15 選択4
ずっと彼女を手放さなければいけないと思っていた。その選択肢を与えることが最善だと。
けれどヴォルフが選んだのは、手放さない覚悟だった。
そんなヴォルフの鋭いほど真剣なまなざしをうけて、リィナは戸惑っていた。
「どうして……? うそ。だって……」
意味の分からない言葉が動揺もあらわな口から漏れる。
「私は、どこにも……」
混乱している様子のリィナに、ヴォルフは今まで伝えられなかったその問いを口にする。
「もし、元の時代に、戻れるとしたら……?」
「……え?」
「君の力は、歴代の時渡りの姫巫女とは比べものにならないほど大きい事が分かった。君の修行次第では、一人でなら元の時代に戻れる可能性が高い」
ヴォルフの言葉に戸惑っているようすのリィナを見つめながら、ヴォルフは今分かっていることを全て伝えた。
二人で時を渡ることは難しいだろう事、もし帰るとするならば、一人だろうということ。
「いつかその時が来れば、帰りたいとは思わないか?」
ヴォルフの問いかけに、リィナはしばらくヴォルフを見つめ、考え込んでいるようであったが、ややあって、躊躇う素振りすらなく答えた。
「……思います、けど、ヴォルフ様が一緒じゃないなら、嫌です」
涙を溜めた彼女が首を横に振る。リィナを捕らえるヴォルフの手に、彼女のあいた片方の手が重ねられ、包み込まれるようにぎゅっと握られる。
「ヴォルフ様は、知り合ったばかりの私のせいで、こんな所にまで来てしまったのに、恋人でも、なんでもない赤の他人なのに、ここまで来てくれたのにっ 一緒でないのならば、絶対に嫌です」
涙で言葉を詰まらせるリィナを見ながら、一緒でなければ嫌という彼女に心を躍らせ、そして赤の他人などと言われたことに、軽い苛立ちを覚えた。
彼女の言葉はただの責任感にしか聞こえずヴォルフを苦しませた。
君は、俺の気持ちを知らないから。
ヴォルフはそう思ってから、ふと思い出す。それは別れ際のコンラートの言葉だった。
『君は恋をしたことがないようだ』
そう言って微笑んだあの表情が苦く思い出されたのだ。
「……たいがい、俺も鈍かったという事だな……」
頭を押さえて苦く笑ったヴォルフに、え? と、リィナが首をかしげる。
己が愚鈍にも気付いていなかったとき、彼には既に気付かれていたのだろうと思う。
ヴォルフは深いため息をついた。
「なんでもない赤の他人などといわないでくれ。何とも思っていない女に、命をかける馬鹿がどこにいると思う?」
「……ヴォルフ様は優しいから……」
リィナらしい答えだと、ヴォルフは苦く笑う。確かに、リィナであればその優しさだけでそこまでするのかもしれない。けれどヴォルフはそこまでお人好しのつもりはなかった。
「優しかったとしても、限度があるだろう。仮に同情だけでここまで来たとして、だ。さすがに俺は、そいつに悪態の一つや二つ、吐きたくなるだろうな。おそらくラーニャが相手でも、俺はここへ来たことを悔やんだだろう」
考えれば今までろくに現状を不満と思ったことがなかった方が不思議だとヴォルフは思う。
「だが、実際のところ俺は今まで不満に思ったことがない。元の時代への郷愁がないとはいわない。それでも自分の判断を悔やんだことも、この境遇を不運と嘆いたこともないんだ。一度も、だ。一緒にこの時代に来て君を一人にせずにすんだことを幸運と思ったことはあるがな」
ヴォルフの様子に気押されるように、リィナがわずかに震えた。
「ど、して……」
舌足らずに呟かれた問いかけは、戸惑いと不安に揺れているように見える。ヴォルフは困ったように笑った。
「ここまで言っても、わからないか?」
リィナは戸惑っていた。
ヴォルフの言っている意味が、分からない。違う、彼の言っている意味を、自分が都合の良い解釈をしようとしているとしか思えない。
「わかりません……だって、そんなはず……」
そんなはずがないと、言おうとした。ヴォルフが、自分などを好きだなんて、そんな都合の良い夢のようなことなんて……。
なのに、ヴォルフはリィナの言葉を遮って言うのだ。
「……リィナ、君が、好きだ」
静かな告白だった。いつもと違って自分より低い目線にいる彼が、真っ直ぐにリィナを見上げてくる。
すき? 好きって、どういう意味で?
心臓がドクドクと跳ね上がり、息が苦しくなる。
だって、そんな事があるはず無い。
期待しちゃいけない。きっと、妹のように、家族として好きって言う意味だ。だから、期待なんてしたら……。
期待して舞い上がりそうな興奮を必死に抑える。でないと勘違いだったときのショックは、きっと耐えられないから。
そんなリィナの気持ちなど気付きもせずに、ヴォルフが真摯に言葉を紡ぐ。
「俺は君の運命に巻き込まれたことを、心から幸運に思っている。君がもし一人でこの時代に飛んでいたかもしれないと考えるだけで、胸がつぶれてしまいそうになる。俺が君を守ることが出来ることが、俺の幸せだ。君を失うことは俺の絶望だ。きっと俺は、君なしには生きていけない。だから、例えいつかその力を自在に使える日が来たとしても、俺を置いて時の向こうに行くな」
ヴォルフは一気に言うと、一度言葉を切り、つながれた彼女の手に唇を寄せる。そしてそのまま彼女の瞳を捕らえた
「リィナ、これからの君の一生を俺にくれ。俺の側にいてくれ。この時代で、一緒に、生きてくれ……愛している」
リィナの胸を喜びが駆け抜けた。
けれど、直後、打ち消すように恐怖がわき上がった。
ヴォルフ様が、私を?
考えると、あまりにもあり得ないことに思えたからだ。
もしかしたら、私が、ここにいていい理由を作ってくれているのかもしれない。
そう思った瞬間、それはとてつもなく正しいことのように思えた。
ヴォルフ様は、優しいから。
いつも自身を犠牲にしながらリィナを助けてばかりいる。リィナにとってヴォルフはそういう人だった。何を置いても、リィナのために。
だから、また、ヴォルフ様は、私に気を使わせないために、こんな事を……。
リィナにはそれが正しいことに思えて、胸が軋んだ。
目の前にいる彼の表情は、とても真摯なのに、その真摯さは、優しさに裏打ちされた思いやりなのだと思えた。
私を傷つけないために、必死に言葉を選んでくれているのかもしれない。
「もう、やめて、下さい」
絞り出した声が震えた。
「私の為に、ヴォルフ様の人生を棒に振らないで下さい。こんなに優しくしないで下さい、私は、甘えてしまうから……ヴォルフ様に甘えてしまうから……っ」
ヴォルフを自由にしなければならないという思いにリィナは囚われていた。必死に縋りたくなるのをこらえることしか考えられなくなっていた。
それ故、ヴォルフの表情がどんな物かも気付かなかった。
「また、迷惑かけちゃう。それは嫌なんです、重荷になりたくないんです。だって、私にヴォルフ様がそこまでしてくれるほどの価値なんて無い。なんの役にも立てない、迷惑ばかりかけちゃう、だから、優しくしないで下さい。ダメだって分かってるのに、甘えちゃうから。だから、ヴォルフ様は、ヴォルフ様のために生きて下さい。私の事は、捨ててくれて良いんです。だから、もう、私への責任感なんて持たないで、私を守るために好きだなんて言わないで下さい……」
リィナはまくし立てるように言いながら、もう自分が何を言っているのか分からなくなっていた。とにかく、ヴォルフの優しさから逃れなければいけないと思っていた。