花の下に潜む影
風の匂いが変わった、と麟は思った。
夏祭りが終わり、蝉の声もどこか遠のき、夜風にはほんの少しだけ涼しさが混ざる季節。秋の入り口――そんな時期だった。中町の屋敷の縁側で書き物をしていた麟は、ふと顔を上げ、あの日の光景を思い返していた。
星夜が西町で迷子になり、虎丸に助けられ、屋敷まで送られてきた件。
そして後日お礼のために訪れた西町の花屋敷。
虎丸の姿、そして西町の世話人・竹林恋珀の柔らかな笑顔。
そのどれにも温かさがあったのに…なぜだろう、どうしても胸のどこかに小さな引っかかりが残っていた。
「……西町、なんか変だったんだよね」
麟はぽつりと呟いた。
特に気になったのは、“雌猫の姿をあまり見かけなかった”ことだ。
西町の屋敷は花で満たされていた。橙色の毛並みをしたアキの姿も見た。恋珀から名前も聞いた。
だが――それ以外の猫たちは、影に隠れるように静まり返っていた気がする。
あれほどの花屋敷なら、もっと猫たちがのびのびとしてもいいはずだ。
(……クロに言い寄る雌猫が、西町にいないはずがないのに)
西町に限らず、どの町に行ってもクロに興味を持つ雌猫は必ずいる。それなのに、あの日は一匹たりとも会釈すらしてこなかった。
それが“奇妙な沈黙”のように思えて仕方がなかった。
「なんでだろ……気のせいかな」
麟が首をかしげていると、屋敷の玄関から奈月が顔を出した。
「麟、いる?今日、届け物してくれるってクロが言ってたよー。……って、どうしたの?そんな難しい顔して」
「奈月……ちょうどいいところに。ねえ、聞いてほしいんだけどさ」
麟は筆を置き、縁側に奈月を招いた。
奈月はすっと横に座り、首を傾げる。
「実はね、西町のこと……ちょっと引っかかっててさ」
「西町?星夜くんのお礼に行ったときの?」
「うん。ありがたかったし、恋珀さんも優しかったんだけど……なんか、違った気がするんだよね」
「違ったって……?」
麟は迷いながら、ゆっくり言葉を選んだ。
「猫の気配。特に……雌猫の。アキって子は見たけど、それだけっていうのが、なんか不自然で」
「ふむ……」
奈月は目を細め、真剣に聞いてくれている。
「それに、アキの雰囲気も……うまく言えないけど、何か壁があった感じ。最初は静かだったけど、最後のほうは、こっちを意識してるっていうか……」
「気配……かぁ。りんの勘って、わりと当たるからね」
「やめてよそんな、私ただの一般女子よ」
「一般女子が猫の世話人してるわけないでしょ」
奈月が笑い、麟もつられて笑った。
そして奈月は、軽く息をついてこう言った。
「行ってみる?もう一度」
「……いいの?」
「もちろん。麟が気になってるなら、確かめたほうがいいよ」
その一言で、麟の胸のつかえがすっと軽くなった。
こうして、西町への再訪が決まった。
秋の空は高く澄んでいた。
風に乗って金木犀の香りが漂う午後、麟と奈月は西町へ向かっていた。
「ここに来るの、私初めてなんだよね。前回は麟たちの話だけ聞いてたから」
「そっか……じゃあ、最初はちょっと雰囲気びっくりするかも」
西町は中町と違い、古びた石畳が続く。
軒を連ねる商店、色褪せた暖簾。
風景全体に、どこか時間がゆっくり流れているような空気がある。
「確かに……中町と全然違うね。落ち着いてるけど、ちょっと寂しい感じもする」
「でしょ?星夜が迷子になるのも、まぁわからなくもないよね」
「わかるわかる。あの子……ちょっとぼーっとしてるとこあるし」
ふたりがそんな会話をしていると、街並みが少しずつ明るくなり、花の鉢植えが増えていく。
この辺りから、恋珀さんのエリアだな。
麟は目で周囲を探した。
前回来たときは、もう少し猫の視線を感じた気がする。
しかし今日は、やはり猫の気配が薄い。
「麟、また猫少ないね?」
「やっぱり……奈月もそう思う?」
「うん。普通、猫って日向ぼっこしてる子がもっといるはずなのに」
奈月が言い終えた瞬間
ひらり、と視界の端で何かが動いた。
橙色。しなやかな尻尾。
麟は反射的に立ち止まる。
「あの子……」
「え?」
「アキだよ。あの猫」
奈月が息をのむ。
アキは道端の石畳に座り、こちらをまっすぐ見ていた。
鋭いようで、どこか戸惑ったような瞳。
恋珀の屋敷で見たときよりも、明らかにこちらを「意識」している。
「……知り合い、ってわけじゃないよね?麟」
「ううん。名前と顔を知ってるだけ。でも……」
アキが立ち上がり、ふたりに近づこうと一歩踏み出す。
だがその瞬間
「アキ!」
奥から恋珀が駆け寄ってきた。
声は穏やかなのに、どこか鋭さがあった。
「お客様の前で、そんなにじろじろ見ないの」
アキはぴくりと耳を動かし、少しだけ反抗的に尻尾を揺らしたが、結局は恋珀の足元に戻った。
(……やっぱり、何かある)
麟は胸の奥で確信に変わる感覚を覚えた。
恋珀はふたりに向き直り、柔らかく微笑む。
「こんにちは。わざわざ来てくださったんですね」
その笑顔は変わらず優しい。
けれど、その瞳の奥に、ほんの僅か――言葉にできない「影」が揺れた。
「今日は……何かありましたか?麟さん、奈月さん」
恋珀がそう問いかける声も、どこか探るような響きが混じっていた。
そして麟は察した。
この屋敷には、まだ知らない何かがある。
猫たちが姿を見せなかった理由が、ここには確かにある。
秋風が揺らす花の香りの中で、麟は静かに息を吸った。
「恋珀さん……少し、お話を聞かせてもらってもいいですか?」
麟が恋拍に尋ねる。
西町に潜む、小さな影の正体を知るために。




