中学1年生⑩ 12月27日
美空の交友関係は中学校に入ると次第に減っていた。小学6年生の1年間を共に過ごし、唐原から彼女を守る障壁となっていた菅野亜季は、クラスが変わったためにわざわざ関わることもなくなった。クラス内で新しく交友関係を作ることもなく、光太郎のような小学校から同じ者とも話さなくなっていた。
美空の態度も、明るさは備えつつ、どこか控えめな印象が強くなった。
誰とでも仲良く接していた美空はある時以降、人が変わったようにおとなしくなった。その時こそ、拓海の目の前で唐原に罵倒された時である。
その事を1番わかっているのは拓海であり、美空には拓海しか頼れる者が残されていない、ということを彼自身薄々感じていた。
この日を境に拓海の周りに変化が訪れた。翌日、学校が始まると、右斜め前の席にいるはずの美空の姿が無かった。朗らかな時も、憂いている時も、不安定な精神を必死にコントロールしていた彼女の席が空白となった。
拓海も、初めは体調不良で欠席しているのだろう、と思っていた。
しかし、次の週も、その次の週も、美空が姿を現すことはなかった。彼女はだんだんとクラスに馴染めない存在と化していたのには、クラスの他の者も気づいていた。
本当に彼女がいなくなってもクラス内で違和感が生まれることは特にない。クラスの雰囲気に混じっていた澱みが彼女の認知度に比例して少なくなっていくようにすら感じていた。
拓海は、初めの内は美空がいないことに寂しさを覚えていたものの、時が経つにつれて彼女がいないことが当たり前となっていく。美空のいない生活というのに驚くほど早く慣れてしまい、それがまた悔しかった。
拓海は美空を繋ぐ1本の手綱にはなれなかったのだと思い込んでいた。
しかし、美空はたった1か所だけ学校に姿を見せることがある。それはソフトボールの練習だ。平日は、放課後の部活動の時間だけ登校、土曜日の練習はいつも通りに来ていた。
拓海も美空が部活に来ていることは気が付いていたし、休憩中にソフトボール部の練習を眺めることもあった。また彼女の方も、休憩中にサッカー部の練習を眺めていることがあった。
クラスに居場所がなくても、同じスポーツに打ち込む仲間がいる。学校が辛くてもソフトボールに打ちこめば、辛さも忘れられる。その想いは未だ健在であったようだ。
日曜日の午後、拓海は本を返すために自転車で図書館へ向かう。
その道中には、かつて美空と遊んだ広い公園がある。普段は何気なくそこを通り過ぎる拓海だが、ふと目を逸らすと、木の傍でバットを振る美空がいた。拓海はペダルを漕ぐ足を止めて公園を囲うフェンスに近づき、こっそりと様子を見た。
美空はTシャツを着て、長い髪の先端が汗で形を崩している。
拓海は周囲を見渡す。誰も見てはいないが、不審者がられることを恐れた彼は、何食わぬ顔で図書館へと向かった。
翌週の日曜日も拓海は図書館へと向かった。道中の公園を眺めると、やはりそこには美空がいた。
さらに次の日曜日も同様に。
拓海は日曜日の美空を見慣れたが、美空の方から気づかれている様子はなかった。練習に集中するあまり、周りの景色など見えていないようにも思えた。
美空が不登校になってから初めての冬が到来した。彼女は期末テストすら出席せず、2学期はこれ以上姿を見せなかった。
クラスにぽっかりと開いていた穴も修復されていき、彼女がいた痕跡が失われながら2学期は幕を閉じた。
冬休みに入ると、美空はかろうじてソフトボールの練習には来ていたが、他の部員との絡みは大きく減っていた。
拓海はサッカーの休憩中にソフト部の基礎練習を眺めていたが、美空の顔を下がりっぱなしで、素振りの構えもだらけていた。勿論のこと、バットの振りも雑になっており、先輩から集中力が散漫になっていることを心配されるほどに、彼女は衰えている。
彼女は先輩に促されてベンチで休憩すると、両ひざに肘を置いて手を組み、手の器に顔を埋めていた。肉体的にも精神的にも疲弊しているのは明らかで、拓海は久しぶりに彼女に対して顧みの念を宿した。
しかし美空が数十メートル先にいるのに、拓海は手を差し伸べられなかった。
12月27日、この日は今年最後の部活動であり、朝から始まる練習を早めに切り上げて、サッカーコートと多目的室の大掃除を行うことになった。他の部活も大掃除を行うことになり、ソフトボール部も例外ではない。
寒空の下で、サッカー部の先輩たちはコートの整備を行っている。かじかむ手でサッカーゴールにこびり付いた泥を拭き取り、破れたネットの修復、凹んだボールの空気入れも行っていた。
一方の1年生は、暖房のついた多目的室の床を掃き、そして拭いた。雑巾を絞る際は、凍りそうなほど冷たい水で手が真っ赤になっていたが、外の寒さに晒されないだけマシだと皆は考えている。
拓海は無心となって床を拭きつつも、頭の片隅では美空の笑顔が浮かんだ。
美空と一緒に遊んで美空と話さなくなる。彼女を軸に考えたこの1年は、彼にとって激動であり、寂しさと同時に疲れが襲ってくる。
「ゴミ捨ててくるぜ」
田崎がそう言うと、ゴミ袋をまとめた1年生部員たちが、続々と多目的室を後にした。ここに残っているのは、拓海と唐原だけ。唐原はなおもしゃがんで床を拭いていたが、拓海は気まずさのあまり部屋を出て、水道で雑巾をすすいだ。
雑巾を水道傍の物干しにかけると、新たに1枚乾いた雑巾を持ってきた。
多目的室は、外と内との温度差で結露ができ、外の先輩たちの様子すらも隠された。窓に向かおうとすると、唐原が暇を持て余したように拓海に話を振った。
「なぁ、最近鈴木美空とは話しているの?」
「いや、話していない」
つまらなそうに返した。
「あいつのこと、振ったらしいじゃん」
「振っていないよ。そもそも告白されたわけじゃないし」
たしかに美空の誘いを拓海は断った。唐原が想定することはそれだろうが、どこから聞き入れたのかは不明だった。拓海はそのことを口に出すのも面倒くさがった。
「ちなみに、あいつといて楽しかったのか?」
「正直、そんなに楽しくはなかったかな」
唐原に対して強がるように言うが、それは半ば拓海の本心であった。
「なんかさ、やけに馴れ馴れしく接してきたんだよね。何で僕に、ってなるよ。しつこいぐらいだったよね」
「だから楽しくなかったのか」
「うん、そうだね。正直関わらないでほしいとも思っているよ」
拓海は乾いた雑巾を窓に貼り付けると、1回だけガラスをこすって水滴を拭きとった。
そのとき、結露のベールに隠された光景が露わにされた。
彼は初めて気が付いたのだ。透明なガラスに反射した先、廊下からこの多目的室を見つめる美空がいたことを……。
外の先輩たちなど、どうでもよくなった。拓海は霞んで写る美空の失望を宿した虚ろな眼差しに、心臓を握られたような恐怖がじわじわと込み上がり、雑巾を抑えた姿勢のまましばらく硬直した。
先程の唐原とのやりとり、美空を責めたててしまったことまで、全てが彼女に聴かれていた。そのことに唐原は気が付いていなかった。
「どうしたんだよ。急に固まって」
唐原がそう言うと、反射して写る美空は静かに去って行った。拓海は重圧から解放されて腕だけは動かせるようになったが、依然として足は立ち尽くしたままで、外の一点だけを見つめている。
内心の動揺はどう足掻いても抑えきれなかった。
(美空もソフト部の大掃除で来ていたんだ。まさか、僕と唐原しかいないときに、美空に見られるなんて……)
唐原に言った強がりは、途端に美空に対する後悔へと変貌した。彼女が見ていない今でも、彼女の幻影に殺されそうで、足は酷く震えていて、背中には滝のような汗が溢れ出した。
「とっ、とりあえず、さっさと掃除を終わらせるぞ。唐原は早く床を拭いてくれ」
拓海は慌てて話を逸らしたが、今でも壁の向こう側に美空がいて、多目的室内のやりとりを盗み聞きしているのでは、と良からぬ思い込みをしてしまい気が気でなかった。
拓海の態度の変わりように唐原は不思議がったが、やがて他の部員が戻ってくると、気にする素振りも見せなくなった。
唐原が遅いペースで未だに床を拭いている中、他の部員たちは1人で窓を拭く拓海を手伝うため、一丸となって乾いた雑巾を持ち出した。ただの掃除なのにやけに騒がしくなり、重苦しい雰囲気も緩和されていく。
拓海は部員の輪に挟まって喋っていると、先程の美空は幻覚なのでは、と考えてしまう。そうでなければ自分の予期せぬ発言で彼女を傷つけたことになる。
拓海は身の縮む思いを秘めたまま年を越した。
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三峰勾洋
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