屋敷の縁側 ― クロと星夜
夜の屋敷は、昼の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
虫の声だけが庭に広がり、月明かりが縁側を淡く照らしている。
クロはそこに腰を下ろし、じっと夜空を仰いでいた。
子猫たちの寝息が屋敷の奥からかすかに届く。
──だが彼の耳は、別の遠い記憶を拾い上げていた。
「……昔の俺なら、あんな風に守ろうなんて考えなかった」
低く呟いた声は、自分自身に向けた独白だった。
北町で名を馳せていた頃の自分。誰も寄せつけず、牙を剥いてばかりいた。
強さだけが自分を支えるものだと信じて疑わなかった。
その傲慢が災いし、西町の地回りに囲まれた夜。
十を超える影に囲まれ、爪も牙も立てて暴れたが、さすがに不利だった。
あの時、月を背にして現れた巨躯の猫──虎丸。
「こいつは俺のケンカだ、手ぇ出すな!」と叫んだ自分を、虎丸は大笑いで一蹴した。
「バカ言うな。困ってる奴を放っておけるかよ」
そして一瞬で群れを蹴散らし、クロの隣に並び立った。
……あの背中の大きさ。
ただ力があるだけじゃない。守るためにその力を使う男。
あの夜を境に、クロはほんの少し、自分の牙の意味を考え始めた。
縁側の板が、そっと軋んだ。
振り返れば、そこに星夜が眠そうな目をこすりながら立っていた。
「クロ……まだ起きてるの?」
「ああ。眠れなかったか?」
「うん……ちょっと夢見が悪くて……」
星夜はとととっと駆け寄り、クロの隣にちょこんと座る。
まだ幼いその横顔を、クロはしばし黙って見つめた。
虎丸が自分にしてくれたように、今度は自分が守らねばならない。
「クロ、今なに考えてたの?」
「……ちょっとな。昔のことだ」
「ふーん。クロも夢、見てたの?」
小さな問いに、クロは喉の奥で小さく笑った。
その笑みには、かつて北町で荒れ狂っていた面影はなかった。
ただ静かに、そして確かに、誰かを守る強さを抱いた猫の顔だった。
夜風が庭を撫で、二匹の間を涼しく通り抜けていった。
朝の光が障子を透かしてやさしく差し込む。
屋敷の庭では雀がちゅんちゅんと鳴き、まだ少し涼しさの残る風が吹き抜けていく。
縁側で昨夜のままうたた寝してしまった星夜は、くしゅっと鼻を鳴らして目をこすった。
隣にはクロが背を伸ばしたまま眠っている。黒い毛並みが朝日に照らされ、艶やかに光っていた。
「……クロ?」
小さな声で呼ぶと、クロの耳がぴくりと動いた。
「ん……もう朝か」
低い声が返り、ゆっくりと目を開ける。まだ少し眠そうにあくびをひとつして、クロは伸びをした。
星夜はしばらく黙ってクロを見ていたが、やがて口を開いた。
「……ねぇクロ。虎丸さんって、すごく大きいけど優しいよね」
クロは片目を細め、ふっと笑う。
「ああ。あいつは、強くて優しい……俺が昔、一番大変だった時に手を差し伸べてくれた猫だ」
「ふーん……」星夜は小首を傾げ、続ける。
「ぼくね、虎丸さんと会ってからちょっと安心したんだ。屋敷から離れちゃって迷子になった時、すごく心細かったけど……虎丸さんが来てくれたから、大丈夫だって思えた」
クロは真剣な眼差しで星夜を見た。
「お前がそう思えたなら、それでいい。……ただ、あんまり無茶はするなよ」
「うん……」
素直にうなずいた星夜は、少し間をおいてからぽつりとつぶやいた。
「クロが昔、虎丸さんに助けられたってことは……クロも、ぼくと同じなんだね」
クロはその言葉に一瞬動きを止めた。
そして苦笑を浮かべ、星夜の頭を軽く撫でる。
「……ああ。俺も、お前と同じように、あいつに救われた」
星夜はにっこりと笑い、目を細める。
「じゃあさ、今度はぼくがクロを守る番だね!」
その無邪気な宣言に、クロは目を丸くし、次の瞬間ふっと笑った。
「……頼もしいことを言うな」
二匹の間に、朝のやわらかな光と心地よい静けさが流れる。
その静けさの中で、クロはふと思った。
――自分が虎丸に救われたように、今度は自分が星夜を導く番なのかもしれない。
縁側に差し込む朝日が、二つの影を寄り添うように伸ばしていった。




