西町への訪問 ― 星夜のお礼
昼下がりの風はどこか秋の匂いを帯びていた。
屋敷の縁側に腰を下ろして、麟はぼんやりと庭を眺めていた。木々の間を抜ける風に、鈴の音のようにかすかに鳴る風鈴の響きが心地よい。
あの日、星夜が西町で迷子になった事件から、もう数日が経っていた。
──西町の外れ、商店が軒を連ねる石畳の路地。
あの時、星夜は一人で探検に出かけて道を間違え、泣きそうになっていたところを、大きな虎のような猫・虎丸に助けられたのだ。
夜、屋敷の門の前で虎丸が「こいつ、ひとりで泣いてたぞ」と少し照れくさそうに星夜を引き渡した時の光景が、麟の脳裏に残っていた。
あの立派な体躯、金色に光る瞳。
だけど、その目に宿る温かさと静かな優しさ。麟は深く頭を下げて「本当にありがとうございます」と礼を言ったのだった。
──今日は、そのお礼を改めて伝えに行く日だった。
「準備はできましたか、麟さん」
背後から声をかけたのはクロだった。
黒い毛並みを整え、背筋を伸ばしたその姿は、いつもながらきりりとしている。
その横では、星夜が背中に小さな鞄を背負ってはしゃいでいた。
「ぼくね、虎丸さんにあげるプレゼントも持ってきたんだ!」
「それ、あのリリーさんと作ってたリボンか?」
「うん! クロも見て! すごくきれいでしょ!」
星夜は得意げにリボンを広げて見せた。金色の布に小さな花模様が散りばめられている。
麟は笑って頷いた。「虎丸さん、きっと喜ぶと思うよ」
──屋敷を出て、西町へ向かう道は、思ったよりも静かだった。
中町や東町に比べると、道幅が少し狭く、建物の並びも古い。
錆びついた看板や、壁のひび割れ。どこか懐かしい空気を纏っている。
だがその中にも、軒先に吊るされた花籠や、陶器の鉢に植えられた小花が彩りを添えており、通りを歩くだけで心が和らぐ。
「なんだか、時間がゆっくり流れてるみたいだね」
麟が呟くと、クロは頷きながら言った。
「西町は、昔からそういう土地なんですよ。派手さはないが、落ち着いた人たちが多い。猫たちもどこか慎ましい」
やがて三人は、西町の奥へと足を進めた。
石畳が少しずつ滑らかになり、あたりの景色が花に変わっていく。
道沿いの塀には、見事に咲いたツルバラや藤の花が垂れ下がり、風にそよいでいた。
「すごい……まるでお花のトンネルみたい」
麟が感嘆の声を漏らすと、クロが微笑んだ。
「西町の世話人が花屋を営んでいるんです。竹林 恋珀という方。彼女の屋敷の周りは、いつも花の香りで満ちていますよ」
「へぇ、花屋さんなんだ……」
麟がそう呟いた時、門の向こうに大きな影が現れた。
「おう、来たな」
虎丸だった。
相変わらずの大柄な体つきで、毛並みは陽に照らされて金色に輝いている。
星夜はぱっと顔を明るくした。「虎丸さん!」
勢いよく駆け寄る星夜に、虎丸は低く笑った。
「おう、元気そうだな。もう迷子になんじゃねぇぞ」
「うん! もうならないよ! 今日はお礼に来たんだ!」
星夜が胸を張ると、虎丸は目を細めた。
「礼なんざいいって言ったのに……まあ、来てくれて嬉しいがな」
そこへ、屋敷の奥から花の香りと共に、しなやかな足取りの女性が現れた。
長い黒髪に、淡い紫の浴衣。目元の柔らかさと指先の所作に、どこか品のある落ち着きを感じさせる。
「こちらが……竹林 恋珀さん?」
麟が尋ねると、女性は穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ、そうです。あなたが中町の世話人、颯麒 麟さんですね。虎丸から話は聞いていますよ。遠いところをようこそ」
恋珀の声は澄んでいて、どこか鈴の音のように響く。
麟は自然と背筋を伸ばして頭を下げた。
「こちらこそ、お世話になりました。星夜を助けてくださって……本当に、ありがとうございました」
恋珀は首を横に振った。
「助けたのは私ではありませんよ。虎丸が、あなたの屋敷まできちんと送り届けたんです。あの子は見た目は怖いけれど、本当はとても優しいんです」
虎丸は照れたように鼻を鳴らした。「やめてくれよ、そんな言い方すんな」
麟はふっと笑い、星夜の持っていた小包を受け取ると、虎丸に差し出した。
「星夜が作ったリボンなんです。たいしたものじゃないけど、受け取ってもらえたら」
虎丸は一瞬驚いた顔をしたが、やがて大きな手で包むようにそれを受け取った。
「……こりゃ、すげぇな。綺麗な色だ」
「ぼくね、金色が虎丸さんっぽいって思って!」
「ははっ、そうか。ありがとな」
恋珀はそのやりとりを、柔らかな目で見つめていた。
「あなたたちの屋敷は、あたたかいんですね。まるで家族のよう」
「はい。最初は小さなきっかけだったんですけど、気が付いたらたくさんの猫たちが集まってくれて……」
麟がそう話すと、恋珀は頷いた。
「西町も昔は賑やかだったのですが、最近は少し静かになってしまって。花たちは咲き続けてくれるけれど、声が少ないのは少し寂しいですね」
「そうなんですか……」
麟は辺りを見渡した。
風が吹くたび、花びらが舞い、陽光を受けてきらめいている。
そこにあるのは、穏やかで優しい美しさ。
けれど、どこか「守る人が少なくなった庭」のような寂しさも感じられた。
「……恋珀さん」
麟が静かに言った。「もしよかったら、いつか屋敷にいらしてください。中町の猫たちも、花が大好きなんです」
恋珀は少し目を丸くした後、微笑んだ。
「ふふ……ありがとう。きっと、近いうちに」
その言葉に星夜がはしゃぐ。「やった! また会えるね!」
虎丸も笑い、クロは小さく頷いた。
そのとき、ふと庭の向こうで猫の鳴き声が聞こえた。
窓辺に目を向けると、橙色の毛並みをした雌猫がこちらを見ている。
しなやかな体つきに、どこか人懐っこい瞳。
「あの子は?」と麟が問うと、恋珀は微笑んで言った。
「ああ、アキ。……この屋敷に住んでる猫です。少し気の強いところがあってね」
「気の強い……?」
クロがわずかに眉を上げた。
するとアキが、ガラス越しに「ふん」とでも言いたげに尻尾を揺らした。
「見たところ、クロさんのことが気になるようね」
「えっ……?」
恋珀の穏やかな声に、麟が目を丸くする。
クロはわずかに目を伏せて小さく咳払いをした。
「……誤解を招くようなことは」
「ふふ、そういう反応をするところがまた、猫たちに人気があるのかもしれませんね」
「……お手柔らかにお願いします」
恋珀の笑い声が花の香りの中に溶けていく。
やわらかなその音に、麟の胸の奥が少し温かくなった。
――不思議な町だ。
古くて静かで、どこか寂しいはずなのに、胸に残るのは優しい温もりばかり。
帰り際、恋珀が門の前まで見送りに出てきた。
「今日はありがとう。……星夜くん、また花を見においで」
「うん! またくるね!」
「楽しみにしてるわ」
──帰り道。
石畳を歩きながら、麟はふと呟いた。
「西町って、静かだけど……あたたかいね」
「ええ」クロが応じる。「あの人たちの穏やかさが、町そのものに染みているんでしょう」
その後ろで、星夜がスキップを踏む。
「また行きたいなぁ。今度は花を持って行こうよ!」
「そうだね」麟は笑った。「その時は、恋珀さんに西町の花のこと、もっと教えてもらおう」
──陽が傾く。
西の空が金色に染まり、三人と一匹の影が長く伸びた。
風が花の香りを運び、遠くで猫の鳴き声が響いた。
静かな余韻の中、麟は胸の奥で思った。
西町には、西町だけのやさしさがある。
それは派手でも力強くもないけれど、そっと寄り添ってくれるような温もりだった。




