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激務アラサー女子、雨の日に拾った18歳のワンコに胃袋と理性を奪われる〜逃げた御曹司の重すぎる執着愛〜  作者: ヒデコ


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第27話:冷えたビールと、溢れた涙

深夜三時を回った東京の住宅街は、死んだように深い眠りと、湿り気を含んだ濃密な闇に沈みきっていた。

降車した流しのタクシーが、ハザードランプを消して静かに路地の角を曲がっていく。アスファルトに残された濡れたタイヤの轍(わだち)が、路肩のナトリウムランプの黄色い光を反射して、鈍くぬめった光沢を放っていた。

タクシーが走り去った後に残されたのは、遠くでかすかに唸りを上げる首都高速のロードノイズと、しとしとと絶え間なく降り続く初夏の雨音だけだった。

葵は、マンションのエントランス前で立ち止まり、深く、肺の底に溜まった澱を吐き出すように息を吐いた。

「……っ、はぁ……」

白くもならない初夏の吐息が、夜の湿気の中へと溶けて消えていく。

全身の関節が錆びつき、骨のきしむ音が内側から聞こえてくるようだった。四肢の末端には、まるで冷たい濡れ雑巾を幾重にも巻き付けられたかのような鉛色の倦怠感がまとわりついている。

履き慣れていたはずの黒のレザーパンプスは、長時間の残業と冷房で浮腫みきった足首を容赦なく締め上げ、一歩踏み出すごとにアキレス腱のあたりへ鋭い針を突き刺すような痛痛を走らせた。

肩に食い込むトートバッグのストラップ。

その中には、今日一日で葵の尊厳と誇りを完膚なきまでに叩き潰した、あの忌まわしい『ステラ・フォレスト』の失注関連書類と、役員会へ提出した釈明レポートの控えが、ずっしりとした重みとなって沈んでいた。


(……帰りたくない)

マンションの自動ドアの手前、傘も差さずに立ち尽くしたまま、葵は冷たい雨粒が頬を伝うのを感じていた。

帰るべき場所がある。

あの部屋がある。

いつもなら、激務の後にあの場所へ帰れるという事実だけで、どれほど足取りが軽くなったことだろう。ピカピカに磨き上げられたフローリング、出汁の利いた温かい料理、そして玄関を開けた瞬間にパッと顔を輝かせて出迎えてくれる、あの美しい少年の笑顔。

けれど、今夜の葵にとって、その温もりはあまりにも眩しく、あまりにも恐ろしかった。

何と言えばいいのだろう。

四ヶ月間、チームの部下たちを鼓舞し、徹夜を重ねて創り上げた最高傑作の提案書を、利権と天下りの政治的癒着によってゴミ箱に放り込まれた。

神崎常務や営業本部長から役員室で浴びせかけられた、無情で理不尽な罵倒の嵐。

泣きじゃくる部下の前で、すべての責任を引き受け、「私の力不足よ」と強がって見せた無様な姿。

助け舟を出してくれた同期の結城颯真の手を払い、孤独に縮こまって深夜までオフィスに残り、自らの手で自らの傷口を抉るように事後処理のキーボードを叩き続けた。

三十三歳。

仕事ができる大人の女。

頼れるマネージャー。

そんな分厚い鎧を自らに着せ替え、誰にも頼らず、誰にも弱みを見せずに戦い続けてきたはずの自分が、今、足元から音を立てて崩れ去った瓦礫の真ん中に立っている。

(……こんなボロボロで、みっともない姿……見せられるわけないじゃない)

あの子の前で。

先週末、代官山の並木道で、自ら汗を流して稼いだアルバイト代でフレンチトーストを奢ってくれた、あの真っ直ぐな少年の前で。

『僕が、あなたを幸せにします』と、夜風のベランダで熱い瞳を向けてくれた、あの誇り高き男の前に。

こんな、大人として完敗し、社会に打ちのめされて幽鬼のようにやつれきった女が、一体どんな顔をして足を踏み入れればいいというのか。

雨脚がわずかに強まり、葵の前髪を濡らしていく。

冷たさが額を伝い、睫毛を濡らす。

けれど、いつまでもエントランスの前で雨に打たれているわけにはいかなかった。

葵は震える指先でバッグから鍵を取り出し、オートロックのセンサーへと押し当てた。

カチャリ、と無機質な解錠音が響き、自動ドアが開く。

暖色系の照明に照らされたエントランスホールへと、足を引きずるようにして進み出た。


エレベーターの中の鏡に映った自分の姿は、息を呑むほど痛ましいものだった。

ファンデーションは完全に剥げ落ち、目の下には黒々とした隈が張り付いている。頬の血色は抜け落ちて土気色をしており、結い上げたはずの髪は後れ毛が乱れ、びしょ濡れになって首筋に張り付いていた。

これが、藤堂葵という女の真の姿だ。

鎧を剥ぎ取られれば、そこにはただの、一人では何も守れない、傷だらけで行き場を失った哀れなアラサー女が残されているだけだった。

チーン、と二階への到着を告げる電子音が響く。

葵は俯いたままエレベーターを降り、薄暗い内廊下を歩いた。

絨毯を踏みしめる靴音が、まるで処刑台へ向かう罪人の足音のように重く響く。

二〇五号室の前に辿り着く。

ドアの郵便受けの隙間、そしてドアの下のわずかな隙間から――。

柔らかな、温かいオレンジ色の光が、漏れていた。

(……あ)

葵の心臓が、トクンと跳ねた。

午前三時過ぎ。

普通なら、どんな人間であっても深い眠りに落ちているはずの深夜。

それなのに、あの部屋の明かりは、消えていなかった。

あの子は、起きて待っているのだ。

この冷え切った暗闇の東京の片隅で、葵が帰ってくるその瞬間を、一睡もせずに待ち続けていたのだ。

胸の奥が、ぎゅっと音を立てて軋んだ。

逃げ出したいような羞恥と、すがりつきたいような切望が、激しく胸の中でせめぎ合う。

葵は震える右手で鍵穴へと鍵を差し込み、ゆっくりと回した。


カチャリ。

金属音が静寂な廊下に響いた――その、コンマ数秒後だった。


葵がドアノブに手をかけるよりも早く、内側から勢いよく、けれど乱暴にならない配慮を伴って、ドアが手前へと開かれた。


「――葵さん!」


温かな光とともに、ふわりと部屋の空気が流れ出してきた。

そこに立っていたのは、九条湊だった。

オーバーサイズの黒いスウェットに、グレーの細身のスウェットパンツ。髪はセットされておらず、さらりとした漆黒の前髪が無防備に額にかかっている。

その切れ長の瞳は、眠気など微塵も感じさせないほど澄み渡り、葵の姿を捉えた瞬間、これ以上ないほどの安堵と深い光を宿して大きく見開かれた。

「……湊、くん……」

葵の声は、掠れてほとんど音になっていなかった。

湊は、葵の濡れた髪、土気色の顔色、そして虚ろに揺れる瞳を一瞬で視界に収めた。

だが、彼は「どうしてこんな時間まで」「何があったんですか」などという詮索の言葉を、一言たりとも口にしなかった。

湊は葵の前にスッと膝をつくと、濡れて重たくなった葵のトートバッグを両手で優しく受け取り、玄関のたたきの上に丁寧に置いた。

そして、葵の足元へと手を伸ばす。

「……靴、脱がせますね」

低く、耳に心地よい柔らかな声。

湊の温かい手のひらが、冷え切った葵のかかとをそっと包み込んだ。

靴擦れで赤く腫れ上がった葵の足首を労るように、細心の注意を払いながら、濡れたパンプスを脱がせていく。

ストッキング越しに伝わってくる、湊の手の確かな体温。

氷のように冷たくなっていた葵の足先から、じんわりとした温もりが這い上がってくる。

「足、すごく冷たい……。ずっと歩いてきたんですね。お疲れ様でした、葵さん」

湊はそう言って、玄関の上がり框の上に、ふかふかの清潔なスリッパを揃えて差し出してくれた。

「……ただいま」

葵の唇から、消え入りそうな声が漏れる。

それに対して、湊は立ち上がり、葵の濡れた肩を包み込むようにして、至福の笑みを浮かべた。

「おかえりなさい、葵さん。待ってましたよ」


玄関を上がり、リビングへ足を踏み入れた瞬間、葵は息を呑んだ。

部屋の中は、完璧な静寂と、極上の温もりに満たされていた。

エアコンは冷え切った身体に心地よい二十五度の暖房に設定されており、空気清浄機からは爽やかなフォレストグリーンのアロマが微かに漂っている。

廊下の奥からは、湯気とともに、コトコトと弱火で保温されている出汁の優しい香りが流れてきていた。

そして――。

ピカピカに磨き上げられたローテーブルの上に、ぽつんと置かれていたものを見て、葵の足が止まった。


そこにあったのは、結露した細かな水滴を表面にびっしりと纏わせた、一本の缶ビールだった。

プレミアムモルツの濃紺のロング缶。

その隣には、冷凍庫から出したばかりなのだろう、うっすらと白い霜をまとった薄張りのガラスタンブラーが、清潔なコースターの上に伏せられて置かれていた。

さらに、小さな小鉢には、葵の好物であるクリームチーズの醤油漬けと、薄切りにしたキュウリの塩昆布和えが、乾燥しないようにラップをかけられて静かに待機していた。


「……これ……」

葵の喉が、引き攣るように震えた。

湊が、葵の背後から静かに歩み寄ってきた。

濡れた葵のジャケットをそっと肩から脱がせ、ハンガーに掛けてくれる。その手つきは、どこまでも滑らかで、一切の物音を立てなかった。

「葵さん、今夜は……ご飯をしっかり食べる気力もないんじゃないかなって思って」

湊はテーブルの上のビールを指差し、穏やかな、慈愛に満ちた声で言った。

「お風呂はいつでも入れるように四十度で保温してあります。お腹が空いてるなら、消化にいい温かい鶏雑炊もすぐに出せます。……でも、まずはこれかなって。今夜の葵さんには、頭を空っぽにするための、冷たいお酒が必要なんじゃないかと思ったんです」

「湊、くん……」

「グラス、冷えてますよ。注ぎましょうか?」

湊がローテーブルの前に腰を下ろし、ガラスタンブラーを手に取った。

パキッ、プシュッ。

心地よい金属音がリビングに響き渡り、缶の飲み口から純白のきめ細やかな泡がプツプツと溢れ出す。

湊はトクトクトク、と手際よく黄金色の液体をグラスへと注ぎ込んだ。

黄金比率の七対三。

完璧な泡のクッションを冠した冷たいビールが、葵の目の前へと差し出される。


「どうぞ。……今日一日を戦い抜いた、葵さんのためのビールです」


差し出されたグラスを見つめ、葵はおずおずと手を伸ばした。

指先が薄張りのガラスに触れる。

ヒヤリとした、強烈な冷涼感。

グラスを持ち上げると、氷のように冷たい感触が、疲労で熱を持っていた手のひらの皮膚を心地よく冷ましていく。

葵はローテーブルの前にへたり込むように座り込んだ。

正座をする気力もなく、膝を抱えるようにして、グラスを両手で口元へと運ぶ。

冷えた泡が、唇に触れた。

そして、麦芽の苦味と炭酸の刺激を含んだ黄金の液体が、渇ききっていた葵の喉へと流れ込んできた。


――ゴクッ、ゴクッ。


冷たい。

冷たくて、苦くて、炭酸がチクチクと食道を焼きながら、胃の腑へと落ちていく。

いつもなら、この瞬間に「ぷはぁっ!」と声を上げ、「生き返る!」と笑っていたはずだった。

金曜の夜の晩酌のように、くだらない愚痴をまき散らし、湊にくだを巻き、泥酔して笑い転げていたはずだった。

けれど。

今夜のビールは、なぜだか喉の奥を針で刺すように痛めつけた。

苦い。

あまりにも、苦すぎる。

四ヶ月間の努力を理不尽に奪い去られた悔しさ。

役員室で浴びせられた罵倒の屈辱。

部下たちの涙を守れなかった無力感。

そのすべてが、冷たいアルコールと一緒に、葵の五臓六腑へと重たく沈み込んでいく。


「……っ」

グラスをテーブルに戻した瞬間、葵の指先がカタカタと激しく震え出した。

テーブルの上には、冷えたビール。

手入れされた部屋。

そして、自分のためだけに深夜三時まで起きて、お風呂を沸かし、おつまみを用意し、何一つ問いただすことなく迎えてくれた、この美しい少年。

――あまりにも、違いすぎた。

外の世界の、あの醜悪で、冷酷で、理不尽に満ちた現実と。

この部屋に満ちている、無条件の、打算のない、圧倒的な温もりと。

その巨大すぎる落差が、葵の張り詰めていた神経の最後の細い糸を、容赦なく断ち切ってしまった。


ぽた、と。

ガラスタンブラーの結露した水滴に混ざって、ひと筋の熱い雫が、テーブルの木目の上へと落ちた。

「……え?」

葵自身が、驚いて息を呑んだ。

目元に手を当てる。

皮膚の奥から、熱いものが急速に湧き上がっていた。

止めようとした。

奥歯を噛み締め、唇を強く引き結び、涙を喉の奥へと押し戻そうとした。

泣くな。三十三歳の大人の女が、十代の少年の前で泣いてどうする。仕事の失敗くらいで涙を見せるなんて、みっともない、情けない、恥ずかしい――。

そうやって、いつものように理性の鎧で心を塗り固めようとした。


けれど。


「葵さん」

向かいの席から、湊の静かな声が降ってきた。

湊は、テーブルの上に置かれた葵の震える手元を、じっと見つめていた。

その瞳には、憐れみも、好奇の光もなかった。

ただ、壊れそうな宝物を見つめるような、切ないほどに深い痛ましさと、純粋な慈愛だけが宿っていた。

湊はゆっくりと身を起こすと、ローテーブルを回り込み、葵のすぐ隣へと音もなく座り直した。

葵の肩と、湊の肩が触れ合う。

湊のスウェットから漂う、清潔な石鹸と柔軟剤の香りが、葵の鼻腔を優しく包み込んだ。


その温もりに触れた瞬間――。

葵の心の中で、十数年間にわたって築き上げられてきた『鉄壁の藤堂葵』という巨大な防波堤が、完全に、音を立てて粉々に決壊した。


「……っ、う……あ……っ」

喉の奥から、掠れた小さな悲鳴が漏れた。

一度溢れ出した涙は、もう誰にも止めることができなかった。

ポロポロと、大粒の涙が葵の瞳から次から次へと溢れ出し、頬を伝い、顎から膝の上へと滝のように零れ落ちていく。

葵は両手で顔を覆った。

けれど、指の隙間から涙は止まることなく溢れ出し、胸が激しく波打って、息がヒューヒューと苦しげに喉を鳴らした。

「ごめ……っ、ごめんなさい……っ」

葵の唇から、しゃくりあげるような泣き声が絞り出された。

止められない。

子どものように、しゃくりあげて、肩をガタガタと震わせて泣くことしかできない。

「ごめんね、湊くん……っ。私……っ、全然ダメな大人で……っ!」

ずっと、胸の底に溜め込んできた毒が、涙と一緒に溢れ出して止まらなかった。

「大きなコンペ……負けちゃったの……っ。四ヶ月もみんなで頑張ったのに……理不尽な理由で、全部奪われちゃって……っ」

葵は顔を覆ったまま、情けなく身を縮こまらせた。

「部下の子たち、みんな泣いてた……。私のせいで、みんなの頑張りを守ってあげられなかった……っ。役員には怒鳴られて……社内のみんなには笑われて……っ」

三十三歳。

年上の保護者。

頼れるマネージャー。

そんな仮面は、もう跡形もなかった。

そこにいたのは、理不尽な世界に傷つき、孤独に打ちのめされ、膝を抱えて泣き叫ぶことしかできない、あまりにも無力で脆い一人の人間だった。

「私……全然強くなんかない……っ。偉そうなこと言って、湊くんに『保護者ぶるな』って怒られたのに……本当は、自分のことすら守れない、ただの役立たずのダメな大人なのよ……っ!」

葵の口から、自らを激しく責め苛む言葉が、血を吐くように零れ落ちる。

「ごめんね……こんな時間に帰ってきて……こんな見苦しい姿見せて……っ。情けないよね、みっともないよね……っ、私、本当にダメな人間で……う、うわぁぁぁぁん……っ!」

三十三歳の女が、十八歳の少年の前で、声を上げて大号泣していた。

恥ずかしい。消えてしまいたい。

こんな姿を見られたら、幻滅されるに決まっている。呆れられて、軽蔑されて、見捨てられるに決まっている。

そう思って、葵がさらに身体を小さく丸め、床に額を擦り付けるようにして泣き伏そうとした――その時だった。


――グイッ、と。

強い力が、葵の華奢な両肩を両側から引き上げた。


「……っ!?」

葵が息を呑む間もなかった。

視界がふわりと浮き上がり、次の瞬間には――。


ドサリ、と激しい衣擦れの音とともに、葵の身体全体が、驚くほど強大で、熱く、力強い腕の中へと、一気に閉じ込められていた。


「…………っ」

息が詰まる。

湊だった。

湊は床の上に両膝をつき、泣き崩れる葵の身体を、自らの胸板へと正面から強く引き倒すようにして抱きすくめていたのだ。

その抱擁は、これまでのどんなスキンシップよりも強く、激しく、そして容赦がなかった。

葵の顔が、湊の着ている黒いスウェットの胸元へと、深々とめり込む。

湊の太い腕が、葵の背中と腰を、骨がきしむほどの強さでロックしていた。逃がさないように。一ミリの隙間も作らないように。葵の華奢な身体を、丸ごと自らの肉体の中に吸収してしまおうとするかのような、圧倒的な拘束。

「……湊、くん……?」

葵が涙でぐしゃぐしゃになった顔をわずかに動かそうとしたが、湊の大きな手のひらが、葵の後頭部を上からすっぽりと包み込み、自らの首筋の窪みへと強く押し当てた。

動けない。

葵の視界のすべてが、湊の体温と、スウェットの柔らかな布地で塞がれる。

耳元で、トクン、トクン、トクンと、湊の力強い心臓の鼓動が、早鐘のように激しく鳴り響いていた。


湊は、何も言わなかった。

「大丈夫ですよ」とも言わなかった。

「何があったんですか」とも聞かなかった。

「泣かないでください」とも宥めなかった。

ただ、無言のまま。

一言の言葉も発することなく、湊はただひたすらに、嵐の中で震える小鳥を嵐から守る大樹のように、葵の身体を自らの腕の中に閉じ込め続けていた。


ギューッと、さらに腕の力が増す。

葵の肋骨が軋み、息が苦しくなるほどの圧力。

けれど、その痛みすらも、葵の凍てついていた心にとっては、この上なく切実で、確かな救いだった。

温かい。

火傷しそうなほどに熱い、一人の若い男の体温。

十八歳の少年の、骨太で逞しい骨格が、葵の崩れ落ちそうな身体を、底の底からガッシリと支え上げてくれている。

葵の後頭部を抱きしめる湊の指先が、葵の乱れた髪を慈しむように撫で、背中に回された腕が、葵の震える背骨を優しく、力強く抱きしめ直す。

葵の零す大量の涙が、湊のスウェットの胸元をぐっしょりと濡らしていく。

葵の鼻水も、熱い吐息も、みっともない嗚咽も、すべてが湊の服に染み込んでいく。

それなのに、湊は嫌がる素振りなど微塵も見せず、むしろ葵の涙を一滴も床に落とさせまいとするかのように、自らの胸元へと葵の顔をさらに深く埋めさせ、抱きしめる腕の力を緩めようとはしなかった。


「……っ、う……ぅ……あぁぁぁ……っ」

言葉にならない慟哭が、湊の胸元に吸い込まれていく。

葵は両手を伸ばし、湊の背中の布地を、指先が白くなるほど強く、ぎゅっと掴み取った。

すがりついた。

三十三歳の大人の女が、十八歳の少年の胸の中で、生まれて初めて、すべてのプライドをかなぐり捨ててすがりついたのだ。

誰にも見せられなかった弱音。

誰にも言えなかった「助けて」という心の叫び。

職場では常に「頼られる側」であり続け、部下の盾になり、上司の理不尽に耐え、一人で孤独に戦い続けてきた十数年間。

そのすべての重荷を、この少年が、たった一つの無言の抱擁で、丸ごと引き受けてくれていた。


湊の顎が、葵の濡れた頭頂部の上に、そっと乗せられた。

葵の頭の上から、湊の深く、重い呼気が落ちてくる。

その呼吸は、怒りでも苛立ちでもなく、傷つけられた最愛の存在に対する、狂おしいほどの慈愛と、底知れない覚悟に満ちていた。

外の雨音だけが、窓ガラスを静かに叩いている。

深夜三時半の、温かい部屋。

テーブルの上には、氷の解けかけた冷たいビール。

そして、床の上で重なり合う、二人の熱い体温。

葵の溢れる涙は、湊の腕の中で、いつまでも、いつまでも止まることなく流れ続け、頑なだった三十三歳の心の鎧を、跡形もなく洗い流していったのだった。

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