3・八年前の思い出
「よかった……すぐに見つかって」
香水が入った袋を胸元で抱えて、市場を歩く。
こうして外出する際は、お使い用の見窄らしい服に袖を通し、フードを深く被っている。私の桃色の髪はよく目立つからだ。
だから、人混みの中を歩いていても、誰も私に視線を向けない。汚らしい使用人が買い物をしているだけ。周りの人はそう思っているのだろう。
「私だって……公爵令嬢なんだけどな」
ぽつりと呟く。
しかし、その呟き声は雑踏に紛れて、かき消えた。
──こうして、市場を歩いていると、八年前の出来事を思い出す。
あの時の私もお使いを命じられ、一人で市場を歩いていた。
幼い私は街中の地図が頭に入っておらず、簡単な調味料を買うだけでも大層な時間を費やしたものだ。
遅れないように早足で市場を歩いていると、その声は聞こえた。
『痛い……』
男の子の声。
何事かと思い路地裏に入ると、そこでは苦しそうな顔をしてうずくまっている男の子が。
少しの間、手を繋いであげると、男の子の顔色は見る見るうちに治った。
名前を聞かれたけど、早く帰らないといけなかったし、このことが両親の耳に届いてはいけないと思い、すぐにその場を後にしたのだ。
「あの子、元気にしてるかな」
あれ以来、あの男の子には会えていない。
もっとも、一月に一度ほど、お使いを命じられて外出するだけの私では、この広い王都で彼に会うのは不可能だと思うけど。
八年前のことながら、私があの出来事を鮮明に覚えているのには、理由があった。
『うん。君のおかげで、痛みも全然なくなったよ。本当にありがとうね』
私に対して、男の子は笑顔でそう言った。
人からお礼を言われることは初めてだった。家の中ではなにをしても、私にお礼を言う人いない。
──ありがとう。
そのたった一言で、私は救われた気持ちになったのだ。
『無能』の私だって、人の役に立つことが出来る。
生きていても、いいのだと。
今は厳しい家族も、いつか私の働きを感謝してくれる時がくるかもしれない。
きっとその時は、私も家族の一員に──。
「……うん。頑張ろう」
八年前の出来事を思い出すと、途端に気持ちが前向きになる。
シルヴィアだって、今は十六歳という多感な時期だから、私に辛く当たるだけなんだ。
成長して大人になれば、私のことを『お姉ちゃん』と呼んでくれるかもしれない。
そのためには、まずはこの香水を早く彼女に届けなければ。
運良く彼女がお気に入りの香水を売る店が見つかったためか、予定よりも大分家に早く帰られそうだ。
これなら、シルヴィアだって怒らないはず。
そんなことを考えながら歩いていると、屋敷の前まで着いた。私は使用人用の裏口からひっそりと、中に入る。
「……? なんかいつもと違う?」
それは微かな違和感だった。
なんというか、いつもより屋敷内が騒々しい気がする。
使用人たちもオロオロしており、どうしていいか分からないよう。
こういう時、家族の誰かが怒っていることが多いんだけど……。
「行こう」
ちょっと怖かったけど、ここで止まるわけにはいかない。シルヴィアがいるはずの彼女の自室に急いだ。
そして自室の前まで辿り着いた時、中から聞こえてくる怒鳴り声で足を止めてしまうのだった。
「──嫌よ! なんで私が、あの男に嫁がなければならないのよ!」
シルヴィアの声だ。
「どうしたんだろう……?」
嫌な予感は高まっていく。
だからといって、部屋に入らないわけにはいかない。
香水を渡すのが少しでも遅れれば、また彼女の怒りを買うだけだからだ。
嫌な予感を抑えつつ、私は部屋の中に入る。
部屋の中には、シルヴィアと両親がいた。
そして次に目に飛び込んできたのは、床に転がった割れた花瓶。
部屋は荒れ散らかしており、この惨状を眺めるだけでも、なにかあったんだと察することが出来る。
「お、お嬢様……」
恐る恐るシルヴィアたちに話しかける。
すると、彼女は「ふーっ、ふーっ」とまるで獰猛な獣のように息を整えながら、私に顔を向けた。
「なに? あんたも私に喧嘩を売るわけ?」
「い、いえ、滅相もございません。お嬢様に頼まれた香水を買ってきたんですが」
そう言って、香水が入った袋を差し出す。
彼女は今思い出したかのように、
「ああ……そういえば、そうだったわね。もう、どうでもいいわ。どうせ、香水は他にもたくさんあるし。そこらへんに適当に置いてちょうだい」
しっしっと手を払った。
せっかく買ってきたのに……。
そう思わないでもなかったが、彼女にとって昼間の出来事は些細なものだったのだろう。
お気に入りの香水と言っていたが、どこまで本当だったのかも分かったもんじゃない。
シルヴィアは私から興味をなくして、両親の方へ向き直す。
「そんなことより……どうして、私が『選定の儀』に行かなくちゃならないの? お父様は私を生贄とでも思っているってわけ?」
「そ、そうとは言ってないじゃないか。それに、あの男に嫁ぐと決まったわけじゃない」
彼女の勢いに押され、しどろもどろに答えるのは私のお父様。
名をギルベール・ルネヴァンという。
ルネヴァン公爵家の当主で、高い魔力量を誇る。
しかし、最近では徐々に魔法の力も衰えていき、今ではシルヴィアの足元にも及ばないと聞いた。
「そうよ、シルヴィアちゃん。あなただって、久しぶりに王城に行きたいでしょ? ちょっとした観光だと思えばいいんじゃない?」
次に、そう答えるのはイザベル・ルネヴァン。
私のお母様だ。
元々は伯爵家の令嬢だったらしく、魔法の才に優れていることから、お父様と婚姻を結んだらしい。
「ちょっとした観光? お母様、本気で言ってるわけ? いくら王城って言っても、相手はあの男なのよ?」
「そ、それは……」
「私みたいな美人が行ったら、なにをされるか分からないわ。私、絶対に行かないんだからね!」
ヘソを曲げ、視線を背けるシルヴィア。
え、えーっと……なんの話をしているんだろう?
まだ話の内容が掴めない。
それに先ほどから、『あの男』や『彼』とシルヴィアは言っているが、誰のことなんだろう?
頭の中に『?』マークがたくさん浮かび、その場から動けなくなってしまっていた。
「お父様、その話は断ってちょうだい」
「む、無茶を言うな! 相手は王子なんだぞ! 殿下は『ルネヴァン公爵家の令嬢』を求めている。こちらだって心苦しいが、シルヴィアが行くしかないだろう?」
「はあ……なんで、こんなことになるのかしら。いつか順番が巡ってくるかもしれないと思っていたけど……そうだ!」
一転。
シルヴィアはパッと表情を明るくし、手を叩く。
「だったら、この『無能』に行かせればいいじゃない! それがいいわ!」
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