35 逃避5
リィナは最低限の生活用品と日持ちのする食料をラウラと共に準備をした。
「助けてあげられなくて、ごめんね」
ラウラが、ぽつりとつぶやいた。
リィナはとっさに否定する。
「助けてくれたよ。必ず助けてくれるって思えたから、がんばれたのよ」
リィナは母親と短い合間に話をする。神殿でのことも、先読みの姫巫女と話をしたことも、準備をする合間に話せるだけ話した。
ずっと、こうして何でも話しをしてきた。いつも誰よりも側にいてくれた人だった。血が繋がってなくても、リィナの一番身近な存在だった。
「……お母さん、一緒に行こう」
もしかしたらこのまま会えなくなるかもしれないと思うと、耐えられずに、リィナは懇願した。
失うのが怖かった。そして、離れるのが怖かった。
けれど、ラウラは首を横に振るのだ。
「子供のことを一番に考えるのが親の仕事よ。リィナが幸せになるのが私の幸せなの。だから、お願い。お母さんのわがままを聞いて。今度こそ、自分の事を一番に考えて。あの時とは違うから。お父さんとお母さんは、自分の身は自分で守るから。神殿に戻りたくないのなら、今はまず、自分の事を考えなさい。私達のことを心配するなら、精一杯、自分が幸せになる道を進むのよ」
まっすぐに見つめて言うラウラの言葉に、リィナは首を横に振った。
「でも、お母さんが、血の繋がってない私の為に犠牲になる必要ない」
涙を堪えていったリィナに、ラウラが、つんとすました言い返す。
「じゃあ、あなたも、血の繋がってない私の為に犠牲になる必要はないわ」
「ちがうもん、お母さんは私を育ててくれた」
「私は、リィナにいっぱい笑顔をもらって、幸せをもらったわよ」
ラウラはわざとらしいほど自慢げに笑った。
リィナはそれに、泣きそうな顔をして首を横に振った。
「でも」
「リィナ。血のつながりは確かに大きなつながりの一つだけど、愛情は血のつながりだけじゃないでしょ。愛情は、自分たちで築き上げていく物だから。私がリィナを大切に思うのは、私とリィナが赤ちゃんの時から積み上げてきた愛情があるから。私が「リィナを」愛してるから。お母さんの愛を、見くびるんじゃないわよ? わかった?」
返す言葉を失ったリィナに、ラウラはこの話はこれでおしまいとでも言うように、「それから、これも」と、何でもないような素振りで袋を一つ渡す。それには、リィナのような少女が持つには、過分すぎるほどのお金が入っていた。
リィナとラウラが戻って来たときには、ヴォルフがコンラートとこの後のことについて話し合っていた。
「リィナ、夜が明ける前に家を出なさい」
コンラートの言葉を聞いたとき、そんなにすぐ、という気持ちの方が大きかった。離れがたい思いがリィナの胸を占めていた。しかし、そうするのが最善という事も分かる。
頷きながらも、リィナはコンラートに問いかけた。
「お父さん、本当に一緒に逃げなくて大丈夫なの?」
不安げな声に、コンラートはいつもの穏やかな表情で確かに頷く。そして彼の大きな手がそっと伸ばされ、リィナの頭にそっと触れた。
「お前は今神殿にいる、だから私達は何の関与もしていない。知らないことを罪には問われないよ。そうだろう? それに、私達はおまえの足枷にしかならない。逆に言えば、私達はリィナを思い通りにするための道具にもなる。側にいると互いに危険だ。おまえが捕まらなければ、なんの罪もない私達は大丈夫だ。だから精一杯逃げなさい。お前が捕まりさえしなければ私達の身は逆に安全なのだよ。おまえに言うことを聞かせたければ、私達が生きていないと、ダメだろう?」
「でも、あの人は、そんなに簡単に騙されてくれないでしょう?」
詰め寄るリィナに、コンラートは、クスリと微笑む。
「エンカルトのことかい?」
頷いたリィナに、コンラートは困ったように首をかしげた。
「そうだね、彼を騙すのは、ちょっと難しいかもしれない。でも、あの子はきっと、私達を処刑するようなことはまずしないと思うよ」
……あの子?
あの冷徹な男を示すのにふさわしくない言葉に、一瞬リィナは戸惑う。
「どうしてそう言い切れるの?」
「私達は、おまえを得る為の切り札だからだ。むしろ、リィナが捕まらない限りは、大切に保護してくれるだろうね。ああ見えて可愛いヤツなんだ。彼が引き留めるのを私が振り切って神殿を出たもんだから、すっかりひねてしまっているが、未だに根に持っていたところを見ると、十五年も経っているのに、まだ拗ねているんだろうよ」
可愛いだろう? と、冗談めかしてコンラートが笑う。
「……でも、あの人、私を神殿に入れるとき、本気でお父さんとお母さんを殺すつもりだったよね?」
コンラートの言葉には到底肯きがたくて、リィナが不安を口にすると、コンラートが苦く笑った。
「そうだな、あの時はおまえが決断してくれたことを、……正直、感謝したよ。あの子は、確かに、紛れもなく本気だった。おまえを得る為なら、迷わず私達を処刑しただろう。しかしその際、まず犠牲になるのは、ラウラだ。おまえの決断は、間違いなくラウラを救った」
コンラートは、重い口調で肯いた。
「だが今回は大丈夫だ。あの時とは状況が違う。私達を使って脅すには、おまえが目の前にいなければどうしようもない。私達も、おまえの安全が保証されているのなら、何とでもなる。伊達に神殿に長くいた訳じゃないんだよ。私達のことは心配するな、大丈夫だ」
コンラートが、にこりと笑った。希望ばかりの子供だましな内容だが、それでも真実を織り交ぜての言葉は説得力を持ち、リィナには、それなりに納得の行く答えとなった。信じたいと思う気持ちが、リィナの目を曇らせたのかもしれない。
苦くも肯いて了解を示したリィナに、コンラートはにっこりと笑ってリィナとヴォルフを見た。
「それに……二人が行けば、私達は初めての夫婦水入らずなのだよ」
ふふっとコンラートが笑い、リィナとヴォルフは突然の話の転換に面を食らう。隣にいたラウラまで目を剥いてコンラートを見た。
「……は?」
「リィナは私達の娘だが、親が一生子供を守る物ではない。いずれは私達の手から羽ばたいてゆく存在だ。子とはそういう物だ。私が一生をかけて守りたいと思う者は、ラウラだけなのだよ」
そう言ってコンラートが彼を見上げるラウラに視線を合わせる。
「……え?」
話の展開が読めない。それはコンラートの視線を受け止めるラウラも同じだったようだ。
「……あなた?」
「君に、私は守られてばかりだったが、今度は、私が守る番だ」
ラウラを抱き寄せるコンラートに、ラウラが心底うろたえた様子でコンラートとリィナとヴォルフを順番に見る。
「……コンラート殿」
ややあって、ヴォルフが頭に手をやって、うめくようにつぶやいた。
「なんだい?」
「そういうのは、俺たちが行ってから、二人でやって下さい」
ヴォルフの隣で、リィナがこくこくと肯く。ついでにラウラも顔を真っ赤にして肯いた。
それを受けてにっこりとコンラートが笑う。
「そうだね。それでは、ヴォルフ殿、リィナを頼むよ」
ラウラを抱きしめたまま笑うコンラートを見て、ああ、とヴォルフは得心する。
彼は、しめやかな別れなど望んでいないのだと。どこか未来のある、いつかまた会える、そんな予感を演出しているのだと。
「まかせて下さい。リィナは俺が守ります。お二人も、どうぞよろしくやって下さい?」
あえてからかうような物言いをすると、コンラートが微笑んだ。
彼の望み通りの答えが出来たようだと、ヴォルフは思う。
「お父さん、お母さん、ごめんね」
リィナが二人を両手いっぱいに抱きしめる。
「後のことは気にするな。私達で何とかなる。リィナは思うように、いきなさい」
「……はい!」
「リィナ、これを……」
ラウラが、自分の首から肌身離さず提げていた首飾りを外し、リィナの首にかけた。
「……私が姫巫女様から……あなたを生んだお母様からいただいた守石よ。私をずっと支えてくれていたの。姫巫女様と、私たちと、リィナを思うみんなの気持ちが込められているの。お守りと思って、持って行って」
「うん……ありがとう」
リィナはそれを首にかけると、大切そうに、それを握りしめた。
間もなく夜が明ける。明るさを増した空に、彼らは準備の手を早めた。
そして、慌ただしく、別れの時は来た。
ヴォルフとリィナは馬に乗ると見送る二人に手を振り、夜明け前のグレンタールを駆け抜けていった。