38 旅立ち3
町が見えてきた。
「今日はここで宿を取ろうか」
ヴォルフの言葉に、少し安堵してリィナは肯いた。日が沈んでそんなに経っておらず、まだ空はそれほど暗くはなっていない。カルコシュカまであと半日足らず、という位置にある町、ヤンセンに入っていた。
ヴォルフからすると強行にはほど遠いゆっくりとした道のりだったが、リィナにとっては慣れない一日がかりの馬上の移動であり、少なからず、その小さな体に負担をかけていた。
それでなくても夜から早朝に時渡りしたために丸二日不眠不休同然である。馬上で多少はうとうとしていたとはいえ、とても休めていない。リィナの疲れ切った様子に、このままカルコシュカまでいけそうにはないとヴォルフは判断した。
あまりゆっくり出来る旅ではない。リィナが脱出するまでに、出来るだけ遠くに逃れていた方が安全だ。それゆえヴォルフとしては、もう少し先に進みたいと思っていた。けれどヤンセンからカルコシュカまでの間に、宿を取れるような集落はない。出来れば、翌朝にはカルコシュカに到着していたかったのだが、リィナの様子に、そこまで無理をさせるのは気が引けた。その上、今はまだこの時間にいるべきリィナは神殿にいるのだからという安心感もあった。
そう、現時点において、神殿はまだリィナが時渡りが出来ることを把握していない。確実な猶予はこの日の夜まで。リィナの時渡りが今夜知られるとしても、一日早くグレンタールを出ているのだから早馬でかけても明日の昼までにカルコシュカを出ることが出来れば、ほぼ問題なくコルネアを離れることが出来るだろう。明日の朝早く出立すれば問題がない。
おそらく、神殿側は、少女が一人で逃げていると侮っているはずだ。明日中にリィナがカルコシュカまでたどり着けるという予測は出来ないだろう。
だが、実際はヴォルフがついている。
まあ大丈夫だろうと、ヴォルフがこの後の計画について練り直している最中も、腕の中でリィナは物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。
「ヴォルフ様、ここは、どこですか?」
村を出たことのないリィナはどの道がどこに続いているのかを知らない。人の往来があるグレンタールで生活していれば、自然と近隣の町や村の名前を聞くこともあるが、位置関係を把握できるほどではなかった。
初めてのグレンタール以外の町並みに、リィナは少しどきどきしながら辺りを見渡す。好奇心は、ほんの少し、リィナの不安を押さえていた。
「ここはヤンセンだ。宿場町だから、結構いろいろとそろっているぞ。……が、残念だが、今日は必要最低限をそろえて、メシ食ったら寝るぞ。観光をするのは、国を出てからだ。明日は早朝にたたき起こすから、覚悟しておけよ」
にやにや笑って脅すように言うヴォルフに、リィナはむっとふくれる。
「わ、わかっていますもん!」
と、言いながら、ふとリィナは店先の商品に目を奪われる。
そう言えば、この辺りは翡翠がとれるんだったっけ。
リィナは自分が働いていたアヴェルタの店で、ヤンセンから仕入れてくる材料に翡翠の装飾品が多くあったことを思い出す。
目の色と同じだからとアヴェルタが勧めてくれていたことを、まるで遠い昔のことのように思い出しながら、その翡翠があしらわれた髪飾りを見つめていた。
「寄り道している暇はないと言っているだろう?」
ヴォルフが後ろからリィナに囁いた。
リィナは思い出を振り切るように笑うと、それから目をそらした。
「はい」
と、リィナが答えるより早く、ヴォルフはリィナの返事も聞かずに唐突に馬を下りた。
「……え?」
リィナが見つめる先で、ふむ、と頷きながら、ヴォルフが翡翠の髪飾りを見つめている。
よく分からぬまま呆然とその様子を見つめていたリィナに、ヴォルフはその中の一つを取って、リィナに見せる。
「この色が、おちびちゃんの目の色と合っているな」
花を形取った銀細工に、そこから鎖で垂れ下がった翡翠の珠。リィナの髪にそれをかざすと、ゆらゆらと小さな玉が二粒揺れるのが目の端に映る。派手ではないが、かわいらしい意匠の髪飾りだった。
「え、あっ……」
リィナが訳が分からず動揺しているうちに、ヴォルフは「お嬢さんによくお似合いですよ」と笑う店の主人に代金を渡し、さっさとそれを購入すると、リィナを馬から下ろす。
そして、その髪に、先ほど買った髪飾りを付けると「似合うじゃないか」と、いたずらに成功したようにヴォルフが笑った。
「え、あのっ、ダメです、こんな……」
慌てふためくリィナに、ヴォルフは軽く笑い飛ばすと
「ほら、遊んでいる時間はないんだ、宿に行くぞ」
と、馬を引きながらリィナを歩くように促す。
寄り道なんて出来ないって言ったくせに。
宿までの道のりを、リィナが少しでも楽しめるようにしてくれたのが分かる。
これまでの道のりでひたすら移動し続けた疲れはあったが、こうして別のことに目を向けさせてくれることが、リィナに精神的なゆとりを与えてくれる。
「あの、ヴォルフ様……?」
「うん?」
隣を歩くヴォルフを見上げると、リィナを安心させるように見下ろしてくる、優しい顔に出会う。
「これ、ありがとうございました。その、うれしいです」
リィナの好みにあったかわいらしいその飾りの重みが、とてもうれしかった。
「そうか」
ヴォルフが笑ってその髪をいつものようにぐしゃぐしゃっと撫でようとして、髪飾りを気遣い、そっと撫でるに留めた。
無骨で骨張った手が似合わぬ優しさで、そっと髪を掬うように撫で、リィナはその感触にうれしいような恥ずかしいような感覚を覚え、わずかに肩をすくめる。けれど、その大きな手の感触が、胸に温かい安心感を運んできた。
「でも……あの、これから先のこともありますし……お金……」
「ダメなら買わないさ」
そう言って、ヴォルフは何でもないように笑った。
急ぐ旅、そしてあてどない旅。いくらお金があっても足りないかもしれないというのに、ヴォルフは、リィナの笑顔を優先する。
「ヤンセンの翡翠は質が良い。ここで買うよりも外で買う方がずっと高い。これからの旅先で売れば、買った以上の値が付くこともある。それは、銀細工もそれほど悪い品でもないからな。もし、この旅で金がつきたら、それは売ってもらうぞ」
意地の悪い顔をして売ると言ったヴォルフに、リィナはぱっと表情を明るくして肯く。
「……はい!」
「後で売れと言って喜ばれたのは、初めてだな」
ヴォルフがそう言って笑う。
「いえ、売らずにすむようにがんばります! ずっと、ずっと大切にします!!」
リィナは力を込めて言うと、ヴォルフを見た。
「ありがとうございます!」
リィナが気に病まなくて良いようにと言ってくれた言葉だと分かっている。それでも、そう思うだけで安心して喜べた。
そして宿を決めるまでの間に、旅に備えて主にリィナの荷物をそろえてゆく。何が必要かさえ分からないリィナだったが、ヴォルフの説明を聞きながらの買い物は、これから先の旅の過酷さを想像させるよりも、冒険じみたワクワクする興奮のような楽しみがあった。
どういう形であれ、買い物とは女性にとって楽しい物であった。
「必要最低限は、このカバンに入れて置くからな。旅先では何が起こるかも分からない。万が一にでもはぐれたら、ちびちゃんが何の装備もしていなかったら、大変なことになる。これからは必ず、これだけは常に持っていろ」
まだ中身は入ってないが、買ったばかりのカバンを受け取ってリィナは力強く頷く。丈夫そうだが、割に軽い。まだ空っぽのカバンを肩にかけてみると今更ながらに、これから二人で旅に出るという実感がわいてきた。
「ははっ、おちびちゃんがそんな格好をすると、なんだか勇ましく見えるな」
リィナのいかにも町娘らしい風貌に、いかにも旅用といった丈夫な革のカバンがおもしろいほどにそぐわない。
「……褒めてないです!」
何となくヴォルフの言わんとするところを読み取ったリィナが噛みつくと、ヴォルフがなおも楽しそうに笑った。
35話 逃避5 の後、
ヴォルフとリィナを見送ったラウラとコンラート。
「エリノア」とは、リィナの生みの母である先読みの姫巫女の名前です。
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「さて、行ってしまったね」
コンラートは腕の中のラウラにほほえみかける。
「はい」
すんと鼻をすすったラウラの鼻の頭に、コンラートはキスをする。
「あの……」
「ん?」
「その……」
ラウラは躊躇いがちにコンラートを見つめる。コンラートはそれを愛おしく思いながら見つめていた。
「何度も言ったよね、私が愛しているのは、君だと」
「……だって、エリノア様は……」
ラウラが悲しげにつぶやくのを見て、コンラートは溜息をついた。
「やっぱり、まだ彼女のことを気にしていたんだね。あれは、昔のことだ。さすがに、もう引きずっていないよ。私も後ろを向いて生きていく気はない。私が共に前を向いて歩んでいきたいのは、君だけだ」
「……それでも、エリノア様を、愛しているでしょう? あなたが、私の事を大切にしてくれているのは、分かっているの。仮の夫婦役として生きて行くには、十分すぎるぐらい、大切にしてもらったわ。でも、リィナも行ってしまった今、私が、あなたの人生を……」
「ラウラ。君は聞いていなかったのか? 私は、今まで、君に守られて生きてきた。君に、どれだけ私とリィナが守られてきたと思っているんだ。今更、君なしの人生など、どうして私が生きていける? ようやく、私は君を守るために生きることが出来るんだ。今までは、君に何をしても、私がやる事はリィナのためだと君は思い込んできた。違うと言っても、君は笑って、うなずいて、心の中で勝手にそう解釈する。どれだけ愛していると言っても、君は信じてくれない。リィナは旅立った。きっとヴォルフ殿がいればあの子を幸せにしてくれる。私が守るべき者ではなくなった。いいかげんに、私の気持ちを信用してはくれないか?」
「……だって、一生の恋だと……」
「勘弁してくれ。若いときの熱病だ。確かに、一生の恋をしたよ。エリノアを恋うたことは、きっと一生忘れないだろう。しかし、今、私が愛しているのは君だ。仮にエリノアが私の妻になると言っても、私は彼女を選ぶことはない。私の妻は君だけだ。共に歩んでいきたいのも、誰よりも守りたいのも、君だ。あんな熱病に浮かされたような恋ではないかもしれない。しかし、私が男として一生をかけるほどに愛しているのは、ラウラしかいない。……それとも、君は、私に同情しただけだった? エリノアに捨てられた男を仕方なく慰めただけで、こんな事を言われるのは、迷惑なのか?」
苦しそうにつぶやくコンラートに、ラウラは必死で首を横に振る。
「そんなわけっ」
「じゃあ、君も、私を愛している?」
「ええ、あなたを、愛しているわ」
「君の同情心と、エリノアへの忠誠心につけ込んだのかと思うと、ずっと恐かった」
「あなた?」
「……これでも、恐かったのだよ。リィナが行った今、君が私の元にとどまらなければならない理由もなくなった。君が出ていくのではないかと」
「……ちょっと、考えたけど」
「冗談じゃないよ。君に出て行かれたら、私は地の底まで追いかけるよ」
「……ホントに? 溜息をついて、その場に座っていそうです」
「……まあ、エリノアの時は、そうだったけどね。私は、君に関しては、諦める気はないよ」
ちらりとラウラを見つめるコンラートの目が笑うように弧を描く。しかし、笑っているようには到底見えないほどに、物騒な笑みだった。
「君も、そろそろ、私の本気を理解した方が良い。私は、気は長い方だけれど、そろそろ、待ち疲れたしね。ついでに執念深いんだよ、これでも」
にこにことコンラートが人の良さそうな笑みで言う。しかし、むしろ目は獲物を狙う肉食獣並みの物騒さがやどり、えも言えぬ迫力に、ラウラが一歩下がろうとした。
けれど、あっさりと遮られ、ラウラはコンラートの腕の中にとらえられた。
「じっくりと、話し合おうじゃないか」
にこにこと笑うコンラートに、ラウラは身を小さくして、「はい」と、小さな声で肯いた。
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らぶらぶでした。
この夫婦を、ものすごく気に入っています。
いつかこの二人が夫婦になることになった話を書きたいです。




