12 選択
夜に眠りが浅くなった。長い夜はろくでもない思考にばかり囚われる。
リィナを手放したくない。
ヴォルフは考える事から逃げるように酒を飲みに夜中繰り出すようになって、どのくらいが過ぎたのかさえ考えないようにしていた。
二人で元の時代に戻る術は、今もまだ見つけることが出来ていない。もっともこの時代に来て浅いヴォルフが、どれだけのことを調べ上げることが出来るのかというと、たいしたことは出来ないのはしかた無いことであったが。
そして未だにリィナに告げることが出来ずにいる。二人で元の時代に帰るより、一人で帰る方が成功の可能性が高いことを。
一度出来たことだから不可能ではないだろう。だが、おそらくあれは命がかかっていたからこその奇跡のような物ではないかとヴォルフは考えている。同じほどの危機的な状況であれば二人で時渡りすることも可能かもしれない。けれど、その先が元の時代だと、楽観的に信じられるわけがない。この時代に来たのはあくまでも突発的な物だったと考えるのが自然だった。何より命をかけて試した末に二人とも死ぬ可能性もあるのだ。
しかし、リィナ一人なら力を使いこなすことが出来れば帰ることが出来るかもしれない。
考えは堂々巡りだった。
一度は、このままで良いじゃないかと思ったりもした。リィナに言ったように、国外に出た物と思い、このまま何も知らなかったフリをして二人でこの時代にとどまればいいと。
けれど、それをヴォルフが選んで良いとは思えなかった。それはリィナが決めることだ。リィナの人生である。リィナが選ぶべき物なのだ。
実際言ったところで、リィナはおそらく出来るとしてもヴォルフを置いて時渡りをするなどと言うはずがないという思いもあった。あの少女は例え帰りたくても、ヴォルフに気を使い「一人で帰る」などと口が裂けても言わないだろう。
そうしたとき、それは彼女の心の澱となってしまうのではないかと思うと、それもまた苦しい。
怖いのだ。ヴォルフ自身が彼女の心のよどみの元となるのが。
そこまで考えて、いや違う、とヴォルフは自嘲する。そんな物は言い訳であった。ただ、ヴォルフはリィナが何も言わなくても、心の中で恨まれることに怯えたのだ。
リィナを失いたくない。彼女をこの手の届く範囲に留めていたい。彼女の尊敬や信頼、愛情をこのまま自身に向けさせ続けたい。
己の身勝手さを思い知る度に少女を見ることが出来なくなっていった。彼女にこの卑しい感情を見透かされそうで、彼女の瞳から逃げた。
逃げるほどに、彼女を求める己を自覚する。彼女を手放すことが出来ない己の感情を思い知る。
一人でどこででも生きていけると思っていた。この時代に来たことも、さして苦だと思ったこともなかった。けれど、リィナを失うことだけは、耐え難い。
そんな事に気付くにつれ、自分はリィナを守ることでこの時代に来た苦しみを耐えていたのだと、ヴォルフは知った。
グレンタールを離れ、別の国に行き、大切な人たちと距離を隔てることになり、会えなくなったとしても受け入れていた。会えないのは同じ、生活が変わるのも同じ、時代を隔てたところで変わりないと、本気で思っていた。
けれど、思い知った。
違うのだ、と。時に隔たれるのと距離に隔たれるのとでは、まったく違うのだ。この世界に存在すると知ることと、存在さえないと知るのでは、雲泥の差があった。
今までそれを気にすることなく耐えられたのは、リィナがいたからだ。リィナを守るという思いがあったから、気にせずにいられたのだ。一人だけの力で生きてきたわけではなかった。守られていたのは自分だった。
ヴォルフは逃げるように夜の酒場に出かけて、その焦燥感を誤魔化した。
連日の酒場通いの中、体を売る女を買い、ひとときの快楽に逃げようとした事もあった。
普段誘われないと行くことのない、給仕の女を買うための酒場へと足を向けたのだ。
警備隊の連中と繰り出した時は適当にお茶を濁して、一人抜け出しリィナの待つ家へと帰っていたのだが、その日は、一人でそれを目的に向かった。
けれどすぐさまその気にもならず一人で飲んでいると、声をかけてきたのは、リィナと一緒にいたとき偶然出会ったいつかの女だった。
「一人でここに来るなんて、珍しいわね。……あの、お嬢ちゃんは良いの?」
クスクスとからかうように笑って隣にすり寄ってくるのを、煩わしげにヴォルフは払う。
「うるさい」
「気が立っているようだけれど、慰めてあげるわよ?」
剣呑なヴォルフの声を気にした様子もなく、女は囁いた。
ヴォルフは酒を飲む手を止める。わずかな沈黙の後、ヴォルフは低い声で返した。
「……必要ない」
そう言った自分の言葉に、ヴォルフは眉をひそめる。
元々、そういうつもりだった。リィナを手に入れられない不安から逃れようと、女の温もりを求めてきたはずだった。けれど、いざそれを行動に移そうとすると、不快感と共にその気が失せた。残ったのは苛立ちと、腹立たしさだ。しかもそれを向ける相手が誰なのかさえも分からない。
「そう、残念だわ」
女は断られたというのに、やはり楽しげに笑っている。ヴォルフはその様子に苛立ちを覚え、吐き捨てるように呟いた。
「残念そうには見えないな」
「いいえ? 残念よ。でも苦悩するいい男を見るのは、楽しいわね。原因はあのお嬢ちゃんかしら」
「うるさい」
ヴォルフの気を逆撫でる女を追い払おうとしたが、彼女はその様子に、更に身を寄せてきた。
「やだ、やっぱり図星? そうねぇ、あのお嬢ちゃん、あなたのことは好きみたいだけれど、恋だの、愛だのいう物かどうかは、微妙だった物ね」
クスクスと笑う女が更にからかうように話す。ヴォルフの苛立ちは増すばかりだった。酒に口を付け、そして笑っている女を睨み付けたりもしたが、彼女はひるむ様子さえない。
「だまれ」
「いやよ、いい男をからかうのも、傷心を慰めるのも、こういうところの女の仕事でしょう?」
肩をすくめてこれが仕事だと笑う女に、ヴォルフ顔をそむけて応えることを拒絶した。ヴォルフ自身、それを目的でここに来ていたのである。答えられるはずがなかった。
「でも、あなたがあのお嬢ちゃんを口説けば、例えそこまでの気持ちはなくても、絶対に断ることはないと思うのだけど」
「……だからだ」
断ることはない。だからこそ、言えない。その気がなくてもヴォルフが望めばリィナはきっと断れない。
ヴォルフは低く呻くように吐露した。
「なるほどねぇ。で、どうするの? 身代わりになってあげてよ? あの子の名前を呼びながら、抱けばいいわ」
ヴォフルは女が腕に絡まるのを振り払わなかった。だが、迷うことなく応えた。
「必要ない」
もう、その気はとうに失せていた。そもそも本当に欲しいのはリィナの温もりだけなのだ。女が欲しい訳じゃない。
代わりに他の女を抱いたところでむなしいだけだと気付いた。腕にまとわりつく温もりはごまかしにさえならないのだから。
「そ。……じゃ、いつまでもこんな所にいないで、お嬢ちゃんの所に帰るのね」
女はふふっと笑うと、あっさりと態度を変え、腕をするりと解いて背中をぽんと叩いた。
「この前とは、ずいぶんと違うな」
力の抜けた様子で呟いたヴォルフに、女がクスッと笑う。
「この前お嬢ちゃんと話したあの後ねぇ、私、思ったのよ。私、あのお嬢ちゃん、嫌いじゃないわって。あんな返しをされたのは初めてだわ。思い返す度に笑ってしまうぐらい」
クスクスと女が思い出したように笑う。
「ずいぶんと楽しませてもらったから、お客さんは欲しいけど、あの子が悲しむのなら、譲ってあげるわ」
彼女はそう言って笑った。
「……そうか」
ヴォルフは少し肩を落とし、わずかに笑って肯いた。リィナを知っている女だったのも運の尽きだろう。完全に気がそがれていた。いや、知らない女だったら、むしろ嫌悪感だけを抱くだけになったのかもしれない。
そしてあの日は結局そのまま帰ったのだった。