2 新しい生活2
ヴォルフと共に、生まれ故郷の村グレンタールを出てからの一年あまり、ヴォルフとの生活は、この時代にやってきてからほとんど変わりはない。
仕事も出来るようになったし、少しは役に立てるようになってきたとは思うが、相変わらず彼に頼りっぱなしだ、とリィナは思っている。
申し訳なく思う反面、とても幸せに思えるときもたくさんある。
なんといっても、一緒に暮らしているのはずっと憧れていたヴォルフなのだ。考えれば、それはリィナにとってとんでもないことだった。
ここに落ち着くまでの最初の頃は、とにかく慣れることに必死で、あまりそれを意識はしていなかった。けれど日常の様々なことが落ち着いてくると、不意に我に返って「あのヴォルフ様と二人きりで、家族として生活してるなんて……!」と、未だに信じられない気持ちが込み上げてくる。それはとてもくすぐったくて、嬉しいような恥ずかしいような、まさに幸せとしか言いようがない感覚になる。
しかも、未だにちょっと慣れないのだが「ヴォルフ」と呼び捨てにすること。良いのだろうかと時折考えてしまうぐらい不思議な感じがする。でもその慣れない響きを口にするのは、嬉しくもくすぐったい、幸せな響きだ。とはいえ呼ぶときは未だに緊張してしまうのはどうにもならない。家の中では、ついつい「様」と敬称を付けてしまうことがあり、「ちびすけは、どうしても俺にお仕置きをされたいらしいな」と、家の中で追いかけられることもたびたびである。
そんなときはどんなに逃げ回っても狭い家の中だ、ヴォルフに勝てるはずもなく、結局、すぐに捕まって、髪をぐしゃぐしゃになるまで撫でられたり鼻を摘まれたりとさんざんな目に合う。大柄なヴォルフに捕まった後はその太い腕から逃げる事も出来ず、好き勝手に遊ばれ、その上やられることがどれもこれも子供への対応そのもので、リィナはいつもふてくされる羽目になるのだ。それをヴォルフがいかにも楽しそうに、にやにやと笑ってみるのが、更にむっとしてしまう。
もう、絶対に「様」なんて付けてあげないんだから!! と、リィナはその度に心に誓うのだが、気が抜けると何となく様と付けてしまう。外では気をつけていても、家の中だと、どうしても気がゆるんでしまうようだ。
思うに、「様」を付けてしまうのはヴォルフの妙な威圧感のせいではないかとリィナは考えている。怖いとか偉そうにしているというわけではない。いや、偉そうといえばそうなのかもしれないが、どちらかというと堂々としているという感じで怖いわけではない。ただ、やはり人の上に立つ人間らしい迫力があるように思うのだ。何となく人を従えてしまう、つい頼ってしまう、つい言葉に耳を傾けてしまう、そんな雰囲気が。
それは決して、リィナがついついヴォルフに甘えてしまう言い訳ではない……と、リィナは心の中で言い訳する。
ヴォルフ様が立派すぎるのがいけないと思うの!
心の中でリィナは思いっきり言い訳をして、やっぱり「様」と付けてしまった自分に嘆息する。
きっと、こういうところがヴォルフに甘えているところなのだと、溜息混じりに項垂れる。けれど呼び方一つ満足に変えられない自分の傍に、ヴォルフは当たり前のようにいてくれる。
ヴォルフは相変わらず優しい。二人きりの家族だからと、生活を始めたあの頃と変わることなく。
そうして向けられる優しさを嬉しく思う反面、憧れていた淡い想いがリィナを苦しく締め付けてくる。
リィナは、胸をよぎる苦さに少しだけ笑って気持ちを紛らわせる。
彼にとって、自分は家族でしかないのだ。彼をこの時代に引き込んだ自分は優しく守ってもらえているだけでも奇跡のようだというのに、それ以上望んで良いはずがないのだが、それでも、変わることのない距離は、わずかに胸を刺す。
ヴォルフを思う気持ちは、どんどん、どんどん降り積もって行くのに。
けれど、リィナはそれに気付かないふりをする。気付いて良いはずがない、求めて良いはずがない感情だから。
だから、大丈夫、辛くなんか無い、と、リィナは心の中で呪文のように唱えた。
こうして、ヴォルフ様と一緒にいられるだけで、私は、幸せなのだから。
リィナは胸の中の苦しさを端っこに追いやると、気を取り直して手に持っている飾り石をテーブルの上に置いた。
もらってきた飾り石を広げると、色や大きさ、数を確認しながら、仕事道具を持ち出し、刺繍の模様を考え始めた。
今日はこのまま家での作業をするのだ。
ヴォルフはこれから明後日の朝までは休みなのだから、例え仮眠中とはいえ、せっかく一緒にいられる時間を無駄にするつもりはない。リィナはヴォルフを起こすまで制作に取りかかることにした。
ヴォルフが今している仕事は神殿の警備隊だった。神殿の警備というより、神殿から請け負って、エドヴァルドの警備をしているらしい。あまり詳しくは話してくれないが、場合によっては戦にかり出されることもあるかもしれないという。今はそんな状態ではないと、何度も言われているが、その事が少し心配に思ったりもする。けれど仕事柄いろいろと情勢をつかみやすく情報も集まりやすいのだと言っていた。
リィナはちらりとヴォルフの部屋を見る。
ヴォルフはいつもリィナを気に掛けてくれているが、家の中で一人で仕事をしていることもあって、時折無性にヴォルフが家を空ける時間が長く感じて、どうしようもなく寂しく感じることがある。この時代に来てすぐの、ずっと一緒にいられた頃を思い出して、ふと恋しくなる。
離れていることが不安だなんて子供じみていると思う。置いて行かれるような気持ちもあるし、警備隊という仕事内容を思うと、ヴォルフの身を案じる気持ちもある。
しかたがないと思いつつも、リィナはヴォルフの仕事を思って、今度は不安に囚われる。神殿の警備隊は戦に向けての強化が目的で結成された物だ。戦には直接出ることは、現時点では想定されていないらしいが、それでも戦火が近づいてきたらその限りではない。しかも寄せ集めの警備隊などは、万が一の時は真っ先にかり出されることになるだろう。更に正規の兵士ではないために荒くれ者達も多いと聞く。
その中で、ヴォルフは上手くやっているようなのだが、詳しく話すような性格でもないので、やはりリィナにはよく分からず、時折、身の程知らずにも心配をしてしまうのだ。もっともヴォルフの方がよっぽどリィナを心配しているようである。治安がしっかりしているとはいえ、なんだかんだ言っても情勢の安定していないこの見知らぬ町で、一人で置いておくことになるのだから。
多少のことは覚悟していたこととはいえ、せめてヴォルフが怪我などをしないようにと祈る。二人で決めて得た生活だ。ヴォルフはこの生活を望んでいるし、リィナ自身はどれが最善なのかさえ分からない状態である。自分がどうしたいかも分からないような状態で不安を口に出したところでヴォルフに心配をかけるだけになる。できる事はヴォルフの安全を祈ることと、彼に心配をかけないように、不安げな素振りを見せない事ぐらいだろう。
リィナは手を止め、ふっと息を吐くと、ぐっと体を伸ばす。
思うことはいろいろあるが、考えてもしかたがない。
飾り石の色分けもすみ、今やっている刺繍への折り込みに使う分も決まっていた。
「よし」
リィナは刺繍に専念した。