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激務アラサー女子、雨の日に拾った18歳のワンコに胃袋と理性を奪われる〜逃げた御曹司の重すぎる執着愛〜  作者: ヒデコ


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第41話:本家からの呼び出し

東海道新幹線の車窓を流れる景色が、緑豊かな近畿や東海の山並みから、次第に無機質なコンクリートと密集したビル群の連なりへと移り変わり、初夏の正午過ぎの強い日差しが東京駅の巨大なガラス屋根を白く焼き焦がしていた。

改札口を出たところで待機していたのは、神楽坂が手配した黒塗りのハイヤーだった。

重厚な革張りの後部座席に並んで滑り込んだ瞬間、外界の喧騒は嘘のように遮断されたが、車内に漂う空気は決して穏やかではなかった。運転手は一言も発せず、バックミラー越しに後部座席の二人を観察するような冷たい気配を漂わせていた。

けれど、湊はその視線を一切意に介さなかった。

ハイヤーのシートの上で、湊は葵の右手を自らの両手でぎゅっと包み込み、一度たりとも離そうとはしなかったのだ。

骨張った長い指が葵の指の隙間に深く絡み合い、手首の内側、ドクドクと拍動する脈の上に湊の親指の腹が常に触れていた。体温を確かめるように。二度と自分以外の世界へ逃げ去らないように。無言のまま注ぎ込まれ続けるその執着の熱は、葵にとって息苦しい束縛などではなく、何よりも頼もしく、切ないほどに温かな命綱だった。


車は世田谷の閑静な住宅街へと滑り込み、見慣れたマンションの前で音もなく停止した。

「……着きましたよ、葵さん」

湊が小さく囁き、先に降りて葵の手を取った。

見上げる二〇五号室のベランダ。昨日の朝、自らの手で閉ざし、もう二度と戻ることはないはずだったあの部屋が、初夏の青空の下で静かに佇んでいた。

エントランスを抜け、エレベーターで二階へ上がる。

内廊下を進み、玄関のドアの前に立つ。

湊がポケットから取り出した合鍵を鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回した。

カチャリ、と解錠の音が鳴り、扉が内側へと押し開かれる。


――ふわり。

部屋の中から流れ出してきたのは、昨日まで葵たちが確かにここで紡いできた、甘やかで家庭的な日常の匂いだった。

朝に湊が焼いてくれたフレンチトーストの発酵バターの甘い名残。

葵が愛用している石鹸の清潔な香り。

そして、キッチンのカウンターの上に置き去りにされていた、あの山梨産の白桃の紙袋から漂う、熟れきった瑞々しい芳香。

ローテーブルの上には、昨日の昼、葵が自らの心をナイフで引き裂きながら書き殴った、あの別れの手紙の切れ端が残されていた。

葵の足が、上がり框の上でピタリと止まった。

胸の奥底が、罪悪感と安堵の混ざり合った激しい感情に締め付けられる。

「……私、本当に……帰ってきちゃったのね」

葵の唇から、掠れた吐息が零れ落ちた。

すると、背後からスッと伸びてきた湊の逞しい腕が、葵の細い腰をすっぽりと抱きすくめた。

ドサッ、と背中に密着する湊の胸板の厚み。

湊は葵のうなじに自らの顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

「帰ってきたんじゃないですよ」

耳朶を甘く撫で上げる、低く掠れたハスキーボイス。

「僕が、連れ戻したんです。……ここは、葵さんの部屋であると同時に、僕の生きている唯一の場所ですから」

湊の手が、葵の腹部の上でぎゅっと結ばれる。

昨夜の安ホテルでの激しい情事の名残が、首筋や手首の痛痒感となって生々しく蘇る。

葵は湊の腕の上に自らの手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。

逃避行は終わったのだ。

大人の分別という欺瞞を捨て去り、この十八歳の青年の手を取り、共に地獄まで歩む覚悟を決めて、自分はここへ戻ってきたのだと、部屋の空気を吸い込みながら深く胸に刻み込んだ。


湊は葵を靴のまま抱き上げるようにしてリビングのソファへと運び、優しく座らせてくれた。

「葵さん、長時間の移動で疲れたでしょう。まずは冷たいお茶を淹れますね。それから……昨日の桃、綺麗に剥いて冷やしておきますから」

湊はそう言って、いつものようにエプロンを手に取り、慣れた手つきで腰の後ろに紐を結んだ。

その横顔には、昨夜の安ホテルで見せた狂気的な獣の面影は綺麗に隠され、愛する女性のために甲斐甲斐しく尽くす、あの完璧な年下男子の顔が戻っていた。

台所でヤカンに水を入れる音。

冷蔵庫を開閉する音。

トントントン、とまな板の上でフルーツを切り分けるリズミカルな包丁の音。

一度は完全に失われたはずだった日常の旋律が、葵の乾ききった心に、染み渡るように安らぎを与えていく。

運ばれてきたのは、水出しの冷たい緑茶と、硝子の小鉢に美しく盛り付けられた白桃だった。

淡い桃色の果肉は、一口大の乱切りにされ、表面には微かにレモン果汁が打たれて変色を防ぐ配慮がなされていた。

「どうぞ、葵さん。フォーク、使ってください」

「ありがとう、湊くん……」

葵はフォークを手に取り、果肉を一口運んだ。

じゅわり、と口いっぱいに広がる、濃厚な果汁の甘みと芳醇な香り。

あの日、配送センターの泥臭いアルバイトで、湊が自分のために流した汗の結晶。

「……すごく、甘い。美味しいわ、湊くん」

「よかった」

湊はソファの足元、ラグの上に直接腰を下ろし、葵の膝の上に自らの顎をコテンと預けて見上げてきた。

上目遣いに向けられる、漆黒の瞳。

葵がそのさらりとした黒髪に指先を滑らせると、湊は心地よさそうに細い目をさらに細め、喉を鳴らす仔犬のように葵の太ももに頬を擦り寄せてきた。

平穏だった。

このまま、外の世界のすべての嵐から目を逸らし、この小さなワンルームの殻の中で、ふたりきりで寄り添い続けていられたら、どれほど幸福だろうか。

葵は心の中で、そう願わずにはいられなかった。


――だが。

現実は、ふたりに束の間の休息すら許すつもりはなかった。


ピンポーン――。


静寂を切り裂いて、玄関のインターホンが無機質な電子音を部屋中に鳴り響かせた。

葵の指先が、ビクリと凍りついた。

膝の上の湊の身体が、一瞬にして硬直する。

穏やかだった湊の瞳から、甘やかな光が潮が引くように消え去り、零度の冷気配が宿った。

「……僕が出ます」

湊は静かに身を起こすと、葵を安心させるようにその肩をポンと一度だけ優しく叩いた。

そして、エプロンを外すこともなく、音もなく廊下へと進んでいった。


インターホンのモニターを確認した湊の背中から、ピシリと殺気配が立ち上るのを、葵は遠目からでもはっきりと見て取ることができた。

オートロックを解錠するボタンが押され、数分後、玄関の外廊下を規則正しい革靴の足音が近づいてきた。

カチャリ、とドアが開かれる。


「……何の用だ、神楽坂」

湊の低く冷徹な重低音が、玄関に響き渡った。

葵はソファから立ち上がり、廊下の影から玄関の様子を窺った。

そこに立っていたのは、やはりあの男だった。

九条本家直属の顧問弁護士、神楽坂征四郎。

仕立てのいい濃紺のスリーピーススーツを寸分の乱れもなく着こなし、白髪混じりの頭髪をオールバックに固めた初老の男。

昨日、黒塗りの高級サルーンの中で葵を冷酷に罵倒し、手切れ金を突きつけて自爆へと追い込んだ張本人。

神楽坂は、玄関先に仁王立ちして自らを睨みつける湊に対し、深々と、直角に近い角度で恭しく一礼してみせた。


「湊様。ご無事のご帰着、何よりに存じます」

「白々しい口を利くな。尼崎で言ったはずだぞ。葵さんにも、この部屋にも、二度と近づくなと」

「ええ、重々承知しております。私個人の独断であれば、決してこのような無粋な真似はいたしません。……しかしながら、私にも抗えぬ絶対の命が下りましてね」

神楽坂はそう言うと、携えていた上質な本革のアタッシュケースをその場で開き、中からひとつの『物』を恭しく両手で取り出した。


葵は息を呑んだ。

それは、手紙などという生ぬるい形状をしていなかった。

深みのある黒漆(くろうるし)で磨き上げられた、長方形の平らな木箱。

その中央には、純金で細密に象嵌(ぞうがん)された、九条家の格式高い家紋――『下がり藤に三つ巴』の紋章が、鈍く、禍々しい光を放っていた。

神楽坂は、その漆塗りの木箱を両手で捧げ持ったまま、低く厳かな声で宣告した。


「当主・九条宗右衛門(そうえもん)大御所様より、直々の親書にございます」


「――っ!」

湊の顎が、ピクリと激しく引き締まった。

九条宗右衛門。

湊の父・宗一郎のさらに上。

かつて九条グループを戦後の焼け野原から国内屈指のコングロマリットへと押し上げ、九十歳近い高齢となった今なお、政財界のフィクサーとして裏から日本を動かし続けている、九条一族の絶対権力者――湊の実の祖父。

現在の当主・宗一郎ですら、その父である宗右衛門の言葉には一言たりとも逆らうことはできない。九条という巨大な帝国の、正真正銘の『王』。

「爺さんが……僕に?」

「いいえ」

神楽坂は冷徹に顔を上げ、湊の肩越し――廊下の奥に立つ葵へと、その氷のような視線を真っ直ぐに突き刺した。

「湊様、そして……そこにいらっしゃる、藤堂葵殿。お二方に対する、正式な『召喚状』でございます」


「……私に?」

葵の喉から、掠れた声が漏れ出た。

湊が即座に一歩前に踏み出し、葵の視界を自らの広い背中で完全に遮るように立ちはだかった。

「ふざけるな。葵さんは関係ない。用があるなら僕一人で本邸へ行く。その箱を持って、今すぐ失せろ」

「そうはいきません、湊様」

神楽坂の声には、一切の揺らぎがなかった。

神楽坂は木箱の蓋を静かにスライドさせ、中から取り出した純白の奉書紙を、自らの手でゆっくりと広げた。

そこには、墨痕鮮やかに、流れるような毛筆の達筆で、冷酷な文面が認(したた)められていた。

「大御所様は、すべてをお見通しでいらっしゃいます。湊様がこの女性のために本家の情報網を私的に動かし、チャーター機を飛ばして関西まで迎えに行かれたことも。そして、この女性が一度は身を引こうとしながら、再び湊様の手を取って東京へ戻られたことも」

神楽坂の朗読する声が、玄関の空気を凍りつかせていく。


「『明後日、日曜日の正午。九条家本邸・大広間へ両名揃って出頭せよ。一族一同、相応の儀をもって迎え入れる』……これが、本家からの正式な呼び出しにございます」

「断る」

湊は即座に吐き捨てた。

「僕たちの問題だ。一族の査問委員会ごっこに付き合う気など毛頭ない。帰れ」

「……お断りになるのであれば、相応の措置が即座に発動いたします」

神楽坂は、奉書紙の末尾に小さく記された追記の条項へと視線を落とした。

そして、感情の欠片もない事務的な口調で、トドメの刃を突きつけてきたのだ。


「『もし指定の日時までに出頭せぬ場合、あるいは再び逃亡を企てた場合――藤堂葵の所属する株式会社スタジオ・アークに対し、主要取引先およびメインバンクを通じた即時かつ徹底的な与信引き揚げ、ならびに取引停止措置を実行する。あわせて、同社が現在抱えるすべての進行中プロジェクトに対し、法的な瑕疵を理由とした損害賠償請求訴訟を同時多発的に提起し、速やかに破産手続きへと追い込むものとする』」


「――っっっ!!」

葵の全身の血液が、一瞬にして逆流した。

息が、肺の底で詰まる。

スタジオ・アークの、即時破産。

主要取引先からの取引停止。

進行中プロジェクトへの損害賠償請求。

それは、葵ひとりのキャリアを奪うなどという生ぬるい話ではなかった。

葵が新卒から十数年間を捧げ、苦楽を共にしてきた同期の結城も。

失注したコンペの夜、涙を流しながら「葵さんと一緒に頑張った」と抱きついてきた部下のミホも。

徹夜でデザインを検証し続けた相原も。

スタジオ・アークで働く数百人の社員と、その家族たちの生活基盤のすべてを、今日、この瞬間に完膚なきまでに叩き潰すという、国家規模の暴力組織による冷酷な人質劇。


「……汚い」

葵の唇が、怒りと恐怖で激しく震えた。

「あまりにも……卑劣すぎるわ……! 会社の人たちは、何の関係もないじゃない! 私と湊くんの問題に、どうして無関係な人たちを巻き込むのよ!?」

葵の叫びに対し、神楽坂は眉ひとつ動かさなかった。

「無関係ではありませんよ、藤堂さん。彼らは、あなたが九条家の跡取りを不法に囲い込むための『生活の糧』を提供していた組織です。九条家の秩序を脅かす者に対し、その外堀をすべて埋め尽くして兵糧攻めにするのは、我が家の千年に及ぶ闘争の歴史における基本中の基本に過ぎません」


「神楽坂ァッッッ!!」


――ドォンッ!!

凄まじい衝撃音が、玄関に轟いた。

葵が目を見張った瞬間、湊の長身が弾丸のように踏み込んでいた。

湊の左手が、神楽坂の仕立てのいいスーツの胸倉を、布地が引き千切れんばかりの凄まじい力で鷲掴みにしていたのだ。

老弁護士の身体が、軽々と壁に叩きつけられる。

神楽坂の手から木箱と奉書紙が滑り落ち、床に乾いた音を立てて転がった。


「湊、様……っ!」

神楽坂の顔が、苦痛と窒息で赤黒く鬱血する。

けれど、湊の表情は、そんな神楽坂の苦痛などまるで視界に入っていなかった。

乱れた黒髪の隙間から覗く湊の瞳。

それは、もはや人間のそれではなかった。

怒り。

憎悪。

そして、己の最も大切な宝物を土足で踏みにじられ、盾に取られたことに対する――狂暴極まりない、本物の殺意の業火。

湊の喉から、地を這うような、骨の髄まで直接震わせる重低音が絞り出された。


「……誰を標的にした」

湊の指先が、神楽坂の喉仏をギリギリと締め上げる。

「僕を脅すなら、僕自身を殺せばいいだろう。……どうして、葵さんを巻き込むんだ。どうして、葵さんの居場所を奪おうとするんだ……ッ!」

「ぐ……っ、大御所様の……ご意志、です……っ!」

「爺さんが何だ!!」

湊の咆哮が、玄関の壁をビリビリと震わせた。

「母さんを殺し、僕の心を奪い、十八年間僕を人形として弄んできたあの老いぼれが……今度は葵さんまで僕から奪おうというのか!? 許さない……絶対に許さないぞ! 葵さんに指一本でも触れてみろ、僕がこの手でお前らの喉笛を噛み千切ってやる!!」

湊の右拳が、振り上げられた。

本気だった。

このまま神楽坂の顔面を殴り倒し、息の根を止めてしまいかねないほどの、凄まじい暴力の気迫。

神楽坂の瞳に、初めて本物の死の恐怖が走った。


「湊くん、やめてっ!!」


葵は廊下を駆け抜け、湊の振り上げられた右腕に、自らの全身を投げ出すようにしてしがみついた。

ドサッ、と葵の身体が湊の背中に衝突する。

「葵、さん……!?」

「やめて、湊くん! 手を放して!」

葵は湊の腰に腕を回し、力任せに後ろへと引き戻そうとした。

硬く強張った湊の筋肉。火の塊のように煮え滾るその肉体は、怒りでガタガタと激しく痙攣していた。

「放してください、葵さん! こいつらは……こいつらはあなたを破滅させようとしてるんだ! あなたの会社を潰すって脅してるんだぞ!? 生かしておけるわけがない!!」

「ダメよ! 暴力に訴えたら、あちらの思う壺よ!」

葵は湊の背中に顔を強く押し当て、必死に声を張り上げた。

「ここであなたが罪を犯したら、本当にすべてが終わってしまう! 私たちが一緒にいるための未来が、完全に消え去っちゃうのよ! お願いだから、落ち着いて……湊くん、私を見て!!」


葵の悲痛な叫びが、湊の激情の炎に冷水を浴びせかけた。

「…………っ!」

湊の呼吸が、ハッと止まった。

背中に伝わってくる、葵の温かい体温。

葵の流す熱い涙が、湊の着ているエプロンの背中を濡らしていく。

湊はギリギリと奥歯を噛み締めると、神楽坂の胸倉を掴んでいた左手の力を、激しい悔しさと屈辱に震えながら、ゆっくりと解いた。

ドサリ、と神楽坂が膝から床へと崩れ落ち、咳き込む。

「ゲホッ……ゴホッ、ゴホッ……!」

湊は神楽坂を一瞥すら神楽坂に向けず、くるりと反転すると、背後にいた葵の身体を自らの腕の中に力任せに抱きすくめた。

痛いほどの抱擁。

葵の額が湊の胸元に埋まり、早鐘を打つ激しい心音が葵の耳朶を揺らす。

「葵さん……ごめんなさい……っ」

耳元で囁かれた湊の声は、先ほどまでの獰猛な獣のそれから一転して、今にも泣き出しそうなほど震えていた。

「僕のせいで……また、あなたを巻き込んで……あなたの会社まで脅されて……! 僕が……僕が九条なんかに生まれたせいで……っ!」

自らの血筋を呪い、無力さに苛まれる少年の涙。

その涙を感じた瞬間、葵の胸の奥底にあった恐怖は、完全に消え去っていた。

代わりに湧き上がってきたのは――かつてないほどに澄み渡った、冷徹で、強靭な覚悟の炎だった。


葵は湊の胸元からゆっくりと顔を上げた。

そして、湊の濡れた頬に自らの両手を添え、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

「湊くん。あなたのせいじゃないわ」

「でも……っ!」

「私の会社よ。私が十数年間、汗を流して守ってきた場所よ。……見ず知らずの老いぼれに、脅されて潰されてたまるもんですか」

葵の口から紡ぎ出されたのは、三十三歳の管理職として幾多の修羅場を潜り抜けてきた、鉄壁のビジネスウーマンの力強い声だった。

そして、葵は湊の腕から静かに身を引くと、床に膝をついて咳き込んでいる神楽坂の前へと歩み出た。


ハイヒールを履いていなくとも、葵の背筋は寸分の乱れもなく真っ直ぐに伸びていた。

床に落ちていた漆塗りの木箱と、九条宗右衛門の親書を拾い上げる。

葵は、その奉書紙を冷ややかな眼差しで見下ろすと、神楽坂に向かって凛とした声で言い放った。


「神楽坂先生」

神楽坂が、首元を押さえながら忌々しそうに葵を見上げた。

「……何ですか、藤堂さん」

「九条宗右衛門大御所に、お伝えなさい」

葵は木箱の蓋をパチンと音を立てて閉め、それを神楽坂の胸元へと突き返した。

「『明後日の日曜日、正午。藤堂葵は、九条湊の手を握って、堂々と本邸の大広間へ乗り込みます』……とね」


「な……っ!?」

神楽坂が絶句して目を見開いた。

背後で、湊もまた息を呑んだ。

「葵さん!? 本気ですか!? 本邸に行ったら、何をされるか分からないんですよ!? あの冷酷な親族たちが、あなたをどれだけ罵倒するか――」

「ええ。本気よ、湊くん」

葵は振り返り、湊に向かって柔らかく、けれど揺るぎない微笑みを向けた。

「逃げないって、尼崎のベッドの中で約束したでしょう? 私が逃げれば、会社が潰される。湊くんが一人で行けば、あなたが生贄にされる。……だったら、選択肢はひとつしかないじゃない」

葵は湊の元へと歩み寄り、その大きな手を、自らの手でしっかりと握りしめた。

指と指が絡み合う。

葵の体温が、湊の震える指先へと力強く流れ込んでいく。

「ふたりで行くのよ。正面から乗り込んで、彼らの理不尽な脅迫を真っ向から叩き潰してやるの。……私はね、三十三歳のマネージャーよ。理不尽なクライアントや役員との喧嘩なら、これまで何百回とやってきたわ。巨大財閥の大御所だろうと何だろうと、私の大切な男を奪おうとする奴らに、タダで屈してやるつもりなんて一ミリもないわよ」


「葵……さん……」

湊の漆黒の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。

そして、次の瞬間。

湊の顔に広がったのは、息を呑むほどに眩く、誇らしげな笑みだった。

守られる側だったはずの年上の女性が、今、自分を守るために、一族という巨大な怪物に宣戦布告をしたのだ。

その圧倒的な強さと愛の深さに、湊の全身の血液が、歓喜の熱をもって沸騰していた。

「……はい」

湊は葵の手を、骨がきしむほど強く握り返した。

「ふたりで、行きましょう。……葵さんには、指一本触れさせません。僕の命に代えても、あなたを守り抜きます」


神楽坂は、ふたりの間に結ばれた鋼のような連帯感と覚悟の前に、完全に気圧されていた。

老弁護士は木箱を受け取り、立ち上がると、苦々しげに唇を噛み締めた。

「……後悔なさいますなよ、藤堂さん。九条本家は、あなたが想像しているような生易しい世界ではありません」

「結構よ。受けて立つわ」

葵が冷淡に言い放つと、神楽坂は一度だけ深く頭を下げ、逃げるように玄関を出て行った。


パタン、と重いドアが閉まり、再び部屋に静寂が戻る。

期日は、明後日の正午。

残された時間は、四十八時間。

葵と湊は、閉ざされた扉の前で、互いの手を強く、強く握りしめ合っていた。

かつては「保護者と居候」という曖昧な境界線に怯えていたふたりが、今や運命を共にし、巨大な権力へと立ち向かう『真のパートナー』として、同じ地平に並び立っていた。

迫り来る決戦の時を前に、ふたりの胸の奥底で、決して消えることのない愛の炎が、静かに、けれど激しく燃え盛っていたのだった。

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