美空① 吐露
翌日の午後5時50分。
日はすっかり沈み、さらりと靡いていた風も暴風のように力を強め、拓海の体に冷感を当てつけた。彼は予定より少し早く目的の居酒屋『富田』に到着し、店の暖簾の前で美空を待つ。
左腕につけた腕時計を頻繁に見ては、かじかむ手でポケットから財布の中身を確認する。財布には札束を気持ち多めに入れた。これは美空に食事を奢るためであり、拓海が行った罪を償う気持ちの僅かな表れであった。
静かに現れだした星空と月を眺めていると、道の先からコートを羽織った美空が重い顔つきでやって来た。
拓海は昨日会った時、彼女が振袖を着ていたのでわからなかったが、段々と近づいて来る彼女の背はかつて接していたときよりも伸びていた。正確に言えば、中学校のときよりも拓海の身長に占める美空の身長の割合は大きくなっていた。
「こんばんは、美空さん」
美空は会釈で返した。
「とりあえず入ろうか」
彼女は、うん、と静かに頷いた。拓海は店のガラス戸を開ける。
初めて入る店内を見回すと、厨房を片面塞ぐようにカウンター席が8席、その後ろに4人用のテーブルが4つ、各テーブルには椅子が4つずつ置いてあった。店員は、厨房を切り盛りする50代と思しき男性と、割烹着を着たその男性の妻と思しき女性の2人のみである。
店に入るや否や女性店員は、いらっしゃーい、と初対面であるにも関わらずやけに威勢の良い素振りであった。
店内には飲み会を行っているサラリーマンたちがおり、2人は店の端っこの目立たなそうな4人席に座ると、美空はコートを脱いで茶色いセーターを露わにする。
店のおばちゃんがおしぼりを配ると、拓海は緑茶を、美空は中ジョッキのビールを注文した。
注文した飲み物がお通しのキムチと共にくると、拓海はおつまみを頼もうとした。美空は目線を下げたまま、彼に一切顔を見せようとしない。
「ご飯はどうする?」
「まだいいや」
美空は雑に拓海をあしらい、彼や食事に関してまるで興味を示していなかった。
2人はとりあえずキムチを口に含み、喋らなくていいようにその場を繋ぐ。
2人の間に流れる音は白菜の咀嚼音だけ、その音すらもサラリーマンたちの駄弁り声に淘汰された。
キムチを食べ終わると、拓海は緑茶をちょびっとずつ、美空はビールを1口だけ飲んだ。
流石に二人とも無言の間に耐えきれなくなる。
この状況に切り込みを入れたのは、意外にも美空だった。
「唐原とは会ったの?」
彼女の口から出た唐原の名。拓海は一瞬あっけらかんとしてしまった。
「あっ、あいつは会っていないな。僕としても来てほしくなかったし。別にあいつが来なかったことは、他の人も気に留めていなかったよ。僕は昔あいつに、二度と関わるな、って言ったからそれを今も忠実に守っているのかもしれない……」
「そうなんだ」
美空は呆れてそうな目をしていた。拓海は少し喋りすぎたとも感じたが、簡潔に話しても美空は同じ返答をした、と考えているのと同時に、その場にどちらかの声を漂わせないと、気まずさで精神が押し潰されそうだった。
拓海は緑茶を飲むたびに、美空に対する万感の思いを込み上げる。今日の彼は、美空の持つ憎しみを全て受け止めるつもりでいる。いじめの加害者は守られるべきなどとは思っていない。それでも彼の方から話を持ち掛けないと、彼女に対して何もできずに終わってしまう。
そう思うと、拓海に迷いはなかった。
「あのさ。まずは、ありがとう。僕に付き合ってくれて……」
「それで?」
今日初めて美空が拓海に目を合わせた。その目は非常に冷たく憎しみに塗れており、拓海は見下されている気分になる。
言葉を紡ぐため、拓海は氷しかない緑茶のジョッキを口につけ、1滴だけ飲んで不安を誤魔化そうとする。
(美空が僕に興味を寄せている今しか言えるチャンスはない)
そう決心すると、拓海は僅かに目線を下げて、積年の思いをぶつける。
「その……、昔の僕の行い、美空さんに対するいじめを止められず、いじめにも加担してしまったこと、どうか許してほしい」
拓海はその場で頭を下げた。
立ってしていない謝罪に誠意はあるのか? 飲み会のついでに謝罪など意味はあるのか?
何年も謝罪の準備をしていたはずなのに、最後の最後で計画に粗ができてしまう。
彼女からの返答は無情であった。
「無理」
「……」
拓海は頭を上げるタイミングがわからず、机の木目を凝視しながら唇を噛みしめる。美空はそんな彼に追い打ちをかけた。
「今日誘われた時点で、拓海君が話そうとしていることの想像はついていたよ。私だって少しは話したいことがあったし」
美空は徐にコートを羽織った。
「今だから言うよ。私は拓海君のことが好きだった」
美空は吐き捨てるようにそう言った。拓海は、やっぱりそうだったのか、と答え合わせをして納得できたと同時に、本当に好きだったのか、と驚きが混じり合って心境を複雑にさせていく。
今度は驚いたことに対する答え合わせをしたい、そう思うと拓海はようやく顔を上げることができた。
「私と拓海君が初めて会ったのがいつだったか覚えている?」
「小学6年生だったよね。たしか、初めて同じクラスになって、その珍しさに僕の方から声をかけに行ったと記憶しているんだけど」
「合っているよ。私は、初めて会った物珍しさと落ち着いた振る舞いから拓海君に興味が湧いたの。そして成績の悪かった私と違って拓海君は成績が良かった。ただ叫びまくっていた男子たちとは違う。冷静に物事を見られる。それでいて誰とでも接することができる。そういう姿勢に憧れている自分がいた。これは当時の本心だよ。嘘じゃない」
美空の声はハキハキとしていた。空っぽだった精神に感情が彩られているのがはっきりと感じられた。彼女は続けて、
「小学校の頃は本当に好きだったし、恋愛とか全く考えたことのなかった私だけど、拓海君となら付き合ってみたいと思った。でも中学生になってから知ったんだよ。拓海君は誰とでも接することはできるけど、同時に関わった人の色に少しずつ染まっていくんだってね」
「うっ……。まぁ、そうだったかな?」
図星だった。拓海は誤魔化そうとした。しかしその誤魔化も美空にすぐさま見破られた。
「そうだったでしょ。何をとぼけているの? 拓海君は……、私に興味を無くしていたでしょ?」
彼女は声を荒らげる。言葉に載せられた感情には怒りが含まれていた。
「私が何回遊びに誘おうとしても、予定がわからないの一点張り。断るなら明確に断ってほしかった。私に中途半端に希望を持たせないでほしかった……」
「希望って……?」
「拓海君は私の頼みの綱だったのよ。小学校のときからちょっとずつ唐原に陰口を言われていたけど、あいつが鬱陶しくなっても拓海君みたいにさらっと流せる姿勢が……大好きだったんだもん」
美空の顔は赤くなった。それは感情の昂りによるものなのか、それともビールを飲んだことによる酔いからくるものなのか。
彼女の額には汗が流れており、右の瞳は左のそれよりも強く光を反射している。
いずれにしても、彼女は精神を擦り減らしながら語っている。その状況に、拓海は相槌を打つことも、さらには肯定も否定もできず、彼女が憎しみを全て曝け出して意気消沈するのを待つしかなかった。
そして怒りに満ちた話は次第に悲しみに染められていく。
「中学校に入ってからもそう。私はね、唐原から陰口を言われ続けたのよ。拓海君は私を振った、だとか、お前は拓海に見捨てられたんだ、とかね」
美空は鼻水をすすり、おしぼりで目元を丁寧に拭いた。
拓海は緑茶を飲もうとするが、ジョッキはすでに空。意味もなくおしぼりで口元を拭いて荒ぶる感情を誤魔化した。
「ごめん。唐原からいじめを受けていたんだろうとは思っていたけど、まさかここまで常習的にされていたとは……思わなかった。僕は美空を知っているようで、全然知らなかったんだ」
拓海は無意識の内に彼女に対して、さん付けをしなくなっていたが、それに気が付けるほど冷静ではなかった。美空は彼の言葉に聴く耳を持つような素振りを見せず、目線は俯いたままずっと机に向かって喋っている。それでも声は反射して拓海の耳にはっきりと伝わっている。
「拓海君が私を良いと思っていなかったなんて、信じたくなかったの。だってその時、私の心の支えは拓海君だけだったもん……」
拓海は過去の自分の迷いを恨んだ。人の目を気にせず美空に絡みに行けばよかった、と後悔の念が何乗にもなって襲い掛かる。
2人の間に漂う空気は酷く淀んでおり、まるで泥水に汚水をかけたように、潔白に戻すのは不可能な気さえした。
美空の奥底に秘めた憎しみはまだ貯蔵されており、それが爆弾のように吐き出されては、1発1発が拓海の精神をえぐりにかかる。
「1回だけ唐原の筆箱が紛失して私の机に入っていたことがあったでしょ。あのとき、唐原は本気で私を潰そうとしているんだって思った。それが怖くて学校には行きたくなくなったの」
「あれは唐原の自作自演だった。多分言っていなかったと思うけど」
「……初めて聞いた。でもそうだろうなとは思ったよ。もう私は唐原から逃れたかった。だけど、拓海君の顔は見たいからソフトボール部の活動には出続けたよ。唐原もサッカー部にいたけど、極力見ないようにしていた。休憩時間中に拓海君を見られたら少しは精神的にも楽になれた。だから部活だけはやめたくなかった……」
美空の神妙な顔で拓海は最も想起したくない記憶、年末の多目的室で美空の悪評を本人の前で垂れてしまった事を思い出す。脳にこびり付く嫌な記憶、トラウマ、拓海は思わず両肘をつき頭を抱える。
目は瞬きができない、鼻水が詰まって口呼吸しかできない。美空がその話をするときが刻一刻と迫る。それに付随して心臓の鼓動も強くなる。
拓海は、うぅーっ、と小さく呻き声を上げると、それを聞いた美空は察した。
「拓海君、私の悪口を言ったよね。しかも私と唐原が両方いる前で。もっとも、唐原の方は私の存在に気づいていたのかは知らないけど」
「違う。あれはほんの強がりで」
拓海は慌てて言い訳をする。
突然、美空は机を叩いて立ち上がった。
「強がりじゃないでしょ! 本当に私のことを思っていたなら、自我を貫き通してよ! 唐原にその場で反抗してよ!」
美空は心の底から怒鳴った。美空のすぐ後ろの客席にいたサラリーマンが思わず振り返って心配をするほど、彼女の声は荒く腹の底から出ている。彼女の目は充血しており、荒ぶる怒りを抑えるように歯を軋ませた。
店内は騒がしい、非常に騒がしい。それなのに拓海は明確に静寂を感じた。美空によって、この瞬間から額縁に収められたように束縛されている。一瞬が永遠に感じる。
美空の指摘は正論で、拓海が何を言おうとも程度の低い言い訳にしかならず、彼は言葉を詰まらせる。
たしかに拓海がはっきりと唐原に怒鳴ったのは、美空が部活にも来なくなって以降である。拓海が唐原と決別できたのも美空を犠牲にしたからこそであった。
結局、拓海は正々堂々と美空に向き合おうとしたが、ふたを開ければ言い訳と黙秘を決め込んだだけだった。美空にはその浅い魂胆を少しずつ見抜かれていた。
「私には頼れる友達が誰もいなくなってしまったのよ。それから7年、ずっと辛い気持ちを引きずって過ごしてきた」
「僕だって後悔はして……いた」
「一緒にしないでよ。自分もいじめを放置していたことが辛かったとでも言うの? いじめに加わったことが辛かったとでも言うの?」
拓海はゆっくりと静かに俯いた。
「ふざけたこと言わないで。いじめはいじめられた側が1番辛いよ。周りの全てが敵になってしまうんだもの。初めは味方だと思っていたあなただって敵になってしまった。それをそう易々と許せ? 許せるわけないでしょ。たった数分の謝罪で支払えるほど私の7年はちんけなものじゃないのよ」
美空はたったままコートの袖から財布を取り出し、千円札を叩きつけるように机に置いた。
「もう私に会わないでほしい。その気持ち、これまでの恨み、それらをあなたに伝えられただけでも今日に価値はあったわ。ありがとう」
怒りに任せた物言いから一変、最後の言葉は冷静に下された。美空は皮肉交じりに感謝を伝えると、拓海に振り返ることなく店を出た。
拓海は呆然と座り込んで店の扉を見つめる。2人を繋ぐ細い糸がプツリと切れたようで、美空の存在がどんどんと遠のいてゆくのを嫌でも感じてしまう。
拓海は美空の分まで奢るつもりだったのに、彼女はお釣りをもらうつもりもなく立ち去った。彼女の根っからの恨み節は、おそらくすべて吐き出された。
いじめの加害者に対して怒鳴る。かつて拓海が唐原にしたこと、それが今度は拓海が唐原のポジションになっていた。
拓海が胸に秘めた7年の思いは無駄になった。美空を好きだったことすら伝えられず、彼女がなぜ成人式に来たのかも聞けなかった。
美空が話し始めると、彼女の憎しみがじわじわと拓海の乾いた心を汚染し始めた。そして彼は、美空の気持ちを分かった気になっていただけであることを悟ると、その場でうっすらと涙を浮かべた。
拓海は拳を握り悔しさとやるせなさを必死に抑え込む。美空を恨んでしまいそうなのを抑えて必死に自分を蔑もうとする。
店内の騒がしい雰囲気が、感傷に浸る拓海を煽る。
美空と話して拓海は納得したか? 答えは否であった。
どうせ絶縁されるなら全てを伝えてから絶縁されたい。拓海がそう思うようになると、足取りに迷いはなかった。
拓海は席を立ちあがり、すぐに駆け出した。店のガラス戸を勢いよく開けて飛び出す。
道の先、満天の星が散る方向には、俯いたまま重い足取りで帰る美空がいた。月明かりに照らされて彼女の輪郭はまたぼやけており、幽かに見せる姿は徐々に遠ざかってゆく。
拓海は動きを止めた。彼女の姿が、かつて唐原に罵倒された日の夕方の光景と重なる。
(6年生の時と同じだ。唐原に唆されそうになった日、僕は美空に声をかけられなかった。このまま放置していたら、当時の二の舞になってしまう)
拓海は、今回こそは美空を救わなければならない、と使命に駆られる。
すぐさま走り出して追いかけようとした瞬間、店のおばちゃんが拓海に駆け寄る。
「あんた食い逃げかい? 金ぐらい払いなさいよ」
「あっ、すみません」
拓海は慌てて店内に戻ると、自分の財布からお金を取り出して会計をした。飲み物とお通しだけだったので千円もかからなかった。
美空が置いた千円札は静かに財布に入れ、決して使うことはなかった。使ってしまうと彼女とつながるきっかけが消えてしまいそうだったから。
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三峰勾洋
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