8 変化3
「おやすみなさい」
リィナが声をかけると、ヴォルフは振り返っていつも通りに見える笑顔で「おやすみ」と返してきた。そしてリィナに背を向け、彼は寝室に入るとパタンと戸を閉める。
閉じられた戸を見つめながら、気のせいではない、と思った。
うすうす感じていたのだが、決定的だった。
どくん、どくんと激しい動悸を打つ胸を、きゅっと握りしめるように押さえる。
ヴォルフが、私を避けている。
最近彼の行動の端々にそう感じることがあった。けれどそんなはずがないと思っていた。そう思いたかった。でも、そんなふうに自分を誤魔化し続けることが出来ないところまで来たのだと思った。
おやすみと振り返ったヴォルフは、リィナを確かに見ていたが、決して目を合わせる事はしなかった。変わらない笑顔に見えたが、リィナに距離を取ったまま触れてこようとはしなかった。
癖のように髪に触れていたあの手が、最後にリィナに触れたのはいつだっただろう。
思い返せば、もう何日もヴォルフをそばに感じた事がない。「手を置くのにちょうど良い」などと笑って、いつも頭に手を置いていたヴォルフ。「ぐしゃぐしゃになるからやめて下さいっ」と言っているのに気にせず髪を撫で回してくれていたヴォルフの大きくてあたたかな手が触れてきたのは、いつだったか。
そう考えると、ヴォルフがリィナに触れられるほど近くまで歩み寄ってくることさえなくなっていた事に気付く。それだけ距離があれば頭に手を置くことは当然出来ない。
今朝は「ヴォルフ」と名前を呼んで袖を掴むと、何でもない様子で、やんわりと距離を取られた。それは何気ない自然な仕草で、だからその時はなんとか「気のせいだ」と思いたい自分をごまかせた。
でも、そんな希望に縋ったところで意味はない。避けられている現実は変えようがない。
今のヴォルフの様子に、気のせいではないと、とうとう認める事にした。
ヴォルフ様に、避けられてる。
あらためてその言葉を明確に考えた瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなる。頭の奥までガンガンと響くように胸を打つ鼓動がひどくなる。
きっと、甘えてきたつけが来たのだ。
足先まで冷えるような絶望が、どくんどくんと響く血の流れが引いていくのに合わせて押し寄せてくる。胸が苦しくて吐き気がした。
私は、どうしたらいいのだろう。
リィナはその場に座り込みそうになるのを必死でこらえ、ふらりふらりと自分の寝室へと足を進ませた。戸を閉めると、倒れ込むようにしてベッドに座り込む。
どうしたらいいのか分からなかった。頭も働かない。
ヴォルフに嫌われたのだろうか。それとも、今、ようやくリィナが全ての元凶だと思い至ったのか。
考えがまとまらない。まとまらないと言うより、何も考えられなかった。
ヴォルフさえそばにいてくれるのなら何でも耐えられた。ヴォルフがいてくれるから怖くなかった。ヴォルフが笑ってくれるからがんばれた。今のこの状況を受け入れることが出来ていた。これで良いと思えていた。
それに甘んじた結果が、これなのではないか。そう思えた。
なんて愚かだったんだろう。
リィナは軋むように痛みを訴える胸を押さえてこらえる。
今の間際まで、ヴォルフはずっとこのままいてくれると思い込んでいたのだ。迷惑をかけていると思いつつも、身勝手に信じていたのだ。ヴォルフはこのまま自分を守ってくれると、それが続くと。
ヴォルフをこんな時代に連れてきた張本人だったというのに、心の奥底では愚かにも甘えていたのだ。
彼に嫌われるだけの、見捨てられるだけの理由はいくらでも思い当たる。
ごめんなさい、ヴォルフ様。ごめんなさい。
リィナは声にならない叫びを胸の中に抱える。
こんな事に巻き込んでごめんなさい。こんな時代に連れてきてごめんなさい。
思い浮かぶのは、扉の向こうに消えた背中だった。そして、目を合わせなくても、今まで通りに微笑んでくれる彼の優しさだった。
ヴォルフは優しいから、どんなに自分を恨もうとも、見捨てることさえも出来ずにいるのだろう、そう思えた。
働かない頭は、ひたすらに、リィナの罪を突きつけてくる。
ごめんなさい、ごめんなさい。
リィナは自分の罪から逃げるように、心の中でつぶやき続けた。
まともに眠れぬまま朝が来た。
リィナはふらふらする頭を抱えながら、いつものように朝食の用意をする。
目をさましたヴォルフがやはりいつものように微笑んで「おはよう」と声をかけてくるので、リィナはそっと距離を取りつつ、けれどなんでもない様子で「おはようございます」と返した。
距離を取られていることを実感するのが怖くて、わざとヴォルフが取る距離を自らも取った。そしてリィナの確信を決定づけるように、ヴォルフがそこから先を踏み込んでくることは、やはりなかった。
リィナは昨日までと同じ笑顔を浮かべている。ヴォルフも同じだ。いつも通りの朝で、いつも通りにヴォルフは仕事に出かけた。
彼が出かけてがらんとした家の中は、しんと静まりかえっている。笑顔で見送ったリィナは深い溜息をつくと、すぐそばの椅子へと座り込む。
表面的にはヴォルフの様子はいつもと変わりない。リィナが気付きながらも今まで通りの素振りをしたためだ。
謝ることが出来れば良かったかもしれない。けれど、ヴォルフはリィナに気付かれないように隠してくれている。
ヴォルフから決定的な言葉を聞くのが怖くて、リィナは逃げたのだ。いつも通りにしていれば、何も言わなければ、いつも通りに優しいヴォルフとこのまま毎日を過ごせるのだから。
ヴォルフを失うのだけは考えるだけで怖かった。見捨てられるのはいやだった。ごめんなさいと謝ることで、ヴォルフが我慢するのをやめて、離れていったとしたら。いや、離れていくことはないかもしれない。リィナの知る彼は優しい人だ。彼女のような弱者を見捨てることは無いだろう。けれど、一度明らかにしてしまえば元に戻ることは難しい。
リィナは表面だけでも平和を保てる現状に縋ったのだ。気付かなかったことにしたかったのだ。
義務感で良い、上辺だけでも良い、ヴォルフのそばにいたかった。
嫌われていても良い。せめて、このままそばにいることさえ出来れば。
それさえ守ることが出来れば、それだけで……。
リィナはそれを祈るぐらいしかできなかった。