23 望む未来5
暴力的な描写は非常に軽くしてあるつもりですが、引き続き、苦手な方はご注意下さい。
ヴォルフは中央の水場に向かって走っていた。
助けてと女の悲鳴が小さく聞こえた。ヴォルフは更に足を速める。信じたくなかったが、リィナの声だった。ヴォルフをただ呼び続けていた。
女の悲鳴はヴォルフの名を呼びながらだんだん大きく聞こえてくる。
「リィナ!!」
すぐ行く、間に合ってくれ……!!
ヴォルフの叫びに応えるように彼の名を呼ぶ声がひときわ大きく響く。
この暴動が起こってすぐにヴォルフの元にも連絡が来た。近くを見回っていたヴォルフが制圧に向かっていたところ、逃げてきた子供が「リィナが捕まった!」と泣きながらヴォルフに助けを求めてきたのがつい先ほどのこと。中央の水場と聞いて、ヴォルフはリィナを助けに向かっていたのだ。
「リィナ!」
ようやく広場に駆けつけたヴォルフの目に飛び込んできたのは、駆けつけてくる警備隊を警戒して、リィナを盾にするように捕らえている男達の姿だった。
「ヴォルフ!」
小柄な彼女の体が痛々しく震えている。押さえつけられたリィナの喉元には刃物が突きつけられていた。
動きを止めたヴォルフに男が嗤った。
「よくわかってんじゃねぇか。てめぇ、そのまま動くんじゃねぇぞ」
優位に立っていることに男が引きつった笑いを浮かべている。大柄で鍛え上げているヴォルフを前に、この優位性が腕の中の少女の存在の上に成り立っていることを男は感じているのだ。
ヴォルフは黙ったまま、男達を視界の中に捕らえる。
彼女の胸元が乱れていることに、ヴォルフは激しい怒りを覚えていた。今すぐにでも殴りかかりたいほどの衝動が渦巻いている。
けれど暴徒の男達もすぐにそうと分かるほどの興奮状態だ。感情のままに駆け寄ることは出来ない。男の様子では今すぐ彼女を殺すつもりはないように見られるが、何かきっかけがあれば、感情のままにリィナの首をかききる可能性があるように思えた。
「おい、あの男を足腰立たないぐらいにやっとけ」
リィナの首に刃物を当てた男が叫ぶように指示をした。
「やっ、ヴォルフ、逃げて……っ」
リィナが青ざめて叫ぶが、ヴォルフが逃げられるはずがない。逃げればリィナは間違いなく乱暴される。最悪の場合、最終的に殺されるだろう。
ヴォルフに向かって男達が寄ってくる。ヴォルフが目の前の男達を倒すのは容易い。いきり立った暴徒といえども、一般人に毛が生えた程度の物だ。おそらくここで倒して、リィナを取り返すことも可能だろう。しかし、無傷で取り返せるとは思えなかった。
ヴォルフを脅すためにリィナのどこかを傷つける可能性は十分にあった。ヴォルフが抵抗することで、リィナを盾に取った男が恐怖と衝動で、彼女の首を掻き切る可能性もある。興奮状態の輩に常識は通用しない。
ヴォルフは抵抗することをひとまず諦め、男達が殴りかかってきたのをその身でうけた。
暴徒達からの暴行を受けながらリィナを助ける勝機を窺う。けれどなかなかリィナの首に当てられた刃はゆるまらず、リィナを捕まえる男の意識が外れない。
リィナは暴行を受けるヴォルフに、泣きながら「やめて」と叫んでいる。
ヴォルフは執拗に責めてくる拳や蹴りから急所が外れるように動き、暴行の衝撃もわずかに避けることで軽減させていたが、完全に避けては警戒が緩まない。
顔を殴られたときに口の中が切れた。
口内に血が溜まってきたところで腹を殴られ、その衝撃で口から血が飛び散る。
それは意図的な行動だった。ヴォルフが弱まっていると思わせて、少しでも男達の警戒が緩むのを狙っていたのだ。
しかしリィナの悲鳴が空気を切り裂くように上がり、ヴォルフははっと目を見張る。
「いやぁぁぁぁ!!」
半狂乱とも言える状態で叫ぶリィナがヴォルフの目の端に映った。
大丈夫だ、口が切れただけだ。
けれどそれを伝える術がない。
ヴォルフの吐血に見せかけた動きとリィナの動揺で、男達の意識が分散していないか目を走らせる。このまま暴行する三人を振り切って、リィナを捕まえている男が何らかの行動に移す前に、彼女の元へ駆け寄れないかと算段を立てているときだった。
ヴォルフはまぶしさに眼を細めた。
リィナの胸元が光っている。
昼間にあってもまぶしく感じるほどの光が彼女のはだけられた胸元から放たれていたのだ。
その光の元は、リィナが母親のラウラから渡された守石のペンダントだった。
この光は、かすかな記憶としてヴォルフにも覚えがある。崖を二人で落ちた時に自分たちを包んだ光だった。
ざっと血が引くような感覚がヴォルフを襲う。
時渡りか……?!
ヴォルフはまさかという信じたくない思いと共に、とっさに彼女に向けて駆け寄ろうとした。
「ヴォルフ!!」
悲鳴のようなリィナの声が響いた。こちらへと必死に手を伸ばしている。この状況をつかめない暴徒達は思いがけない出来事に立ち尽くしている。
その隙にリィナに向かい駆け寄ろうとしたヴォルフだったが、それは反射的に動いた暴徒達に阻害されてしまった。
リィナが消えようとしているのが分かるのに、伸ばした手が彼女まで届かない。
「ヴォルフ様! 必ず帰ってきます!!」
必死の様子で叫んでいる彼女の姿がゆらぐ。
「リィナ!」
暴徒を振り払い駆け寄るが、それでも間に合わない。
「リィナ!! グレンタールだ!!」
ヴォルフはとっさに叫んだ。
「グレンタールで待っている!!」
かき消えて行く彼女がかすかにうなずいたように見えた。
互いに伸ばした手は触れることさえ出来ない。
「リィナぁぁぁぁぁ!!!」
ヴォルフは咆吼した。
リィナを捕まえていた男の姿はそこにあるというのに、リィナの存在がその場からかき消えていた。
「うおぉぉぉぉぉ!!」
絶叫したヴォルフが、そのやり場のない怒りを叩きつけるように、リィナを捕まえていた男を力の限り殴り飛ばした。
そのまま近くにいた暴徒を振り向きざまに頭から蹴り倒す。
少女が消えたという現状を把握できず、暴徒達は理解不能な出来事を前に混乱している様子であった。彼らは手負いのヴォルフを前に、ろくに応戦できないまま倒されて行く。
新たにやってきた暴徒達には、ヴォルフは剣を抜いて応戦する。暴徒といえども所詮は一般の市民である彼らが、訓練されたヴォルフの手加減のない応戦に敵うはずがなかった。こらえきれない喪失感と絶望を叩き付けるようなヴォルフに、その場にいた暴徒達は制圧されて行く。
その場の最後の一人を倒したとき、ヴォルフは倒れるように膝をついた。
暴行の痛みも、ひとまずこの場をおさえた安堵も、今はない。
心にあるのは、消えてしまったリィナのことだけだった。
何故だ、と怒りにも似たあてどない疑問が渦巻く。
何故こんな事に。何故俺を置いて。何故彼女が消えなければならない。何故、俺たちを引き裂く……!!
離れないと誓った。共にいると約束した。
神殿に奪われた時のような後悔は二度としないと心に決めていたというのに。
なのにそんな誓いも虚しく、みすみす彼女を一人、時の彼方へと手放してしまった。
ヴォルフの胸に去来するのは、守りたかったただ一人を、また失ったのだという絶望だった。
「…………リィナっ」
ヴォルフは空を仰ぐ。
戻ってこいと叫ぶが、彼女は消えたまま現れない。
近くで暴動とそれを制圧しようとする者達が争う音が響いていた。
だが、まもなく、この暴動も、そして長く続いていた戦も一度大きな戦局を迎えた後、完全に終結するだろう。
この後、グレンタールが興る。戦で全てを失った人たちがグレンタールへと旅立ち、そこに、自分たちが生まれた村を作るのだ。
戦も、この異人街の暴動も、おそらくはグレンタールの産声となるのだ。
戦いが終わったら、二人で行くつもりだった。二人でその産声を喜ぶはずだった。
あの村の景色はなくとも、グレンタールで暮らしていこうと約束した。
なのに、彼女は消えた。
共に歩むつもりだった未来と共に。
「リィナ……」
名を呼んでも返事はない。
問いかける声は、喧噪にかき消されるように虚しく消えてゆく。
「……リィナ……!!」
ヴォルフは苦しさを叩き付けるように両拳で地面を叩いた。
地面が、ぽたりぽたりと落ちてくる滴で濡れた。
2幕 了