中学1年生⑨ 9月上旬 返還
部活動が終わる午後5時半。太陽も半分以上沈み、空に微かに見せる上部の光も夜の闇に覆われだす頃。
拓海は体育着を着替える前に体育館裏へ向かった。雑草は30センチほどまで茂り、土は湿っていて足で踏み込むと跡がついた。敷地を囲うフェンスと体育館の狭いスペースにはドンと構える大木、その陰に美空は隠れていた。
「美空、来たよ!」
そう呼びかけると、美空は手を後ろに組んで拓海の方へ歩いた。彼女もソフトボールのユニフォームを着用したままであり、練習終わりに急いで来たことが伺える。
現れても沈黙を通す美空。拓海は、そんな彼女のすぐにでも砕けそうな心を繊細に撫でるように口を切りだす。
「僕に用事って何かな?」
変にしんみりとはさせず、気さくに接した。美空は閉じた口が僅かな隙間を見せると、その細い声を精一杯濃縮して、
「これを返してほしいんだ……」
後ろで組んだ手を前に出し、拓海に差し伸べる。彼に見せたのは、青くて細長い筆箱。今にも落ちてしまいそうなほど震える手に載せられたそれを、彼は静かに持つ。
その筆箱には見覚えがあった。拓海が嫌になるほど接してきた男――唐原が、普段から机に置いているモノ。
それを何故美空が持っているのか? 美空が盗んだ犯人なのか?
疑念を顔に表さないように、表情を崩さないように、拓海は口を閉じて下唇を上下の歯で挟んだ。
筆箱を手に取ると、それは間違いなく唐原のモノであった。
「何で美空が持っているんだ? 本当に盗んだのか?」
美空の悪行が信じられず、言葉強めにそう言うと、彼女は追撃を払いのけるように、否定した。
「違うの。私はやっていない」
「違うって何が?」
「この筆箱は、帰りのホームルーム前に机の中を確認したらあったの。それは本当。だけど、私が盗んだわけではない。勝手に入れられていたんだよ」
「それって、誰かから嵌めらそうになったのか? 自分がうっかり持っていたとかじゃなくて、最初から入れられた記憶がないということだよね?」
真意を探ろうと、拓海は興味の触手を美空に伸ばし続けている。美空は自身の弁明に必死で、瞬きを何度もするほど動揺しているが、鼻をすすると少し冷静さを取り戻した。
そして、先ほどまでの怖気づいた姿とは正反対に、驚くほど滑らかにありのまま起こったことを話した。
「ホームルーム前に筆箱があることを知って、先生に伝えようとは思っていたよ。だけどホームルームまで時間が無かったから後でいいや、って思っていた。そうしたらホームルーム中にその筆箱が唐原のモノだって知った。ここで私が持っていると言えば、唐原やクラスの人たちから、モノを盗む人、としてレッテルを張られてしまう。だから言い出せなかった。ましてや唐原に直接返すなんて、どんな報復を受けるかわからない。だからどうしても拓海君に助けてほしかったの」
美空の言葉には熱が籠り、拓海に真剣に訴えかけた。彼はほとんど彼女を信用していたが、最後に一つだけ念を入れて問いかけた。
「先生には報告したのか?」
「うん、したよ。部活が始まる前に職員室に行って、私は犯人ではないことを話したよ。最初は少し叱り気味だったけど、最終的には私を信じてくれた。あとは筆箱を返すだけなんだ……」
そう言うと、途端に美空は拓海に接近し、彼の胸に顔を擦りつけた。体操着には砂や泥が付着しているが、その汚れもお構いなしに密着した。拓海の体操服を握ると、布地で声を籠らせながら、
「……私、本当に知らないだって。信じてよ……」
とうとう美空は泣きじゃくってしまった。拓海の胸には、彼女の涙と鼻水の湿り気が触れられ、心臓の高まりで熱くなる体を局所的に冷やした。
拓海は美空とそれなりに仲の良い関係を築き、勝手に強い人だと思っていた。
そんな彼女が自分の弱さを隠さなくなった。
こんな姿――弱い自分を曝け出せるのは拓海の前だけなのだろう。
女子との過剰にも捉えられる接触に、拓海は無意識の内に頬を紅潮させた。しかし、彼女の抱擁にも近しい体の密着は、好きという感情を互いに共有するためではない、ということは彼もよくわかっていた。
助けてほしい。それが彼女の願望であり、行動の動機であるのは明らかだった。
拓海は筆箱を左手で持つと、委縮する美空の背中を右手で優しく摩った。まるで赤子をあやすように。セクハラで咎められることはないと確信してか、拓海は思わずやってしまった。美空の体の温もり、隆起した肩甲骨、それらの感触が手に伝わると彼は沈黙を破る。
「……わかったよ。僕が渡してくる」
美空の背中を軽く三回叩くと、彼女も体操服を掴む手を緩めて、胸に蹲った顔も上げた。
美空の手が離れると、拓海はサッカーコートに戻って行く。涙で崩れた彼女の顔を見ることはなかった。
美空は遠ざかっていく拓海に礼を告げる。
「ありがとう」
その声は未だに弱弱しかった。
サッカーコートには部員が残っているが、ほとんどが先輩であり、目的とする唐原は多目的室にいた。拓海は、唐原の元に寄る。他の1年生に混じって着替えと帰りの支度を済ませている彼は、不満そうな目つきをしていて、それは拓海が来ても変わらなかった。
「何だよ。俺に何を話したいんだ?」
「あのさー、失くした筆箱なんだけど」
唐原は、拓海の手に載る自分の筆箱を見て、喜びよりも驚嘆が先にきていた。そして拓海が持ってきたことにありがたがる態度も見せず、雑に筆箱を取り上げた。
「これ、どこで手に入れた?」
睨みを利かせて訊く。
「教室に落ちていたよ。教室を探していたら見つかったんだ。本当は練習前に渡してあげれば良かったんだけどさ、ごめんね。多分、唐原が見落としていただけだと思う」
拓海は美空を気遣って嘘を言った。それに対し、唐原はお礼を言うこともなく、むしろ拓海を蔑むような目で彼を払いのけた。
チッ、と舌打ちをし、筆箱を自身のリュックに詰めると、拓海と言葉を交わすこともなく帰って行った。
唐原が多目的室から退出する姿を眺める拓海は、唐原の無礼な態度に内心腹を立てると同時に、その態度はいつまで経っても治らないだろう、と諦めていた。
しかし拓海が最も心配することは、美空が今後の学校生活をやっていけるのか、ということであった。
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三峰勾洋
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