小学6年生⑨ 亜季
翌日。拓海が教室に入ると美空は既に席に着いていて、
「拓海君おはよう」
と手を振って挨拶をしてくれた。拓海は窄んだ声で挨拶を返したが、美空の目が笑っていないことに気付いた。
お互い、昨日の事を思い起こさないようにしようと暗に示し合わせている。
拓海が席に着くと、いつも通り教科書を眺めた。
左を向き、美空の顔を眺める。美空も顔を右に向ける。2人の目線があった途端、互いの顔は机に戻った。目線を合わせることすらもままならず、話題を振ることもできない。
昨日の事は忘れようと努めるほど、余計脳裏に焼き付いてしまうため、拓海は時計の針を見つめ、時の流れに委ねた。
昨日まで、拓海は美空と話す時間を楽しんでいた。時間は気が付くと過ぎ去ってしまい、そのことに現実が追い付いていないとさえ思っていた。
今は現実の方が先走り、時間が追い付かず、秒針のカチッという音の周期は、拓海が意識していないときよりも遅いと錯覚している。
5分という悠久にも等しい時間が過ぎた頃、教室の前のドアが勢いよく開けられると、壁を打ちつける音と共に唐原が登校してきた。
美空はすぐさま教科書で顔を隠し、他人との接触を拒む態度をとる。その速さは、もはや本能に刻み込まれていると感じるほどであった。
唐原は教室に入るや否や、拓海の机の前に立ち、嫌でも構ってもらおうと机を叩いて、おはよう、と話しかけてきた。唐原の顔には、嫌味を下地として満面の笑みが粧し込まれている。あまりの利己的な態度に、拓海は教科書の正面で机を叩いて、
「あまり僕に馴れ馴れしくしないでほしい。しつこいよ」
と、唐原が美空に思うことをそのまま唐原に返した。
しかし唐原は、机の周りに寄生しだし、自分の行いが間違っているとは何とも思わず、
「しつこすぎることはないだろ。誰かとは違って」
発言の途中、拓海を見つめていたはずの目が一瞬逸れた。唐原の鋭利な言葉の矛先が美空に向かっているのは明らかであった。
拓海は、そのことに一々突っかかるのも呆れ、心の中を土足で踏みにじられないよう固く閉ざす。
うなじから溜まった汗が噴き出そうだった。
教科書を開き、顔を隠す。左隣の美空が幾度となく瞬きを繰り返し、その拍はどんどん速くなっている。
拓海は、眉根を寄せて温和な態度を抑え込むと、喉に籠る低い声を発しながら唐原を睨んだ。
「なぁ……、本当に近づかないでほしいんだけど」
「そうは言っても、俺の席はお前の後ろだぞ。残念だけど離れたくても離れられないよ」
「じゃあ変なちょっかいをかけないでくれ」
「はいはい。流石に俺も控えるよ」
唐原は、ランドセルから荷物をがさつに取り出して、拓海に訴えるように紙が擦れる雑音を出した。その喧しさに耐えきれず、拓海は左肘を机について、左手に載せるように左耳を塞いだ。右耳からは、絶えず悪意に塗れた音色が聴こえるも、我慢するしかなかった。
呆れてものが言えなくなった。腹の底から怒る気力もなくなった。
拓海は、美空に向けられた悪意がいつか自分に来ることを恐れて火種を潰そうとしたのに、怒る口実と恨みが次第に消えかかっていることを恐れた。
隣を見ると、美空は黙って教科書を見続けている。唐原を無視し続ける確固たる意志にも亀裂が入りそうなほど瞳は潤んでいた。
休み時間になると、いつもの美空なら艶然とした表情で質問をしてくるのだが、今日の彼女は俯いたまま拓海にすら顔を合わせようとせず、溢れる雑多な感情を内に閉じ込め続けていた。
美空は、授業終わりにすぐに駆け出してトイレの個室に閉じこもり、授業開始直前に戻って来る。そんな落ち着きのない行動を見せた。
その様子を後ろの席の亜季にも心配された。
唐原と美空がいないタイミングを見計らって、亜季は拓海に話しかける。
「ねぇ、ちょっといいかな? 美空ちゃん、様子がおかしいよ。やっぱり調理実習の後に唐原から嫌味を言われたことが原因……だよね?」
「多分……、そうだと思う」
拓海は自信無さそうに言った。
「やっぱりあいつが。本当に心の底から腐っているよ」
亜季は心底呆れたが、一度ため息をつくと、瞼を強く閉じて軽く開いた。そして、普段の強気な態度が嘘のようにか細い声を発した。
「わたしはあいつに対して偉そうな態度を取っているけど、もう疲れちゃった。あいつの図太い神経には勝てないかもしれない。何を言っても聞かないんだもん。多分だけど、拓海君も辛い思いをしているよね。美空ちゃんとは仲良いし、大事な友達が言葉で傷つけられているのを聞かされるなんて嫌だよね」
「いや、別にそこまで辛くはない……」
「そう? 拓海君は強いね」
「強くなんかないよ。ただ唐原を無視すればいいやって思っているだけで、僕自身もあいつは苦手で……」
「そんなことない、立派だよ。わたしは気に入らないと怒って正そうとするの。放っておくことができなくて、ついね。それにわたしはもう唐原を怒鳴りつけられないかもしれない。怒れば怒るほど自分の中でも辛くなるの。思考がぐちゃぐちゃになって、息も切らして、顔も熱くなる。普段強気を装っているけど、滅多に怒らないから知らなかったんだよ、怒ることがこんなにも辛いことだなんて……」
「ちょ、ちょっとごめん。装っているって、菅野さんは、本当は強気じゃないの?」
「うん、そうだよ。実はわたしね、男子とかに舐められたくなくて必死に強い自分を作ってきたの。唐原とかはわたしを恐れてくれたし、キャラづくりは成功だったと思う。でもね、素で強いわけじゃなかった。自分が傷つけられたら傷つけ返せばいいと思って怒ることはできる。だけど他人が傷つけられたときは、自分がそこまで傷つけられたわけじゃないからかな? ふと、何で無関係なのに怒っているのかな、って思っちゃうの。怒ることが割に合わないと感じてしまって辛い……」
「そんなに思い詰める必要もないと思うけど……」
「いや、思い詰めたくもなるよ。だって……自分が辛くなるのは何故かを言葉で表したら、美空ちゃんを助けたくない、って言っているのと同じになってしまうんだもの」
拓海は、亜季が吐いた突然の弱音に、何を言えばいいのかわからず、ただ困惑した。
「唐原に絡まれたとき、美空ちゃんは強いわたしに期待してくれている。だけど美空ちゃんを助けようとするほど自分が弱くなってしまう。それが嫌なの。助けたいという気持ちはもちろんあるよ。素直でいい子だし。それでもわたしは助ける資格を持てない」
亜季は、掌を擦り合わせてソワソワとしている。
口が止まり、2人の間に無言の間が訪れる。拓海は、どの箇所に視線を合わせればいいのかわからなくなり、目を至る所に泳がせた。
亜季の表情を読み取ろうにも、眼鏡のレンズが反射して瞳孔の様子を探ることができず、口周りも硬直していた。亜季は、唾を1度飲み込んで、拓海の横を通り過ぎるように歩く。
「拓海君が美空ちゃんを助けてあげてほしい」
最後にそっと語った。
願望を押し付けた亜季。彼女の言葉に思考を止められた拓海。2人の距離が遠ざかるほど、拓海の心の中でその願望が木霊する。
拓海が顔を上げたとき、視線の先には、他の女子3人と楽しげに駄弁る亜季がいた。先程までのしょげた態度とは打って変った睦まじい様に、拓海は疎外感を感じた。目ではっきりと見える範囲なのに、遥か遠くに行ってしまったように寂しく思った。
美空が戻って来た。恐らくトイレに籠っていたのだろう。席に着くと、彼女は暗い表情のままじっとした。
その様子を拓海は俯瞰した。
(自分に美空を助ける義理はあるのか。美空をしつこいとは思わないが、少しは反抗する素振りを見せてほしい)
拓海はそう思った。
唐原を相手にするのは、拓海の心にも負荷をかける。拓海だって美空のことは嫌いではない。彼の痛みと亜季の痛みは、始まりが違うだけで共通の痛みに収束するはずだった。
しかし、亜季は自分の弱さを受け入れてしまい、痛みの捌け口を拓海に押し付けた。
拓海は自分の心の基盤が不安定で、弱さを受け入れる勇気が持てていない。
だからこそ、唐原との齟齬、それを解消するのは美空自身であるべき、と考えた。
拓海が差し伸べようとする助けの綱は、あまりにも細く短かった。美空が縋った瞬間、すぐに千切れそうなほどに。
この日、拓海と美空は、雑然と話すことはなく、最低限の挨拶だけを交わして、顔も最低限しか合わせなかった。
拓海がたまに美空を見ると、クラスの女子と教室の後ろでたむろしており、そのときだけ朗らかな笑みを浮かべた。唐原がいないときには、亜季とも喋っていた。
それでもお互いがいつ戻ってくるのかもわからない唐原を気にしており、表情はわざとらしかった。
帰りのホームルームが終わると、美空は拓海に、バイバイ、と軽く手を振って教室を後にした。目尻が垂れてどこか悲しげな顔をしていても、一連の行動には迷いが無かった。
拓海は美空が出て行ったあとの廊下を、ぼーっと眺める。
1人の世界に入り込んでいた彼に唐原が割り込んだ。
「おい。今日さ、鈴木の奴、どうしたんだろうな。いつもならお前と話すのを楽しそうにしているのに、今日は全く話さなかった」
「お前がいるからだろ。お前に後ろで監視されていたら、誰だって話したいとは思わなくなるだろ」
「そうなのか。そうだったんだ」
とぼけたふりをした唐原は、拓海に軽く手を振って颯爽と帰って行った。
拓海は一切目を合わせることなく、視界の端っこにすら収めないように努めた。
いつも読んでいただきありがとうございます。
毎日6時に投稿していきますので、気に入っていただけましたら、ブックマーク、ポイント、感想、SNSでの拡散等をよろしくお願いいたします!
三峰勾洋
X:@mitsu_kooyoo




