが、何も持っていなかった。どうやら、ただの気違いであったらしい。
「何だったの……こいつ……」
死体を見下ろしながら、呟くムーラン……グレイは立ち上がった。
「何でもねえよ……ただの気違いだ。どうせ、安酒の毒が頭に回ったんだろうさ……」
・・・
安宿の一室で、荷物をまとめるチャック。昨日、冒険者たちから聞いた話は衝撃的なものだった。北の方のアルラト山に、ライカンが出たらしいのだ。噂は既に広まり、山を支配しているロクスリー伯爵も、近いうちに捜索に乗り出す……と言っていたらしい。
あくまでも噂である。だが、昨日の冒険者たちは本気だった。ロクスリー伯爵のもとに行って話をつけ、ライカンを狩るための許可をもらうつもりだ……と言っていた。
チャックは、ヘラヘラ笑いながら冒険者たちの話を聞いていたが……その後、寝ぐらにしている安宿に戻り考えた。噂のライカンとは、ウォリックのことではないのだろうか……。
同じライカンであるウォリックに会ったのは、三日ほど前である。城塞都市バーレンの北の方にある集落の跡地にいた時、ウォリックに因縁を付けられたのだ……その時は、何とかなだめすかして事無きを得たが……奴ならば、人間を殺すのに何のためらいもないだろう。何せ、同じライカンであるチャックですら殺そうとしたくらいなのだ。ライカンの中でも、ひときわ血の気の多い男である。
その時、チャックの頭に閃くものがあった。ウォリックは、北の方で街道が通行止めになっていると聞いて、心底から不快そうな様子だったのを思い出したのだ。
ウォリックは、北の方に何か用があったのではないか? ライカンの長老の命を受け、北のアルラト山に向かっていた……しかし、その途中で何らかのトラブルに巻き込まれ、変身して戦う羽目になった。
その姿を、誰かに見られてしまった……。
いずれにせよ、同じライカンであるウォリックに危機が迫っている可能性があるのだ……ならば、さすがに見過ごせない。もしウォリックが生け捕りにされたら、チャックにまで害が及ぶかもしれない。
そうなると……あの冒険者たちがこのバーレンにいる間に、ウォリックを探し出して忠告しなくてはならない。
もっとも、自分の忠告を聞いてくれるほど、ウォリックは賢い男ではないのだが……。
チャックは、僅かな荷物をまとめて背中に背負う。もともと大した量ではないので、背負うのは苦にならない。そして安宿を後にする。ひょっとしたら、この街にはもう戻って来られないかもしれない。
ため息をつき、歩き出すチャック。改めて、人とライカンとの間に存在する境界線について考える。ウォリックは言っていた……どちらが本当の支配者か分からせてやらなくてはならない、と。だが、ライカンがどれだけ強かろうと、人間の圧倒的な数――そして鉄製の強力な武器と魔法――を背景にした力の前には歯が立たないのだ。
チャックは、そのことをよく知っている。さらに、人間には異質な存在に対する根強い差別意識があることも……同じ人間同士ですら、肌の色や習慣や信仰の違いで殺し合うのだ。
しかも、人間は他種族をこう呼んでいる……亜人、と。つまりは、他種族を人間の亜種と見なしているのだ。
そんな傲慢な人間たちとライカンが、共存できるはずもない……今のチャックには、そのことがよくわかっている。
チャックは、ふと立ち止まった。旅立つ前に、寄っておきたい所があったのを思い出す。
『黒猫停』だ。
「あ、あんたかい……昨日はありがとうね……」
女給は、チャックの顔を見ると優しく微笑む。初めて来た時の反応が嘘のようだ……チャックは笑みを浮かべて頭を振った。
「いやいや、俺はなんにもしちゃいませんよ……あいつらが勝手に引き下がっただけです。それより、ちょいと旅に出なきゃならなくなっちゃいましたよ……行く前に豚の蒸し焼きを、と思いまして。ついでに、猫に挨拶も」
すると、その言葉を聞いていたかのように、黒猫が姿を現した。黒猫はのそのそ歩き、チャックの足に首を擦り寄せていく。
「ふっ……お前、本当に可愛いなあ」
チャックは微笑み、黒猫の頭を撫でる。この黒猫とも、しばらく会うことは出来ないのだ。ひょっとしたら、もう二度と会えないかもしれない。
「プルートは、あんたのことを気に入ったみたいだねえ」
女給の声がした。チャックが顔を上げると、女給が料理の乗った皿を運んで来る。
「へえ……プルートっていうんですか。プルート、お前は本当に可愛いなあ」
チャックは微笑みながら、プルートの腹を撫で回した。プルートは喉をゴロゴロ鳴らしながら、チャックの手を嘗める。ざらざらの舌に撫でられる感触がくすぐったい。チャックの気持ちを、猫なりに察しているのだろうか。
「ちなみに、あたしの名はジェシカ……知りたくないかもしんないけどね。あんた、名前は?」
「ほう、ジェシカさんですか。こりゃ嬉しいですね……あ、俺の名はチャックですよ」
そう言うと、チャックは立ち上がった。そして恭しく頭を下げる。
すると、ジェシカは頭を軽くはたいた。
「何をやってんの……さっさと食べちゃいな。ところで、旅に出るのかい?」
「え、ええ……ちょっと厄介なことになってましてねえ。まあ……パパッと片付けて、すぐに戻って来ますから」
・・・
「キョウジさん! 見てくださいにゃ!」
湖のほとりで、野営の準備をしていたキョウジ……すると、ココナが慌ただしい勢いで走って来た。
「どうした、ココナ?」
「これ、食べられますにゃよ!」
そう言いながら、ココナが差し出してきたものは……巨大な芋虫だった。
「ココナが捕まえましたにゃ! どうぞ食べてくださいにゃ!」
今朝、キョウジはココナを連れて洞窟を離れた。もちろん行くあてがあったわけではない。しかし、この洞窟にとどまる訳にはいかなかった。いつ、人狼の襲撃を受けるかわからないのだ。出来ることなら、さっさと山を降りて人の住む場所に行きたい。
だが、キョウジもココナも、この辺りの地理に関しては全くの無知であった。
そこで、キョウジは考えた。いずれは山を降りる。ただし、下手に動いて道に迷ってしまっては元も子もない。ならば、まずは情報収集だ。闇雲にあちこちを歩いたりせず、安全な場所を確保し、それから少しずつ行動範囲を広げて行く。今はまだ、ここがどういった場所かもわからないのだ。慎重に動くにこしたことはない。
しかし、ここでキョウジにとって嬉しい誤算があった。
ココナの存在だ。
山の中における、ココナのサバイバル能力は素晴らしいものがあった。もともと他の山で、両親が死んだ後、一人で生きていたらしい。外に出ると同時に、ココナはキョロキョロ周りを見回した。さらに地面の匂いを嗅いだり、耳をすませたりする。
そして言った。
「キョウジさん、あっちに湖がありますにゃ!」
ココナの言う通りだった……半信半疑でココナの後を付いて行くと、小さな湖があったのだ。
今夜は、そこで夜営することに決めた。キョウジは男たちの持っていた荷物のうち、必要そうな物を厳選して夜営地まで運ぶ。そして簡易テントを張った。
そんな時、ココナがはしゃぎながら走ってきたのだが……。
「キョウジさん、これ食べられますにゃ! 食べてくださいにゃ!」
満面の笑みを浮かべ、白く大きな芋虫を差し出すココナ……さすがのキョウジも、こんな物は食べたことがない。正直言うなら、食べたくもないが……。
だが、キョウジは表情一つ変えずに、芋虫を口に入れた。
そして、笑みを浮かべながら噛み砕く……。
「ココナ、ありがとう。次は肉か魚を頼む」
キョウジは微笑み、礼を言った。もっとも、出来ることなら二度と食べたくはない味だが……。
「にゃ! わかりましたにゃ! では次は、魚を捕まえますにゃ! ココナに任せてくださいにゃ!」
そう言うと、ココナは湖に走って行った。
キョウジは手を止めて、ココナの動く様を見つめる……どうやら、あの猫と人間を合成させたような、不思議な生き物に懐かれてしまったようだ。
ココナは湖のほとりで、じっと水面を見ている。その様は、獲物を狙う猫そのものだ。そういえば、猫は獲物を飼い主に見せに行く習性があるが……先ほどのココナの行動は、飼い主に獲物を見せるようなものだったのかもしれない。飼い主であるキョウジに対し、獲った芋虫を見せに来たのだ……キョウジは思わず苦笑する。あの芋虫だけは勘弁してもらいたい。
不意に、ココナの手が動いた。稲妻のような素早さで、水中へと打ち込まれる右手……さらに次の瞬間、その右手が水面から引き上げられる。
ビチビチ動く川魚を握りしめ、ココナは満面の笑みを浮かべた。
「獲れましたにゃ! キョウジさん、魚を獲りましたにゃ!」
ココナは嬉しそうに叫びながら、魚を握りしめて突進してきた……。
キョウジはふと、自分の子供時代を思い出す。ユウキ博士はいつも、自分を見守っていてくれた。いつも優しい表情で、自分と話してくれたのだ。
キョウジにとって……ユウキ博士は名前をくれた父親であり、師匠であり、そして命の恩人でもあったのだ。
そのユウキ博士を殺した組織『D・E・S』のエージェントたち……奴らだけは許せない。
必ず、元の世界に帰る。
そして『D・E・S』を潰してやる……。
「キョウジさん、どうしましたにゃ?」
ココナが魚を握りしめたまま、心配そうに覗き込む……キョウジは微笑んだが、その時になって、一つの疑問が浮かんだ。
「ココナ、お前はなぜ奴らに捕まったんだ?」
尋ねるキョウジ……そう、ココナの動きは非常に素早い。あんな男たちに捕まるとは思えないのだ。
だが、ココナの答えは――
「森の中で美味しそうな匂いがしたので、行ってみたのですにゃ……そしたら、いきなり縄を投げつけられて、きつく縛られましたにゃ……」
どうやら、罠にかけられたらしい……悔しさと怒り、そして恐怖の入り混じったような表情で、ココナは答えた。彼女にとって、あまりいい思い出ではないのだろう。キョウジは、胸に微かな痛みを感じた。
「大丈夫だ、ココナ。もし今後、お前が罠にかかったら……俺が必ず助ける」
そう言って、キョウジはココナの頭を撫でた。まずは、ココナをどこかの村にでも預けよう。元の世界に帰るのは、それからだ。




