小学6年生⑩ 光太郎
幾分が過ぎ去り、教室内には5人しか残らなくなった。拓海はずっと教室の外をぼんやりと眺めており、傍からは気味悪がられていた。
代り映えもしない景色に飽きた頃、拓海は気分を一新させるために図書室へ向かった。普段は図鑑ばかり読む彼だが、今日ばかりは趣向を変えて児童書を棚から取った。
作者それぞれの理論や哲学を基にした物語は非常に読みづらく、一文が簡潔に記された図鑑と違い、小説は一文が長く、論理的にまとめられていないこともしばしばあり、文字を追って理解するのに時間がかかった。
さらに読み進めていき集中力が散漫になるにつれ、美空や亜季、唐原のことがチラついてしまい余計にページをめくるペースが落ちる。気が付くと拓海は、同じページの同じ文字列だけを何往復もして追っていた。
時間はかかりつつも1冊の半分を読み終えると、下校時刻に近づいた。彼自身、夢中になって本を読んでいる時間が一番落ち着いている。しかし、1度文字が視界から離れると、すぐに関係のない出来事を思い出してしまう。
拓海は司書の先生に追い出されるように図書館を後にした。
急いで教室に戻ると、光太郎の大柄でたくましく自信に満ちた姿があった。教室に入ると、光太郎は拓海の方を嬉しそうに振り返り、
「よっ、何か本は借りてきたのか?」
「いや、何も借りなかった。それより光太郎は何で残っているの?」
「あー、実は先生に呼び出されてさ。昨日の調理実習のプリントを書き直さないといけなくなったんだよ。だからずっと書いていた。ようやく終わって今は気分が良い」
「そうか、それは良かった……」
調理実習。その言葉を聞いた途端、美空が唐原に罵倒される情景が呼び起こされて、放心状態となった。それらの情景がぐちゃぐちゃに混ぜられると、拓海の脳内で情報の波が切り詰められて整理がつかなくなった。
沈みかけの太陽、薄暗い教室、記憶がどんどんと悪い出来事に偏られていく。
やがて記憶同士が脳のリソースを無駄に使い果たすことで、脳内情景は雑なグラデーションを帯びていたのが真っ白になった。その間、視覚や聴覚でに感じた情報すらも拒まれた。
「おいっ! 大丈夫かっ?」
光太郎の張り上げた声で我に帰った拓海は、光太郎の心配をよそに、荷物を机の上に出して早急に整理する。光太郎は、拓海の人格が変わったような動きを不思議に思いながら、自分の席で悠長に座っていた。
「おい、何でそんなに急いでいるんだ?」
「早く出ないと見回りの先生が来ちゃうんだ。怒鳴られることはないけど嫌じゃん」
「本当かよ。確かに面倒だな」
光太郎も慌てて荷物をランドセルに詰めると、2人は窓を全て閉めて電気も換気扇も全て消えていることを確認し、教室を速やかに退いた。
校門を出ると2人は右に曲がる。
西日が正面から射す。
2人は初めて一緒に下校した。
「光太郎、ひょっとして家は途中まで一緒かな」
「そうだ。真っ直ぐ言って突き当りを左に曲がるんだ。拓海はあまり知らないかもしれないが、俺はたまに登下校時にお前を見かけるからな」
「本当に? 今まで全然気が付かなかった」
「毎日ずっと本を読みながら帰っているんだし、あまり人のことを気にしていないだろ」
「気にしていないね。6年生にもなって家を知っている人が全然いないのはこのためか」
「別にいいとは思うぞ。俺はそこまで勉強熱心になれないからな」
2人は顔を合わせて語り合った。光太郎は拓海を弟のように、拓海は光太郎を兄のように慕っていた。
拓海は、美空と話すときのような目が合わさったときの気まずさを感じず、同性ゆえの隔たりがない状態で接している。
話は拓海の相談事に移り変わり、
「ちょっと聞きたいんだけどさ……」
昨日唐原に言われた美空への侮蔑が油汚れのように脳にこびり付いては離れない。
拓海は、美空が男子とよく絡むのは良いことなのかを問いたかった。クラスが始まって当初、美空は光太郎とよく喋っていた。美空は人気の男子に縋りつく、唐原の言う男子の内の1人は光太郎であることは拓海も考えていた。
黙りこくって俯く拓海に光太郎は眉を曇らせた。歩幅は無意識の内に小さくなり、特に光太郎は窮屈そうに歩く。
唐原の名前を出してもいいのか、という疑問がよぎるも、
「知り合いから昨日言われたんだ……」
と匿名にして、ただし限りなく唐原に言われたことを崩さないように努めて話した。
覚束ない思考を整理するために明後日の方向を向いては着実に言葉を紡ぐ。
「率直に言うと鈴木美空のことなんだ。鈴木美空はさ、結構男女に隔てなく接してくれるでしょ。それって純粋に仲良くしたいだけだと思う……?」
「仲良くしたいだけって、まぁそうじゃないのかな?」
「そっ、そうだよね。良かったぁ」
拓海は饒舌になり少し安心した。光太郎は質問が不自然に感じたのか、
「仮に仲良くしたいじゃないとしたら何だ、もっと仲良くしたいってことか? 例えば男子と付き合いたいとか」
「えっ、そういうことなの?」
拓海は一瞬顔をしかめた。その感情の緩急を光太郎に突かれて、
「それともお前、鈴木さんと付き合いたいのか?」
「それは違う」
速攻で返答をし、追撃する隙を与えなかった。その反射的に否定をする仕草に違和感を持ちながらも、光太郎は慌てて謝る。冗談めかして笑うと、
「すっ、すまねえ。許してくれ」
「いいよ……」
拓海は幾らかの不満を抱えてもすぐに冷静になった。
彼は特段好きでもない美空との関係性を勝手に盛られてからかわれることが嫌いだった。仮に美空のことが好きであれば、からかわれたところで気にせずいられるだろうが、女子の世界に足を踏み入れたいとは思っていなかった。
どんなに否定したところで、関連するワードを出してからかう奴はいる。現に唐原もそうであるが、彼と違って光太郎には悪気は一切無い、そのことを拓海は理解していた。
光太郎は髪の毛を掻いて首を傾げる。拓海は一度ため息をつくと、腕を首の後ろで組んだ。そして、はにかんで赤面した頬を腕で隠した。
拓海は、美空に選ばれているかもという思いあがった態度を知られたくなかった。たとえ信頼を置いている光太郎であっても。
しばらくの沈黙の末、
「あのさ、続きを話したいんだけど」
「あぁ、すまんすまん。鈴木さんの話だよな」
拓海が話し出そうとした途端、脳裏には美空を罵る唐原が浮かんだ。しつこい、気持ちが悪い、いずれも美空相手に感じたことの無い感情であった。
拓海は、一緒にいてしつこいという関係性すら成立していないと思っており、しつこさという点において学期の初期に1番近くで喋っていた光太郎の考えを知りたがっていた。
拓海は、光太郎のどんなに邪な質問であろうと受け入れてくれそうな寛大な心に甘えて、
「次の質問いくよ。鈴木美空っていろんな人と話すけど、それってしつこいことだと思う?」
「しつこい? そんなにしつこいってなるのか?」
「そっ、そうだよね。普通はしつこいとはならないよね」
拓海は光太郎の曖昧な回答を無意識のうちに、半ば断定的に肯定して、光太郎の意見を誘導した。誘導に流されるまま光太郎は深く考えることなく拓海に賛同して、その場を賑やかそうと、
「鈴木さんでしつこいと思われるなら、俺は拓海にも当然しつこいと思われていなきゃおかしいだろうな」
「いやいや、光太郎は別にしつこくないよ」
「本当か? 教室に残っていただけでお前と一緒に帰ろうとする男だぞ。それもほとんど勝手に。普通なら嫌われていてもおかしくないぞ」
「光太郎は人との付き合い方が上手いから、そこらへんは空気を察してくれるでしょ」
「俺ってそんなに付き合い上手いのか。嬉しいなぁ」
拓海は頬の肉が浮かび上がるほどの笑みを見せて会話のキャッチボールをした。干からびた心に安寧をもたらす水が潤沢に満たされて嬉しさが滲んだ。
男子と女子、友情と恋愛、尊重と侮蔑、接する距離感。拓海はあらゆる価値観が交差する地で、自分が善の側にいることを認めてほしかった。そんな崖の淵に立たされて、唐原の渦に飲み込まれる寸前のところを光太郎に手繰り寄せられた。
拓海は心の内で改めて光太郎の自然な気遣いに感謝をした。
美空がしつこいか、という議題はとうに脱線していたが、雑談は最高潮の盛り上がりをみせると、急にお互いのこれまでの人生の話にすり替わった。
小学6年生になるのはあっという間であり、入学当初は6年生のことを、決してたどり着けない雲の上の存在だと思っていた。しかし時間の流れは残酷にも憧れを汚れさせた。
相対的に大人なだけで6年生も立派な子どもであり、6年生になれば自分で何でもできるようになる、6年生は素晴らしい、などという考えは幻想で、6年生になろうと結局未熟なままであることを拓海はようやく理解した。
2人は今後の学生生活に淡い期待を描く。
「光太郎は中学に行っても野球は続けるの?」
「もちろんだ。拓海はどうするんだ? サッカー部に入るのか?」
「どうしようかなぁ……。まだ考えがまとまっていないや。でも他にできることは無いし、サッカー部に入るかもね」
拓海自身、より広い世界を探求してみたいという思いも僅かにあり、他の部活動にもアンテナを張るが、足と手にはサッカーの経験が蓄えられており、関心もサッカーに引き寄せられていた。
ただ1つの疑念、唐原が進学してサッカー部に入るか、という問いは1度頭の片隅に押し込んだ。
「お前は運動神経も良いし、どの部活に入ってもやっていけそうだけどな。サッカー以外に部活に入ってもっと人脈を広げるのはどうだ?」
「いいよ。僕は積極的に友達を作りたいわけではないし、友達付き合いも上手い方ではないからさ」
「でも人とは積極的に関わるべきだと思うよ。部活に限らずクラス内でも」
「そう?」
「例えばさ、クラスのやつらがどんな友達関係を築いているのか、とか、クラス内での流行りなんかは知っておくべきだと思うんだよ」
「そんなに重要なのかな?」
「共通の話題が増えるわけだし重要だろ。クラス内の流行はすぐに変わってしまうから、色々な人と関わって流行には敏感になっておく方が良いぞ」
光太郎は拓海の耳元に顔を近づけて、拓海は多分知らないだろうけどな、と一拍間を置き、
「ここだけの話、お前と鈴木さんの関係は勝手に盛られていると思うよ。付き合っているんじゃないかとか、俺は言ったことないけどそう思っている人がいると言う噂を聞いたことがある」
「はぁーっ?」
拓海は顔をしかめた。
「そんなこと言わないでくれよ」
拓海は光太郎に対して不機嫌な態度を取った。光太郎は笑いながら、
「悪い悪い。また話が逸れちゃったな。どこまで話を戻す?」
と言ったが、気が付けば2人は拓海の家の前まで来ていて、話を本題に戻すこともなく、家の前でだらだらと駄弁ることもなく、光太郎は街道を南に歩いてこの日は別れた。
拓海の心にはポッカリと空洞が現れ、心臓がバクバクと拍を荒らげると、明日以降の学校での自分の捉えられ方を悲観的に考えてしまう。
自分と美空の関係性が盛られているというのが嫌だった。その噂が本当かはわからないが、仮に本当にだとしたら、光太郎には言わないでほしかった。
知らないままでいた方が、他人の目を気にせずにいられたのに。
自宅に帰ると、昨日と同様にすぐに自分の部屋に行きベッドで横になった。枕に顔をうずめながら、掛け布団で体を包みこまれると、自分だけしかいない隔たれた世界に訪れた気分になり、不安に苛まれることも、恥ずかしさに身を滅ぼそうとすることも、全てを一時的に忘れられた。
目をつぶって気が付けば1時間が経った。途中で意識も飛んだため、起き上がりは瞼も重たく朦朧としていたが、次第に頭に詰まった老廃物が浄化されたように思考が冴えわたると、美空の喜怒哀楽に富んだ顔が、果実のように熟れて想起された。
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三峰勾洋
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