南町への誘い
レースの余韻がまだ身体に残っている中、麟はゲーム機の前に腰を下ろしたまま、少し汗ばんだ指先でコントローラーを置いた。画面の端には、ハリネズミカートレースでの順位が堂々と表示されている。1位「リンリン(麟)」、2位「セイヤ(星夜)」。その下に、3位の「オウギ(扇)」が悔しげに表示されていた。
「ふぅー……まさかこんな接戦になるとはね」
隣で同じくゲームを終えた星夜が、軽く息を吐きながらつぶやいた。
「うん……楽しかった。でも、あの人――扇さん、最後かなり本気だったね」
麟の指先は、すでに次の動きへと向かっていた。チャット欄を開くと、すでに扇からの短いメッセージが届いていた。
扇:1位おめでとうございます!圧巻の走りでした。
扇:先ほどの話ですが……もしよければ、あなたともう一戦。プライベートで、直接。受けてくれますか?
麟はその文面を見つめて数秒間、返事を考えていたが、やがて柔らかな笑みを浮かべて返信を打った。
麟:いいですよ。私も、もう少しあなたと走ってみたいと思っていました。
すぐに扇から返事が来る。
扇:ありがとうございます。では、今からDMでプライベートチャットに招待するけど、いいかな?
麟は少しドキドキしながら、「はい」とだけ返し、扇からのDM招待を承認した。直後、画面が切り替わり、ふたりきりのチャットルームが開いた。
そこには扇のシンプルなアイコンと、少し緊張したような口調のメッセージが続く。
扇:改めて、今日はありがとう。正直、あんなに強いプレイヤーが参加してくるとは思ってなかったよ。
扇:君と……それに2位のセイヤさんも。二人とも凄かった。
麟:ふふ、うちにはセイヤたちとゲームで鍛えられてるから。
麟はそう返しながら、やや慎重に扇の言葉の真意を探っていた。
扇:実は……君に直接会ってレースしたい理由があるんだ。
麟:理由? VTuberの扇さんが、わざわざ会ってまで?
扇:……うん。本当の私のこと、少しだけ知ってもらいたくて。
麟はしばらくその言葉の意味を咀嚼していたが、やがて返す。
麟:……わかった。どこに行けばいいの?
扇からは、少し間を空けて返事が来た。
扇:南町。駅前の時計塔の裏にある、カフェ『ルナ・サーカス』ってお店、知ってるかな?
扇:あそこ、平日なら人も少ないし、プライベートにはぴったりなんだ。
扇:できれば今週末、時間を合わせてくれたら嬉しい。
麟は南町の地図を頭に思い描いた。『ルナ・サーカス』。少し古めかしい建物だが、以前一度だけ、学校の帰りに見かけたことがあった。
麟:行けると思う。じゃあ、土曜日の午後2時。どう?
扇:完璧。ありがとう、麟さん。会えるの、楽しみにしてる。
麟:……私もです。
チャットが閉じた後、麟はしばし画面の前で黙って座っていた。扇――あの余裕ある立ち回り、完璧なコーナリング、そして最後まで油断しなかった真剣な目。それは、ただの配信者ではなく、何か“本気のもの”を持っている人物のそれだった。
「……この目で、ちゃんと確かめてみたいな」
麟はゆっくりと立ち上がると、そっと窓を開けて南町の方角を見た。夕暮れの光が街を赤く染めている。子猫たちはすでにそれぞれの場所で眠りに入り、屋敷は穏やかな静けさに包まれていた。
――それから数日。
麟は、週末の南町行きのために少しずつ準備を進めていた。南町は屋敷から電車で20分ほどの距離だが、扇との初対面はどこか緊張を伴う。
(どんな人なんだろう……VTuberって、あくまでキャラクターの顔であって、その中の人ってやっぱり全然違うのかな)
当日、麟はお気に入りのシャツに軽めのジャケット、リュックには必要最低限の荷物を入れ、やや早めに家を出た。南町駅は、都会ほど騒がしくはないが、週末ということもあって家族連れや学生が多く見られた。
目的のカフェ『ルナ・サーカス』は、駅前の古い通りを少し歩いた先にある。時計塔の裏手、煉瓦作りの小さなカフェ。その入り口には、猫のモチーフのランプと、アンティーク風の看板が下がっている。
「ここ……だよね」
麟は一度だけ深呼吸して、ドアノブに手をかけた。カラン、と軽やかなベルの音が鳴る。
店内は静かで落ち着いた雰囲気。アンティーク調の家具と、心地よいジャズの音楽が流れていた。奥の窓際の席に、誰かが手を振っている。
そこにいたのは――
長めの黒髪を後ろでまとめ、落ち着いた色のカーディガンに、清楚な雰囲気をまとう少女。
「麟さん、こっちです」
まさしく、あの“扇”の声の主だった。
麟はその声に驚きながらも、ゆっくりと歩を進めた。
「……あなたが、扇さん?」
「うん、でも今は『小鳥遊 奈月』って名前で呼んでもらえたら嬉しい」
扇――いや、小鳥遊奈月は、優しく微笑んだ。
丁寧に頭を下げる彼女に、麟はしばし目を見開いて固まっていた。そしてゆっくりと口を開く。
「……あのさ、奈月さんって、どこかで会ったことある?」
奈月はくすっと小さく笑う。
「ふふふ。やっぱり気が付きましたか? 直接お話ししたことはないんですけど、私、麟さんのことはよくお見かけしてたんですよ」
その言葉に、麟は首を傾げながら、記憶をたぐり寄せた。
(えぇー? どこで? なにかのイベント? 町の集会?……いや、違う……うーん、うーん……あっ……!)
「――もしかして、学校……?」
「正解!」
奈月はにっこりと笑い、両手を軽く広げてみせた。
「……あーっ!! 思い出した! 学校でさ、廊下ですれ違う時にいつも目が合って……それでにっこりしてた子!」
「そうですそうです、よく気づきましたね。あの時から実は、麟さんのこと、ちょっと気になってたんです」
「気になってた……?」
「猫たちの間で有名でしたから。“中町にすごく優しいお姉ちゃんがいる”って」
奈月は少し照れたように笑った。
「うちのところ──南町でも話題だったんですよ。“中町の麟さん”って。私も猫たちから話を聞くたびに、どんな子なんだろうってずっと気になってて。でも、学校ではクラスも違うし、話しかけるきっかけもなくて」
「そっか……あの時、なんでいつもにこって笑ってくれるのか、ちょっと不思議だったんだよね。まさか猫経由で私のこと知ってたなんて…え?」
「てことは……まさか奈月さん、世話人なの?」
「ふふ、やっと気づきましたか」
「偶然、VTuberとして企画に参加していたら、ユーザーネームが見覚えあるものだったんですよ。“セイヤ”に“リンリン”? ピンと来ちゃって、思わずお誘いしちゃいました」
「えぇぇ~!、なんか……へんな縁だね。だけど、なんか納得したかも。今日、初めて会った気がしないなってずっと思ってたから」
「うれしいです、そう言ってもらえると」
奈月の声はやわらかく、春の風のようだった。
「でも……奈月さんが“世話人”だったのは意外だったな。南町って言ってたよね?」
「はい、まだ最近なんです。でも、少しずつ慣れてきて……子猫たちとも信頼関係ができてきたところです」
麟は素直に感心したようにうなずいた。
「すごいなぁ……私も最初は大変だったよ。なんかもう、みんなワガママで」
「ですよね! 特に長毛の子たち、こだわり強くて(笑)」
「わかる!! お昼寝用のクッションが気に入らないと文句言うんだよー」
二人は思わず顔を見合わせて笑い合う。まるで前からの友達のように自然な空気がそこに流れた。
「じゃあ……今日、対決ってことで来たけどさ、私たち、もう結構いいコンビになれそうな気がしてきたよ?」
「ふふっ、それも悪くないかもしれませんね。でもまずは、レースで決着をつけましょうか?」
奈月がにやりと笑いながら言った。
「いいよ、負けないからね!」
「望むところです、“リンリン”。ふふふっ」
麟と奈月――南町と中町の世話人ふたりは、偶然のようでいて必然だった再会を果たし、互いを少しずつ知っていくことになる。
麟は、この出会いがただの“ゲームの続き”ではないことを、直感的に悟っていた。




