獣医師の訪問
屋敷の前の通りを、ひとりの男がゆっくりと歩いていた。
真夏の昼下がり、じりじりと焼けつくような陽射しの中、男は涼しげなリネンのシャツを羽織り、肩には黒い診療バッグを提げている。
「……この時間は、さすがに表には誰もいないか」
男の名は武。
北町の世話人であり、動物専門の獣医として町内外からの信頼も厚い人物だ。中町の屋敷には、時折“健康診断”という名目で猫たちの様子を見に立ち寄ることがあった。今日もその一環――ではあったが、彼の手にはもうひとつ、ひんやりと冷えた木箱が提げられていた。
中町の屋敷の門を叩くと、しばらくして扉が開いた。
「あれ? 武さん……?」
そこに現れたのは麟だった。制服ではなく、夏用の薄手の私服に着替えており、少し汗ばんだ額をぬぐっている。
「こんにちは、麟さん。突然お邪魔して悪いね。猫たちの体調はどうかなと思って。あと――」
「それ、何ですか?」
麟の視線は、武が持っていた木箱に向けられていた。
「冷やし葛餅と、自家製の梅ジュース。暑さで食欲の落ちる時期だから、猫たちにも優しいものをと思って。もちろん人間にもね」
「わあ……ありがとうございます! 今みんな屋敷の中で扇チャンネル観てるんです。暑くて出てこないから、ちょうど良かった!」
武は微笑みながら頷いた。
「それはよかった。じゃあ、少しだけ中にお邪魔しても?」
「もちろん! クロも中にいますよ」
屋敷の中は、外の暑さが嘘のように涼しかった。猫たちが好むよう冷房は控えめに設定され、天然の竹風鈴が窓辺で涼やかに揺れている。リビングには数匹の子猫たちが並び、画面に映るVTuber・扇(小鳥遊 奈月)のライブ配信に夢中になっていた。
「扇ちゃん、今日もゲーム配信中なんです」
「なるほど、噂のゲーム企画か……麟さんも参加したんだろう?」
「ええ、まさかVTuber本人と直接対戦することになるとは思いませんでしたけどね」
武は少し驚いたように眉を上げた。
「なかなか珍しい経験だ。どうだった、直接対決は?」
「……楽しかったです。でも、まさか身近な人だったとは思いませんでした」
「ふむ?」
麟はふと視線を落とし、冷えた梅ジュースを口に運んだ。酸味が心地よく舌に広がり、じわりと熱気が引いていく。
「扇――奈月さんって、実は私と同じ学校の生徒だったんですよ。違うクラスですけど」
「それは驚いた。VTuberという世界の裏側は、案外近くにあるものだね」
「ええ……しかも、南町の世話人でもあったんです」
武は目を細め、興味深そうに頷いた。
「町の世話人が増えていくな……いや、“繋がっていく”という方が正しいか。麟さん、中町をまとめるのは大変じゃないか?」
「正直、想像以上ですね。クロはいるし、みんな勝手に仲良くなるんですけど、気が付いたら周りに雌猫がいっぱいで……私、猫たちの恋愛事情に巻き込まれてる気がします」
「ふふ、それも世話人の宿命かもしれないよ。猫たちは、世話人を“家族”以上の存在だと感じてるから」
「その理屈でいくと、私も“ハーレム状態”ってことになりません?」
「……それは、クロ君の問題だろうな」
横を見ると、当の本人――いや、本猫であるクロが廊下の影からこちらをじっと見ていた。クロは軽く尾を振り、無言のままリビングに姿を現す。
「クロ、また雌猫に囲まれてるんでしょ。何かした?」
「な、何もしてませんよ! ただ……気が付いたら……」
「ほらー、まただよ……」
武は控えめに笑いながら、ソファのひじ掛けに腰を下ろした。
「それにしても……最近、中町には来客が多いみたいだね」
「はい……なぜか雌猫ばっかり、しかもクロ目当てで」
「ふむ……クロ君、なにかしたのかい?」
「いえ……それが、ほんとに何もしてないのに、なんか“勝手に”集まってきてて」
「なるほど。実際、クロ君に特別なフェロモンでもあるのかもしれないね。面白い研究になりそうだ」
「ちょっと待って、実験とかやめてくださいよ!? クロがモルモットになる未来が見えるんですけど!」
武は苦笑しながら、良く冷えた梅ジュースを口にする。
「冗談だよ。でも、雌猫の行動には本能的な要素が強く影響する。“安心感をくれる個体”に対する親和性は、特にこの暑さの時期に高まる傾向があるんだ」
「うーん……つまり、クロって“安心できるオス”ってことか」
「かもしれないね。僕の診療でも、クロ君の名前を聞く子は多いよ。『あの人にまた会いたい』ってね」
「……え、それ、どこまで増えるの……?」
麟は思わず額に手を当てる。
「こうして、いろんな町の猫たちが関わり合うのを見ると、町全体が少しずつ変わってきているのを感じるね」
「それは感じます。みんなが“町”って単位じゃなくて、“屋敷”や“仲間”として集まるようになってきた」
「それはたぶん、麟さんやクロ君の影響だよ。そういう中心になる子がいると、自然と流れができていくんだ」
麟はちょっとむずがゆそうに目をそらしながら、冷たい葛餅を一口食べた。
「武さんって、やっぱり大人だな……」
「一応、ね。年の功というやつさ」
そうしてしばらく、屋敷には静かな午後の時間が流れていた。
画面の向こうでは、奈月が再びゲームに挑戦していた。麟はその様子をじっと見つめながら、ふと思った。
(この先、もっといろんな町の世話人たちが繋がっていくのかな……)
クロのまわりで、雌猫たちの“静かな戦争”が始まりつつあるとも知らずに。




