星夜の大冒険
その日の屋敷は、いつもと少し違う静けさに包まれていた。
麟は学校、クロも用事で出かけていて、昼下がりの大広間には子猫たちが思い思いに昼寝している。
しかし、一匹だけ――小さな冒険心に胸をふくらませていた子猫がいた。
「……ぼく、行ってみようかな」
星夜である。
いつかの夜、麟とクロの会話を耳にしたことがあった。
「中町に西町の猫が来ることはあまりないけど、きっと向こうにも世話人がいるんだろうな」
「西町……あそこは少し入り組んだ路地が多いですからね」
その「西町」という響きが、星夜の心に深く刻まれていた。
まだ見ぬ町、まだ会ったことのない猫たち。
未知への好奇心が、子猫の小さな胸を高鳴らせる。
(西町……どんなとこなんだろう。行ってみたいな……)
麟やクロに言ったら、きっと止められるだろう。
だから、星夜は誰にも告げず、こっそりと屋敷を抜け出した。
◇
西町へ向かうには、大通りを外れて裏道へ入り、さらにいくつかの路地を抜ける必要がある。
星夜は記憶を頼りに、ふらふらと足を進めていった。
「へぇ……こっちの町って、なんだか建物がちょっと古いんだな」
石畳の路地に、軒を連ねる商店。
錆びついた看板、ひびの入った壁。
中町や東町の整った雰囲気とは少し違い、どこか影を落とした街並みが広がっていた。
人間の子どもが遊ぶ声も少なく、猫の姿すらまばらだ。
(ちょっと……しずかすぎる、かな?)
胸の奥に、ほんのわずかな不安が芽生える。
それでも星夜は足を止めなかった。
「きっと、この先に誰かいるよね!」
小さな声で自分を励ますように呟き、さらに奥へ奥へと進む。
しかし、やがて星夜は気づく。
――どこをどう歩いたのか、もうわからなくなっていた。
右へ曲がったつもりが、同じような路地。
先ほど通った場所と似ているのに、微妙に違う。
行き止まりに突き当たり、慌てて引き返す。
(……え? ここ、さっきも通った気がする……?)
しっぽが不安に揺れ、耳がぴくぴく動く。
「……もしかして、ぼく……まいご?」
その言葉を口にした瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
麟の膝の上で甘えていたぬくもりも、クロの落ち着いた声も、今はここにはない。
代わりにあるのは、知らない町の重たい空気。
カラン――。
どこかの軒先で風鈴が鳴った。
その音が、やけに寂しく響いた。
◇
どれほど歩いただろうか。
星夜の足は次第に重くなり、しっぽもだらんと垂れ下がる。
「……おうち、帰りたい……麟ねーちゃんに会いたい……」
子猫らしい強がりも消え、心細さが顔に滲む。
けれど、泣いている暇はない。
辺りを警戒しながら、星夜は耳を澄ませる。
すると――かすかな猫の鳴き声が、遠くの路地の奥から聞こえてきた。
「……だれか、いる……?」
星夜は小さな体で勇気を振り絞り、その声を目指して歩き出す。
石畳の道は歪み、両側の家々は古びていて、東町や北町とはまるで雰囲気が違う。人通りは少なく、風が吹き抜けるたびに木の板がギシリと鳴る。
「……ここ、どこだろう」
星夜は不安になって辺りを見渡したが、知っている猫の姿は一匹もない。どちらを向いても似たような道ばかりで、帰り道がわからない。
胸の奥がぎゅっと縮こまり、目の縁に涙がにじんだ。
「……リリー……クロ……麟……」
小さな声で名前を呼んでみるが、返事があるはずもない。涙をこらえながら、星夜は石畳の上をとぼとぼと歩き続けた。
すると突然、背後から地響きのような足音が響いた。
ドン……ドン……。
振り返った瞬間、星夜の全身がすくんだ。
そこに立っていたのは――とてつもなく大きな猫だった。
いや、猫というより虎に近い。筋骨隆々とした四肢、厚い首回りの毛並み、黄金色の瞳がぎらりと光っている。
「ち、ちがう……虎? でも、猫……?」
星夜は思わず後ずさる。小さな体が震えて、尻尾がピンと立ち上がってしまう。
巨大な猫はじっと星夜を見下ろした。
その声は低く響き、地面まで震わせるようだった。
「……お前、こんな場所で何をしている」
その威圧感に、星夜は涙目になりながら必死に答える。
「ぼ、ぼく……まいごになっちゃったの……」
虎のような猫はしばらく黙り込み、星夜の小さな体をじろじろと観察した。そしてゆっくりと名を告げた。
「……俺の名は虎丸。この西町を守る者だ」
虎丸――その名にふさわしい、堂々たる存在感。
星夜は恐怖と安心が入り混じった表情で、震える声を上げた。
「とらまる……さん……」
その瞬間から、西町の新たな物語が始まろうとしていた。




