叶わぬこと
崖の上から伸ばされた、砂で薄汚れた小さくも力強い手。何もかも諦めた瞬間に目に飛び込んできたその手は、天から差し出された輝かしい光のようだった。
***
「おい、そこのお前! 倒れてないで働け!」
バシンと鞭で叩かれ、背中から血がにじむ感覚がする。立ち上がらねば、前に進まねばと気力を起こそうとするが、力が入らない。騙されて見知らぬ人にのこのこついて行って奴隷になって、こんなマヌケなまま死んでいくのか。情けねえ。歯を食いしばろうとしたが、それも叶わなかった。
「ちょっといいか」
「なんだてめえ、文句でも……っ!」
遠のく意識の中でかすかに聞こえたその声に、場がすっと凍りつくのがわかった。昔から場の空気の流れを感じることだけは得意だったな。そんな考えを最後に、俺は闇に包まれた。
「目が覚めたか」
目前に広がった真っ白な天井に声を上げることもできずあっけに取られていると、どこかで聞いた声が耳で響く。どこでだったか、俺はなぜ……そうだ、働けなくなって動けなくなって……
体を起こそうとしたが感覚がどうも戻らない。仕方なく顔だけ声のした方に向けて、ハッと息をのんだ。
「お前、あの時の……」
「ああ。崖に落ちかけたところを助けてもらった。あの時の借りを返したいと思っていたのだが、まさかこんなところで会えるとはな」
まだ村にいた頃、国王がまだ幼い王子をつれて視察に来たことがあった。しかし臣下が目を離した間に王子は森に迷い込み、崖から落ちかけたところをたまたま薪を集めに出ていた俺が助けたのだ。
世の中不思議な出会いがあるものだと感嘆していたが、さっき口走った言葉にサアッと血の気が引いた。
「もっ、申し訳ございません! 王子に向かって「お前」などと……」
「構わん。むしろ私としてはお前と対等の立場で話がしたいのだ」
「とんでもございません! 私ごときの身分でそのような事、許されるはずがありませぬ!」
「この国を守る国王様たちは尊ぶべき存在」と母から口酸っぱく言われ続けた俺には、王子と対等に接することなどできず、ただひたすらにうまく動かせない頭を下げ続けた。
***
こんなことは望んでいなかった。人に尊ばれ、他と違うと接せられることなど、望んではいなかった。私はただ、――
***
奴隷身分から解放されて、軍に所属した俺は、どうやらこの道が向いていたらしい。気がつけば近衛兵長にまでかけ上がり、国王の片腕となった。兵長に昇格する一年前から、王子は天に召された前国王に代わって新国王となっていた。毎日書類や社交に追われる国王を、これまでの距離を保ちつつも必死に助け、支えてきた、つもりだった。
「兵長! 国王が倒れられました!」
慌てて駆けつけると、国王は妃や王子たちに囲まれてベッドで伏せっていた。傍で待機する医師によると、国王は数年前から病におかされていて、それでも毎日無理をしていたため、ここまで生きてこられたことが不思議だ、とのことだった。
「なぜもっと早く私に言ってくださらなかったのですか!」
「言えばお前は止めただろう」
「当然です! あなたはこの国の王、この国の全てなのですから! あなたがいなければこの国は……」
「それは違うな。国は民のものだ。民無くして国は成り立たぬ。国王など飾りにすぎぬのだ。違うか?」
返す言葉もなく、ただ歯を食いしばることしかできない。しかし、歯を食いしばることができるだけでも、今の俺は幸せなのだと感じる。その幸せをくれたのは、目の前にいる彼だ。
「最後に一つ、お前に頼みたいことがある」
「何なりと、国王様」
少し間を置いて、弱々しく笑った。
「私と、友になってくれ。対等な、友として接してくれ」
その言葉で、俺は今までしてきた事が間違っていなくとも正しくなかったことに気がついた。彼は、ひとりだった。さみしく、それでも誰にも何も相談できない苦しみ。それらを分かち合えたかもしれなかったのだ。あの時の「対等」とはこういうことだったのか。幸せをくれた彼に幸せを与えきれなかった。
今からでも、遅くはないだろうか。俺は涙を流しながら、王に――友に笑いかけた。
「当然だ、友よ」
Fin.




