外伝1:再開前の診療所
少し時間を遡る――
麟を車で自宅まで送り届けた後、武はエンジンを切り、車から降りて自宅兼動物病院の扉を開けた。
静かな夜の空気の中、ほのかに灯る診察室の明かりが、今日の出来事を思い返させる。
「ただいま、リリー。子猫に変わりはなかったかい?」
「ええ、御覧なさい。安心しきってぐっすり眠っているわよ」
診察室のベッドでは、包帯だらけの小さな子猫が、痛々しい姿とは裏腹に、どこか幸せそうな寝顔で眠っていた。
その姿を見て、武はそっとその頭を撫でる。
「……良かったな、お前。いい人に拾われて」
温かな手を一瞬だけ留めてから、武は言った。
「さて、朝には目を覚ますだろう。俺たちも休もうか。リリー、面倒見てくれてありがとう。朝になったら、きっとお腹を空かせて目を覚ますから、ミルクを出してあげてくれ」
「分かったわ。明日の朝また来るわね。それじゃあ、またね」
「おやすみ、リリー」
「おやすみなさい」
診察室を出る前、武はもう一度だけ振り返って寝顔を眺め、ぽつりと呟く。
「……ぐっすりおやすみ」
診療所の明かりが落ち、夜が更けていく。
翌朝――
窓から降り注ぐ陽射しが診察室をやさしく照らしていた。
診察室には、朝一番に訪れたリリーが、子猫の様子を見ながらミルクの準備をしていた。
そこへ、武が入ってくる。
「おはよう、リリー。子猫はまだ眠ってる?」
「あら、おはようございます。ええ、もうそろそろ起きる頃じゃないかしら」
光が差し込むにつれ、子猫の顔がほのかに明るくなっていく。
「ん……あれ? ここは……どこ?」
やがて、ゆっくりと目を開けた子猫が、キョロキョロとあたりを見回す。
その様子を見て、リリーがやさしく話しかけた。
「お寝坊さんね。やっと目が覚めたのね。ここは痛いところを治す『病院』っていう場所よ。あなた、たくさん怪我をしていたから、ここでしっかり休んでいたのよ。ゆうべのこと、覚えている?」
子猫は少し思い出すように首をかしげてから答えた。
「うーん……怖くて小さい穴に隠れてたら、人のおねーちゃんが話しかけてくれて……一緒に帰ろうって言ってくれた。でも、そのあと……あれ? わかんないや……」
「そう、無理もないわね」
リリーはやさしく微笑んで自己紹介する。
「私はリリー。ここのお手伝いをしてるの。よろしくね」
その時――
ぐぅぅぅ、と子猫のお腹が鳴る。
リリーは笑みを浮かべながら、ミルクを差し出した。
「ふふ、さっそくお腹が空いたみたいね。さ、これ飲んで」
「えっ……これ、僕が全部飲んでいいの!?」
「どうぞ。あなたのために用意したんだから、遠慮しないで」
子猫は目を輝かせて、勢いよくミルクを飲み始めた。
その様子を見たリリーは、すぐに武を呼びに行った。
「先生、子猫ちゃん、目が覚めましたわよ!」
武が足早に駆けつける。
「おはよう。目が覚めたようだね」
声をかけられた子猫は、少しだけ身をすくませて警戒の表情を浮かべた。
「あー、ごめん。食事中に驚かせちゃったね」
「先生、急に声をかけたらびっくりするじゃないの。気をつけてくださいね」
リリーが小声で注意する。
武は苦笑しながら、子猫に優しく語りかけた。
「うん、でもこれだけ食欲があるなら、もう安心だね。よくがんばったよ」
「……おにーさん、だれ? ゆうべのおねーさんはどこに行ったの?」
「私は君の怪我を治したお医者さんだよ。体、まだ痛いかい?」
「うん……ちょっと痛いけど、昨日よりずっと痛くないよ」
「それは良かった。君のおねーさんはね、自分の家に一度帰っているよ。でも、ちゃんとまた来るから安心して」
「……ほんと?」
「ええ、本当よ。ちゃんと来てくれるわ。だから、もう少しだけ待ちましょうね」
子猫はリリーの言葉に少し安心したようにうなずく。
「うん。……でも、いつ来るの?」
「夕方くらいには来ると思うわ。それまでに少しだけお休みして、元気を取り戻しましょう」
「わかった。ぼく、いい子にしてる。リリーおねーちゃん、おやすみなさい」
そう言って、子猫は満足げにミルクを飲み干し、再び眠りについた。
夕刻――
再び目を覚ました子猫の目の前には、リリーがいた。
「目が覚めたわね。痛い所はないかしら?」
「もう全然痛くないや。ありがとう、リリーおねーちゃん」
「ゆうべのおねーちゃん、もう来るかな?」
「もうすぐ来るわよ。ちゃんと迎えに来てくれるわ」
――その時だった。
入口のドアがガチャリと音を立てて開いた瞬間、子猫の目がぱっと輝いた。
子猫の目に映ったのは、ずっと待ちわびていたあの人の姿だった。