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13 選択2


 家に帰ってからの後味の悪さは忘れられない。帰ると家のどこかしこにリィナの存在を感じたのだ。扉にも、机にも、椅子にも、どこを見てもリィナの息づかいが聞こえるようだった。そして扉の向こうではリィナが眠っているのだと思うと、帰ってきたというくつろぐような安堵感と共に、女を買おうとした罪悪感のような感情を覚えた。自分が誰と寝ようと、リィナには関係ないかもしれない。けれど、彼女を裏切ろうとしていたような後ろめたさはぬぐいようがなかった。

 女を買うことを考えたのはその一度だけだった。

 そんないつかの出来事を思い出しながら、ヴォルフはふと考える。

 俺はリィナの前では姫巫女のためだけに存在する剣士でありたいのかもしれない。

 愚かで浅ましい自分を知られたくない。そう思っている自分に気付き自嘲する。

 何が姫巫女の剣士だ。

 ヴォルフは思った、自身にはそれを名乗る資格など無いのだと。伝えなければいけない事を伝えず、慕ってくれる彼女を置き去りにして酒におぼれて逃げて。

 情けないと思う。けれど、彼女が自分の庇護の手から逃れて行くのが怖かった。

 リィナを自分だけの物にしておきたい。彼女をこの腕の中に囲い込んで離したくない。彼女を守るのは自分だけなのだと。

 俺と一緒にいればいいと彼女に枷をはめることが出来るのならどれだけ良いだろう。

 彼女をこの腕に抱きたかった。自分の物だと存在を確かめたかった。

 彼女を思うだけで胸が疼く。

 この焼け付くような痛みはリィナに出会うまで知らなかった。その熱く疼く痛みは、彼女と共にいる時を重ねるほどに強くなる。

 ヴォルフは今更のように気付いた。

 ああ、愛しているのだ、と。

 おそらく、この時代に来たときには既に。だから彼女を守るために、それまでの全てを失うことさえ厭わなかったのだ。

 けれど、気付いたところで何かが変わることはなかった。むしろ気付いたが為に尚のことリィナに顔を合わせるのが辛くなった。眠れぬ夜を誤魔化すように、それからもヴォルフはリィナの眠った後、家を抜け出しては酒に逃げた。

 出すべき答えは見えているのに、その結論を出すことを怯える自身に負ける。

 もし、と考える。彼女を腕の中に閉じ込めることが出来たなら、このどうしようもない焦燥感はぬぐえるだろうか。

 リィナ、リィナ。

 名を心の中で呟いてみても、酒をあおるヴォルフの腕の中には、何もない。

 無邪気に慕ってくれる彼女を、何度抱きしめたいと思っただろう。不安に駆られる度に抱きしめて、ここにいてくれと言う事ができたのなら、どれほどよかっただろう。

 けれど、それをするわけにはいかない。ほんの少し望むだけで彼女を縛り付けることのできる自分だからこそ、それをしてはいけないのだ。

 そのくせして、おそらく彼女一人なら修行次第で元の時代に戻ることが出来るだろうと思うだけで、目の前の全てをたたき壊したいような衝動に駆られる。

 あの優しい少女が自分を置いて元の時代に戻る事は無いだろうが。そして、おそらく、彼女はヴォルフに対して今も尚責任を感じている。その自身が彼女を求めたのなら、きっと彼女はヴォルフを拒まない。心がなくても応えようとするかもしれない。戻れるなどと伝えたところで、自分を恋う男を置いて帰るとは思えない。

 よしんば帰ったとして、彼女は置いてきた男を一生思い出して悔やむだろう。

 ああ、それも良いかもしれない。

 ヴォルフは苦く笑う。

 彼女の中に俺自身を刻みつけるのか。傷として、決して治ることのない痛みを一生。

 それはそれで非常に甘美にも思えた。彼女が時渡りをして唯一人残された世界は、さぞ苦しい物になるだろう。それは想像しただけでひどく乾いた物だった。

 しかし、彼女が苦しむであろう傷を想像して、甘く胸が疼く。時代の流れに一人取り残されたヴォルフを思って少女が苦しむのを想像することは、とても苦しく、とても甘い。

 俺の事を思って、もっと苦しめばいいなどと、空想に過ぎない、帰った彼女に対して思ったりもする。

 理性では、彼女を帰すべきなのだろうとヴォルフは思う。少なくとも、帰るという選択肢があることを伝えるべきであり、そしてせめて彼女だけでも元の時代に帰れと彼女に伝えるべきなのだ。

 例えそれが彼女にとって苦しい時代であったとしても、それでも時間に阻まれた時代で生きるよりずっと良い。三百年という時の向こうにあるあの頃に抱く郷愁は、おそらくぬぐうことの出来ない感情だ。彼女も同じだろう。これはきっとこの時代に生きる限り、消えることはない。だから、彼女が力を付けたその時は、帰さなければいけないのだ。

 彼女を手放したくない。彼女を守るという杖を支えに、己を立たせていたからというだけではない。彼女の笑顔がどれだけ自分を支えていたのか。ヴォルフと名を呼んで慕ってくれることが、どれほど嬉しかったか。例え、それが単に庇護者に対する物であったとしても。

 いつの間にか、彼女は当たり前のように胸の中に入り込んでいた。当たり前に大切すぎてなかなか気付くことも出来なかった。なのに手放すことを考えなければいけない今頃になって、己の気持ちに気付くとは、皮肉な物だった。

 けれど未だに何一つ覚悟を決めることが出来ない。彼女を手放す覚悟も、彼女を引き留める覚悟も。それ故彼女の出す答えがこわくて一歩を踏み出せない。

 リィナに関しては、とことんまで弱くなるのだと苦く笑う。失うのも恐ろしい、留まる以外言えない状況下でやむにやまれずその決断を下す彼女の気持ちを思うと、それもまた恐ろしい。彼女にその決断をゆだねる覚悟さえも持てずにいる。

 リィナのことでなければ、答えは簡単に出せるというのに。否、答えは出ている。取るべき行動も。なのに、あまりにも愛しくて、彼女が彼の中を占めすぎて、身動き一つとれずにいる。


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