第11話:ソファの距離感と、ワンコの甘え方
深夜一時。遮光カーテンで外界から完全に隔絶された二〇五号室のリビングは、淡い間接照明の琥珀色の光と、ノートパソコンの液晶画面が放つ青白いバックライトによって、二つの異なる時間軸が交差しているかのような静寂に包まれていた。
カチャカチャ、ターン――。
藤堂葵の指先がキーボードを叩く乾いたプラスチックの音だけが、規則的なリズムを刻んで部屋の空気を揺らしている。
葵はローテーブルの前に置かれた二人掛けのファブリックソファの中央に深く腰を下ろし、膝の上に十五インチの社用ノートパソコンを乗せて、血走った目でモニターの数字とスライドを睨みつけていた。
持ち帰り残業。
本来であれば、社内規定でも労務管理上でも厳禁とされている悪弊だ。だが、来週半ばに控えた大手コスメブランドの秋季リブランディングコンペの最終プレゼン資料は、クライアントからの土壇場での仕様変更要求によって、大幅な手戻りを余儀なくされていた。昼間のオフィスは部下のメンタルケアと他部署との折衝で忙殺され、自分の手を動かして資料を組み直す時間など一秒たりとも捻出できなかったのだ。
結果として、葵は重い端末を鞄に詰め込み、こうして自宅のソファを持ち寄り作業場に変えて、眠気覚ましのブラックコーヒーを啜りながら格闘する羽目になっていた。
「……ここ、フォントサイズをあと二ポイント下げて、グラフのキャプションを行間一・二に詰める。それから……色のコントラスト比をアクセシビリティ基準に合わせて再計算……」
乾いた唇から独り言が漏れる。ブルーライトに晒され続けた眼球の奥が、熱を持ったようにズキズキと鈍く痛んだ。
だが、葵の作業効率を著しく削ぎ落としている真の原因は、眼精疲労や過密スケジュールなどではなかった。
(……気になって、全然頭に入ってこない)
葵はタイピングの手を止め、そっと視線をモニターの縁から外し、自室の片隅へと走らせた。
キッチンのカウンター下、葵の視界の端に入る位置で、湊が静かに座っていた。
リビングの明かりを落とし、葵が作業に集中できるよう配慮してくれた湊は、テーブルランプのわずかな光を頼りに、葵が買い与えた文庫本を膝に乗せて静かにページをめくっている。
深いチャコールグレーのサマーニットに、黒のスラックス。脚を折り畳んで床に座る姿は、どこかの美術館の絵画のように絵になっていた。さらりと額にかかる漆黒の髪、すっきりと通った鼻筋、そして光を吸い込むような長い睫毛。
一言も発さず、物音ひとつ立てず、息を潜めるようにして葵の邪魔にならないよう配慮している。
その佇まいは、一見すればこれまで通りの「飼い主に迷惑をかけないよう、部屋の隅で小さくなっている従順な大型犬」そのものだった。
けれど。
葵の首筋には、昨夜のキッチンの生々しい感触が、未だに消えない火傷痕のようにチリチリと残っていたのだ。
――『僕を……子ども扱いしないでください』
――『子どもが、こんな風に大人の女の手首を片手で拘束できますか?』
思い出そうとするだけで、葵の心臓が肋骨の内側をドクンと激しく殴打する。
調理台へ力任せに押し付けられた時の、背中の冷たさ。
手首を骨ごと締め上げられた時の、万力のような圧倒的な男の力。
そして何より、耳元に吹きかけられた、全身の毛穴が粟立つほどに熱く、低く、艶を帯びたあの掠れ声。
十八歳。高校を卒業したばかりの少年。
そうやって「保護者と保護対象」の枠組みに押し込め、自分を安全圏に置こうとした葵の浅はかな境界線を、湊は一瞬にして粉々に踏み砕いてみせたのだ。
あの子は、無垢な仔犬などではない。
従順な首輪を自ら首に巻きながら、隙あらば飼い主の喉笛にその鋭い牙を突き立てようと狙い澄ましている、若く獰猛な獣なのだ。
その事実を突きつけられてからというもの、葵は湊の些細な仕草や息遣いの一つひとつに過敏に反応してしまい、仕事どころの精神状態ではなくなっていた。
「……はぁ」
葵は小さく息を吐き出し、両手で自分の頬を軽く叩いた。
しっかりしなさい、藤堂葵。
三十三歳のキャリアウーマンが、十代の男の子のフェロモンに気圧されてどうする。仕事に集中するのよ。このコンペを落としたら、チーム全体の努力が水の泡になるんだから――。
そう自分に猛省を促し、再びキーボードに指を置いた、その時だった。
衣擦れの音が、静寂を微かに裂いた。
文庫本を閉じた湊が、音もなく立ち上がったのだ。
葵の背筋が、無意識のうちにピシリと緊張で強張る。
湊は葵の視線に気づいた様子もなく、すり足でキッチンへ向かうと、電気ケトルに水を注ぎ、静かにスイッチを入れた。シューという湯沸かしの微かな音がリビングに満ちていく。
数分後。
コトリ、と心地よい音を立てて、葵のノートパソコンのすぐ横に、湯気を立てるマグカップが置かれた。
「……葵さん」
降ってきたのは、昨夜の威圧感など微塵も感じさせない、耳に心地よい柔らかなハスキーボイスだった。
「ブラックコーヒーばかり飲んでると、胃が荒れちゃいますよ。カモミールとリンデンのハーブティーを淹れました。少しだけ蜂蜜を入れてあるので、喉も潤います」
「あ……ありがとう、湊くん」
葵はキーボードから手を引っ込め、恐縮するようにマグカップを受け取った。
陶器の温もりが、かじかみかけていた指先にじんわりと染み渡る。湯気とともに立ち上る甘く優しいリンゴのような香りを吸い込むと、張り詰めていた脳の神経がほんの少しだけ弛緩していくのが分かった。
「湊くんは、もう寝ていいのよ? もう一時半だし……明日の朝も早いんでしょう?」
「葵さんがこんな時間までお仕事してるのに、僕だけ先にベッドに入るなんてできません」
湊はそう言って、ふわりと柔らかく目を細めた。
その笑顔は、昨夜の冷徹な捕食者の顔とは似ても似つかない、どこまでも無害で愛らしい少年のものだった。
だが、葵の安堵はほんの数秒しか持たなかった。
マグカップを置いた湊が、そのままキッチンへ戻ることも、自分の寝床である部屋の隅へ向かうこともなかったからだ。
湊は、葵が座るソファのすぐ脇、絨毯が敷かれたフローリングの上に、音もなく腰を下ろした。
そして――。
葵が「え?」と声を漏らす間もなく、湊は葵の膝元へと、するすると体を擦り寄せてきたのだ。
「ちょっ……湊、くん……?」
葵の喉が引き攣った。
湊は葵の制止に耳を貸すこともなく、葵の太もものすぐ横に自分の両手を揃えて置くと、躊躇うことなく、その頭を葵の膝の上へと預けてきた。
ぽすん、と重みが膝にかかる。
葵が部屋着として履いているコットンのイージーパンツ越しに、湊の頭部の確かな重みと、さらりとした黒髪の毛先が太ももの皮膚を撫で上げるくすぐったい感触が伝わってきた。
「……っ!」
葵の心臓が、跳ね馬のように暴れ出した。
膝枕。
それも、ソファに座る葵の足元に床からすがりつくようにして、太ももの上にすっぽりと頭を埋めてきたのだ。
葵の膝の上に乗せられた湊の頭は、まるで主人の足元に顎を乗せて丸くなる大型犬そのもののポーズだった。
湊は葵の太ももに頬をすり寄せ、心地よさそうに目を細めている。
そして、ゆっくりと長い睫毛を持ち上げ、下から葵の顔をじっと見つめ上げてきた。
――漆黒の瞳。
光を含んで潤んだその双眸は、無防備で、甘やかで、息を呑むほどに無垢だった。
薄い唇が少しだけ尖らされ、掠れた甘い声が葵の耳朶へと滑り込んでくる。
「……葵さん。邪魔ですか?」
上目遣い。
完璧な角度、完璧な視線、完璧な声のトーン。
あざとい。
あまりにもあざとすぎる。
自分の容姿が葵に対してどれほどの破壊力を持っているかを完全に理解し、計算し尽くした上で繰り出されているとしか思えない、必殺の甘え方だった。
「じゃ、邪魔っていうか……あのね、湊くん、私、今すごく大事な仕事の最中なんだけど……」
葵はノートパソコンの画面を盾にするように抱え込みながら、震える声で抗議した。
だが、湊はその瞳をわずかに潤ませ、捨てられた仔犬のように眉尻を下げてみせた。
「邪魔なら、あっちに行きますけど……でも、葵さん、さっきからすごく肩に力が入ってて、息も浅くなってたから。僕がそばにいたら、少しは落ち着かないかなって思って」
「そ、それは……」
「ダメですか? 僕がここにいるの、嫌ですか?」
キュッと唇を噛み締め、今にも泣き出しそうな瞳で葵を見つめる湊。
こんな顔をされて、冷酷に「どきなさい」と突き放せる人間がこの世に存在するだろうか。昨夜の威圧感とのあまりの落差に、葵の脳内の防衛システムはあっけなくショートしてしまった。
「……嫌じゃ、ないけど……」
葵の口から、情けないほどの妥協の言葉が零れ落ちた。
「でも、動かないでね。パソコン落としちゃうから」
「はい! じっとしてます!」
その瞬間、湊の顔にパッと花が咲くような至福の笑みが広がった。
湊は葵の太ももにさらに深く頭を沈め、すりすりと猫のように額を擦り付けてくる。
その無邪気な仕草に、葵は胸の奥がキュンと音を立てて締め付けられるような錯覚を覚えた。
(……もう、本当に犬なんだから)
葵は呆れ混じりの溜息を吐き出しながら、キーボードから右手を離した。
そして、恐る恐る、自分の膝の上にある湊の黒髪へと指先を伸ばした。
躊躇いがちに、そっと触れる。
指先が触れた瞬間、湊の身体がピクリと微かに震えたが、すぐに喉を鳴らすように力を抜き、葵の手のひらへと自分から頭を押し付けてきた。
「……髪、すごく柔らかいのね」
葵の呟きに、湊は目を細めて気持ちよさそうに身を委ねている。
葵はゆっくりと、湊のさらさらとした前髪を指で梳き、後頭部からつむじにかけて優しく撫で下ろした。
絹糸のように繊細で、指の間を滑り落ちていく黒髪の感触。
葵の手のひらを受け止める湊の呼吸が、ふぅ、と深く穏やかなものへと変わっていく。
その従順な姿を見ていると、先ほどの緊張や昨夜の恐怖が、まるで嘘のように霧散していくようだった。
やっぱり、この子はただの寂しがり屋の少年なのだ。
家を出て、行くあてを失い、雨の中で凍えていたところを拾われた。だから、自分という唯一の拠り所に縋り付き、見捨てられないように必死に甘えているだけなのだ。
そう思って、葵の強張っていた肩の力がふっと抜けかけた――その時だった。
「…………っ?」
葵の指先が、湊の後頭部から首筋のあたりへと滑り落ちた瞬間、奇妙な違和感が葵の皮膚を走った。
硬い。
子どもの骨格ではない。
指の腹を通して伝わってくる後頭骨の隆起は驚くほど骨太で、首の筋肉は太く、筋張って引き締まっていた。
葵は無意識のうちに、視線を湊の身体全体へと落とした。
床に膝をつき、葵の太ももに頭を預けている湊の姿勢。
薄手のサマーニットが背中のラインにぴったりと張り付き、肩甲骨の力強い起伏と、逆三角形を描く背中の広がりをありありと浮き彫りにしていた。
肩幅が、広い。
葵の両手を広げても足りないほどに広く、たくましい大人の男の骨格。
膝に乗せられた頭の重みも、よくよく意識してみれば、決して子どもの軽さではなかった。ずっしりとした、成人の男性特有の骨の重力。
さらに、葵の太もものすぐ横に置かれた湊の右手。
細身に見えていた腕には、うっすらと男らしい血管が浮き出ており、絨毯を掴む指先は長く、節くれ立っていて、葵の手のひらよりも一回りも二回りも大きかった。
(……待って)
葵の息が、喉の奥で詰まった。
撫でている頭から、首筋から、そして葵の膝に密着している頭部の熱から――。
ふわりと、葵の鼻腔をくすぐるものがあった。
それは、葵が選んで買い与えた柔軟剤の爽やかなリネンの香りでも、葵の部屋のホワイトリリーのソープの香りでもなかった。
もっと深く、もっと濃密な、熱を持った皮膚の内側から立ち上ってくるような――紛れもない、『若い男の体臭』だった。
決して不快な汗の匂いなどではない。
どこか甘く、ほのかにスパイシーで、嗅いだ瞬間に葵の雌としての本能を直接揺さぶり起こすような、抗いがたい雄のフェロモン。
その香りが、葵の鼻腔を満たした瞬間、葵の全身の血液がカッと沸騰した。
「……っ!」
葵の手が、湊の髪の上でピタリと凍りつく。
近い。
あまりにも、生々しい距離感だった。
膝枕という行為の持つ、残酷なまでの密着度。
湊の顔は、葵の下腹部からわずか十数センチの距離にあった。
湊が息を吐き出すたびに、温かく湿った呼気が葵の太ももの生地を通り抜け、皮膚へと直接染み込んでくる。
ヒタヒタと伝わってくる湊の体温は三十六度を優に超えているように熱く、触れ合っている太ももの奥から、じわじわと葵の身体全体へとその熱が侵食していく。
トクン、トクン、と葵の心臓が不規則なビートを刻み始める。
落ち着きなさい、と理性が叫ぶ。
相手は十八歳。保護者として頭を撫でてあげているだけ。犬をあやしているのと同じこと。
そう自分に言い聞かせ、葵は必死に視線をモニターへと戻そうとした。
「あ、あのね、湊くん。そろそろ仕事に戻りたいから――」
キーボードに手を戻そうとした葵の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
――スッ。
湊の左手が、床からゆっくりと持ち上がったのだ。
そして、その骨張った大きな手のひらが、葵の座るソファの座面、葵の太もものすぐ横のクッションへと置かれた。
ぐっと体重がかけられ、ソファが沈み込む。
湊は膝枕の姿勢のまま、首を少しだけ捻り、葵の太ももの上に顎を乗せるような体勢へと移行した。
下から見上げてくる、漆黒の瞳。
先ほどまでの無邪気な輝きは、微かに翳りを帯びていた。
潤んだ瞳の奥底で、ドロリとした濃密な熱が、渦を巻いて葵を射抜いている。
「葵さん」
吐息が、葵の膝を直接揺らした。
掠れた、低く甘い声。
「葵さんの手……すごく温かくて、気持ちいいです」
「え……?」
「もっと、撫でてください」
湊はそう言うと、自分から葵の右手を掴み取った。
大きな、熱い男の手。葵の細い指先をすっぽりと包み込み、引き寄せて、自分の頬へと押し当てる。
滑らかな陶器のような頬の皮膚。けれどその奥にある骨格は驚くほど硬質で、葵の手のひらに湊の体温がダイレクトに吸い付くように流れ込んできた。
「湊、くん……ちょっと、近すぎ――」
「葵さんこそ、心臓の音がすごく早くなってますよ」
湊が、唇の端をわずかに持ち上げた。
悪戯っぽい、けれどぞっとするほど艶やかな笑み。
「ここ……トクトクって、すごく跳ねてます」
湊が葵の太ももに預けた頭を、ほんの少しだけ押し付けた。
その位置は、葵の大腿動脈が走る内股のすぐ近くだった。葵の血流の激しい乱れが、湊の耳へと直接届いているのだと理解した瞬間、葵の顔は耳の先まで真っ赤に染まり上がった。
「な……っ、なっ……!」
「僕のせいで、ドキドキしてくれてるんですか?」
湊の瞳が、トロリと細められた。
甘えるような仔犬の仕草。けれどその眼差しは、獲物の脈拍を測りながらじわじわと追い詰める、老獪な肉食獣そのものだった。
逃げられない。
葵の膝の上には湊の重たい頭があり、太ももの横には湊の長い腕が置かれ、右手は湊の両手によってしっかりと捕らえられている。
完璧なまでの、密室におけるスキンシップによる拘束。
「葵さん、仕事……進んでませんね」
湊が囁く。
その視線が、葵の膝の上のノートパソコンへとチラリと向けられた。
画面のスライドは、先ほどから一文字も進んでいなかった。点滅を繰り返すカーソルだけが、葵の完全な思考停止を無慈悲に証明している。
「か、からかわないで……! あなたがこんなことするからでしょ!」
「僕のせいですか?」
湊はキョトンとした顔を作ってみせた。けれどその瞳の奥には、葵の理性を確実に削り取っていることへの、隠しきれない優越感が揺らめいていた。
「僕はただ……大好きな葵さんに甘えたかっただけなのに。……それとも、僕が男に見えちゃって、意識しちゃってますか?」
「――っっっ!!」
直球。
あまりにも容赦のない、急所への一撃。
三十三歳の大人の女が、十八歳の少年に完全に手玉に取られている。
否定したかった。そんなわけないでしょ、と笑い飛ばして、大人の余裕を見せつけたかった。
だが、喉がカラカラに渇いて、声が出ない。
目の前に広がる湊の圧倒的な美貌、膝に伝わるずっしりとした重み、鼻腔を麻痺させる男の匂い、そして頬に触れる手のひらの熱さ。
五感のすべてが「九条湊」という一人の男によって包囲され、塗り潰されていた。
「葵さん」
湊が、葵の手のひらにそっと自分の唇を押し当てた。
チュ、と微かな湿り気と熱が手のひらの中央に落ちる。
電撃のような快感が葵の脊椎を駆け上がり、葵の口から「ひっ」と小さな息が漏れた。
「今夜はもう、お仕事おしまいにしませんか?」
湊は葵の掌に額を擦り付けながら、甘く、ねだるように囁いた。
「僕が、頭をマッサージしてあげます。肩も揉んであげます。葵さんがぐっすり眠れるまで、ずっとそばにいてあげますから……ね?」
その言葉は、過労と欲望に溺れかけた葵の心に対する、抗いがたい悪魔の甘言だった。
パソコンを閉じたい。
この重たい資料の山を投げ出して、この熱い体温の中に倒れ込み、何もかも忘れて甘やかされたい。
三十三年間、一人で張り詰めて生きてきた葵の理性の防波堤が、メリメリと音を立てて崩壊していく。
「……だ、め……」
葵は残された最後の気力を振り絞り、掠れた声を絞り出した。
「だめよ……これ、明日までに仕上げなきゃいけないの……」
それは、ほとんど懇願に近い、無力な抵抗だった。
湊は葵のその弱々しい抵抗を見つめ、ふっと柔らかく目を細めた。
そして、葵の手を離すと、ゆっくりと体を起こした。
「……分かりました」
湊は立ち上がり、すっきりと背筋を伸ばした。
先ほどまでの妖艶な甘えが嘘のように、何事もなかったかのような爽やかな笑顔を浮かべる。
「葵さんがそこまで頑張るなら、僕、応援します。ハーブティー、冷めちゃいましたね。温かいの、もう一杯淹れてきます」
「あ……ええ……」
キッチンへと去っていく湊の後ろ姿を、葵は呆然と見送るしかなかった。
膝の上に残された、確かな重みと熱の残像。
太ももに残る、湊の呼気の湿り気。
そして、手のひらに焼き付けられた、柔らかな唇の感触。
葵は震える指先でキーボードに手を戻した。
だが、画面の文字は二重にも三重にもブレて見え、アルファベットを打つ指先はカタカタと小刻みに震えていた。
(……無理。絶対に、無理……!)
仕事が手につくはずがなかった。
頭の中は、先ほど見上げた湊の濡れた瞳と、耳元をくすぐった低音の残響で完全に埋め尽くされていた。
無邪気なワンコの皮を被った、恐るべき肉食獣。
そのあざとさと男の色気の猛毒に侵され、藤堂葵の理性は、今夜もまた決定的にすり減らされていくのだった。




