中学1年生④ 土曜日 カレーライス
土曜日の正午前。拓海は直前になって起床した。朝食代わりにコーヒーを飲み、歯を磨く。着替えはクローゼットから引っ張り出した白いTシャツと黒い短パンで簡素に済ませる。
拓海は自転車に跨り、美登中学校の校門前へと向かった。自宅から一直線に向かうだけなので直前まで自宅でくつろいでいたのだが、時間が迫るにつれて焦りだし、立ちながら腿を大きく上げて自転車をこいだ。
体操着を着た中学生の集団が拓海の流れに逆らって歩く。他の部活動の午前練習は終わった。同時に拓海は、早起きをして辛い練習をする必要が無い今日という日をありがたがる。
中学校への道中のT字路、居酒屋の陰から黒髪をなびかせた美空が自転車に跨り忽然と現れた。美空は拓海と目を合わせるや否や満面の笑みを当てつけて、何も言わず自転車をUターンさせる。
あっ、と声を出した拓海はその後ろを追いかけた。2台の自転車はタイヤ1個分まで近づき、そのギリギリの距離感を拓海は保つ。美空は車通りを確認するために後ろを振り向き、そのついでに拓海に、おはよう、と語り掛けた。
拓海は、もう午後だよ、と声を荒らげて返事をする。
「それで、美空の家に行くのでいいの?」
「うん。今は家に誰もいないから問題ないよ。4時間ぐらいなら家を使ってもらって構わないから」
美空は嬉しそうに見つめながらそう言った。拓海は馴染みのない住宅街の景観に目を張らせながら訊く。
「美空の家ってあとどのくらいで着くの?」
「ええっと、あと1分ぐらい走った所」
「意外と近いね」
拓海は、1年前に自分の下校が遅れて唐原に絡まれた日の事を思い出す。その日の美空は弱弱しく俯きながら寂しそうに帰宅していた。唐原に目の前で悪態をつかれて精神的にも軟なはずなのに、拓海と辛さを共有せず、それどころか唐原が不快に思ったのは自分のせいだと人一倍責任を背負い続けていた。
その日に負った心の傷は癒えただろうか。
拓海は久しぶりにそう思った。
目の前には、1年前と比べ物にならないほどたくましい美空がいる。その強くある様は成長した証なのか、それともハリボテでしかないのか、振る舞いだけで判別はできなかった。成長していたらこのまま放っておいてもいいのかもしれない、ハリボテなら助けを与えなければならないのかもしれない。心配の念が生まれては消え、また新たな心配の念が生まれた。心は疑問の鎖に雁字搦めにされ、緩められずにいる。
思い起こしたくはない記憶であることは承知の上で拓海は問う。
「ねぇ、美空って強くなったよね。唐原に言い詰められたときと比べて」
美空の耳はピクッ、と反射的に動きを見せた。彼女の耳が赤いのは、恥ずかしさ由来のものなのか、それとも正午の日差しが着色したものなのか、拓海の視界だけではわからなかった。
美空は顔を不規則な方向に向けて、その後首を回した。コリをほぐすようなその動作が気持ちの誤魔化しであることは拓海の目にも明らかであった。
美空は黙りこくったままで、拓海も思わず、ごめん、とおどけたように言う。視線を美空の自転車の後輪に合わせ続ける。
美空は拓海を気遣い、
「拓海君が謝る必要なんてないじゃん。それに拓海君は唐原と仲が良いから耳が痛いかもしれないけど、あいつのことなんてどうでもいい存在だなって思っているよ。あいつがどんなにちょっかいをかけようとも私は気にしないようにしたから」
そう言って顔を右に振り向くと、頬を上げて不器用に笑顔を作り出し、口元は靡く髪で隠されていた。拓海も顔を上げるが、視界から入ったのは車通りを気にする美空の目元であった。
「あっ、この先を曲がるよ」
美空は30メートル先のカーブミラーを指さした。2人はその箇所で左折をして路地に入っていく。自分の帰り道であるためか拓海を案内するのは造作も無さそうであった。
「この辺は来たことあるかな? それとも初めて?」
「多分初めてだな」
「この先の道を右に行ってそのまま真っ直ぐ行くと私の家に着くよ」
「へぇ……、そうか」
「ちょっと迷路みたいに入り組んではいるけど標識もあるし迷子になることはないと思う。それに街道に出てしまえばとりあえず帰れるからね」
美空は急に家までの道と近隣の解説を始めた。
拓海は、美空が話題を逸らしているのは明らかである、と感じた。結局彼女は、唐原の名前は一切出さず、不快感や憎しみを有耶無耶にした。その想いに暗に触れた拓海は自分の問いが愚かであったことを後悔する。疑問など今解消する必要は無かった。単に早とちりであった。
美空は先程の質問を忘れようとしている。拓海も同様に忘れようと努めた。
「あっ、着いたよ」
美空は淡々とそう告げた。目の前に佇む2階建ての一軒家が美空の家であった。郵便ポストの表札には楷書で堂々と『鈴木』の文字書かれている。
「自転車はここに停めておいてもらえればいいよ」
郵便ポストの前で2人の自転車の向きを揃える。
「オッケー。それにしても広い家だね」
拓海が度肝を抜かれたのは、家の規模が大きいことであった。庭の半分は駐車スペースで、今は車が空となっている。もう半分は芝生が茂っているものの、置かれているモノは小さな物置だけ。広い庭を持っている割には閑散としていた。
「そう言えば美空って何人家族なの?」
拓海は1年以上同じクラスなのに彼女の家族構成すら知らなかった。美空は声を裏返らせて驚き、
「言ってなかったっけ? 私は2人姉弟で両親、弟、私の4人暮らしだよ」
「そうなのかよ。弟の話とか全然しなかったじゃん。本当に今初めて知った」
美空の家族について知った拓海は目を大きく開いた。言葉にも感情が籠っていた。
2人は玄関まで行くと美空が玄関のドアを開けた。
「いいよ拓海君。入って入って」
と言い、ドアを開けたまま拓海を先に家へ入れた。拓海は気を遣われたことに対して何度も首を縦に振りながら、どうもありがとう、とお礼を言った。
玄関には木製の下駄箱が備えられていて、家を上がって右手にはリビングルームへ通じるドアがある。ドアの横には一回りだけの螺旋階段があり、2階へ通ずる唯一の道となっている。壁は鍾乳洞のように白く、床は歪んだ木目の模様が焦げ茶色に彩られていた。
「おっ、お邪魔します」
拓海は圧倒される。美空が玄関ドアを閉めたことで、清潔感に満たされた空間は外の殺風景と隔絶された。
拓海は屈んで靴を脱ぐ。床に上がり靴を端に寄せる。
一瞬顔を上げると、美空が緊張した面構えをして、目を何度も瞬きさせている。
美空は慌てて靴を脱いで上がると、目の前にある階段の1段目に足をかけて、2階にある自分の部屋に拓海を案内する。
螺旋階段は肩幅1.5人分の狭さしかなく、足を踏み外して転落してしまわないよう手すりに掴まって慎重に登って行く。
2階に着くとまた狭い廊下になり、3つの部屋が連続で並べられている。美空が案内したのは1番奥の部屋だった。
ドアを開けて部屋の明かりをつけ入ると、手前左手にクローゼットが埋め込まれており、手前右手にはベッドが、奥左手には勉強机が置かれている。カーテンは閉められて日当たりが悪く、床には漫画が散らかっている。電球の明かりだけでは気持ちが淀んでいくようであった。
美空はあたふたしだして拓海の右手を掴む。
「あっ、待ってごめん。すぐ片づけるよ」
そう言うとカーテンを全開にして、1センチほど窓を開けて換気を行い、散らかった漫画は横に倒したまま積み上げて勉強机の上に雑に置いた。
拓海は部屋の整理整頓よりも、不意に美空が手を触ってきたことに気が動転した。反射的に右手を自分の胸の前に引っ込めて、美空が片づけに気を取られている間はその掌を見つめていた。
初めて女子の体に触れた。それでも美空の小さな手が与えた温もりは味わう隙も無く消えてしまう。
ねぇ、と美空が言った。拓海は、はっ、と顔を上げる。彼女はつぶらな瞳で見つめて、
「そう言えば拓海君ってお昼ご飯食べたの?」
「昼は……、そう言えば食べなかったな。朝から何も食べていないや」
「えっ、ダメだよ。何でも良いから食べないと」
美空は捨てられた子犬を見るような目で拓海を労いながらも口をもごもとごさせて、
「お母さんが昼ごはんにカレーを作ってくれたんだよ。良かったら食べない?」
拓海は、他人の家に押し入り他人の家の食事を勝手に頂くことを烏滸がましいことだと考えていたが、恐る恐る尋ねた。
「カレーか。本当に食べても大丈夫なの?」
「うん、いいよ。量が多いから私も食べきれないと思っていたんだ」
拓海は美空に甘えて了承した。美空はクローゼットを開けると、折りたたまれた小さな卓袱台を床に置く。
「ちょっと準備してくるね」
そう言うと美空は部屋を出て階段を下りた。
1人取り残された拓海は部屋を軽く物色する。部屋という人間の性格が顕著に表れる空間、ましてや性別も違う人間の部屋で、拓海は生々しい少女の実態を知ることになりそうで肩をこわばらせると同時に、興味も湧かせていた。
机の上に置かれていた漫画は王道の少年漫画であった。乱雑に積まれたのとは別に教科書は立ててしまわれている。
クローゼットを改めて開けると、そこには大量の洋服の一着一着がハンガーに掛けられていて、上の空間だけがすし詰め状態であった。白や薄い水色といった華美ではない色が多かった。下のスペースにはゆとりがあり、ソフトボール用のバットとグローブ、そして白を基調とした赤いユニフォームが丁寧に畳まれている。
拓海は狭い部屋の中を行ったり来たりした。実際にその部屋が表していたのは、おしゃれに心を弾ませ、漫画で感受性を育む年相応の純真無垢な少女であった。
5分ほど物色したところで、階段を上る足音が刻々と近づいてきた。拓海は静かにクローゼットを閉じて窓の外の景色を眺める。そうやって利口に待っていた風に装った。
窓ガラスが鏡になり後ろが見える。美空は肩幅ほど大きい長方形のお盆にスプーンが刺さりカレーとライスが入った皿を2つ、小さなコップを2つ、麦茶の入った透明なビンを載せてゆっくりと部屋に向かって来た。振り返るとスパイスの香ばしい匂いが鼻に立ちこみ、それまで眠っていた食欲は掘削された温泉の源の如く湧き上がった。
お待たせ、と気さくに呼びかける美空に、拓海は口角を吊り上げた。お腹の中にぽっかりと空洞が開いたような感覚に襲われ、目の前のモノに無性に齧り付きたくなる衝動に駆られる。
「やっぱり拓海君、お腹空いていたんじゃないの?」
「お腹空いているよ。空き過ぎて苦しいぐらい」
美空には表情で読まれていた。拓海は謙虚さを捨てて今の心情を率直に吐いた。
美空がお盆の上の皿とコップを卓袱台に置き、続けて麦茶を注ぐ。2人は胡坐をかいて面と向かい合う。
「食欲には正直になった方が良いよ」
と美空に諭されると、拓海は炊き出しを献上してもらったかのように敬語交じりで、
「はい、ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ。私もいただきます」
拓海は掻き込むようにカレーを口に入れた。最初に感じたのは、米の食感が硬いことであった。米の粘り気が少なく舌触りにパサつきを感じる。冷凍ご飯を温めたのだろうと推測し、麦茶を飲んで口の中の水気を潤す。カレーも甘口で辛味も少なかったが、蜂蜜の焦がした香りが食欲をよりそそらせる。
空腹の拓海にはそれだけで十分満足した昼食であった。米粒は1粒も残さず、ルーは皿の端に寄せられた一筋に至るまで全て平らげようとした。
2人がカレーを食べ終わると、お盆にお皿とコップを載せて美空が台所まで自発的に運んだ。拓海はご馳走になった交換条件に手伝うことを提案したものの、美空にそれを拒まれた。
部屋に残された拓海は、リュックからタブレットを取り出してモバイルゲームを起動する。美空が部屋に戻ると、同様にスマホを取り出してモバイルゲームを起動する。
2人は瞬きを忘れて端末の画面とにらめっこ状態になる。このキャラがカッコいい、このストーリーが最高、このステージが難しい、など2人はいつにも増して饒舌に語り合った。2人とも、1人でゲームをするとき以上、心の海が快楽物質で汚染されて溺れかけるほど夢中になった。
1時間が経った頃。美空は目の潤いがなくなりだし、両瞼を力強く閉じる。拓海は両手を後ろについて腕と足を伸ばし、首を上に向けた。女子の家に来て遊んでいるのにゲームばかりしているのは良いのか、拓海の心が疑問を呈した。
ポカポカと爽やかな風が部屋に入った。カレーライスの消化により眠気が醸し出される。拓海の自然と閉じかける瞼を見た美空は、立ち上がると両手を組んで肩を伸ばし、
「眠くなってきたし外で遊ばない?」
と言った。
拓海は顎の付け根のツボを指で押して、その刺激で眠気を抑えようとした。
その後、立ち上がって肩を伸ばしながら、そうだね、と了承したときには既に美空はクローゼットからバットとその袋を取っていた。
「公園に行かない?」
端から行くことを前提にされた質問に拓海はノーと言えるわけもなく、
「えぇー……、じゃあ行くか」
と不安が過りながらも了承した。
「やったー。行こう行こう!」
喜ぶ美空は既に出掛ける準備ができていた。拓海は公園で美空のソフトボールの練習に付き合わされることに億劫な気持ちを抱える。
自分の興味のないことについて行くのが正解かどうかわからない。ただゲームに飽きたことに対する答えであったから行くのであった。
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三峰勾洋
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