外伝2:帰宅後の診療所
あの日、傷だらけで運ばれてきた子猫が元気に回復し、世話人である麟に連れられて診療所を去ってから、数日が経った。
午後の光が柔らかく差し込む診療所の受付で、武はカルテにペンを走らせながら、ふと目を上げて看護助手のリリーに声をかけた。
「リリー。そろそろ、あの子猫の術後の様子が気になる頃だ。すまないが、中町の屋敷まで様子を見に行ってくれないか?」
リリーは白くふわふわとした毛を揺らしながら、小首をかしげて微笑んだ。
「いいわよ。実は私もあの子のこと、気になってたの。すごく懐いてたしね」
「そうか、それは助かる。ありがとう。何なら、向こうで一泊くらいしてきてもいいぞ。世話人とも話をしてきてくれるとありがたい」
「そうねぇ……麟ちゃんともゆっくりお話してみたかったところだし、お言葉に甘えようかしら」
「うむ、よろしく頼むよ。それにクロとも、せっかくこっちまで来てくれたのに、結局バタバタしてあまり話せなかったからな」
その名前を出したとたん、どこからともなく飛び込んできた大きな声が診療所の空気を打ち破った。
「――今、クロ様のお話をしていましたねッ!? どこ!? どこにいらっしゃるのですか!?」
バタバタと床を踏み鳴らす足音。次の瞬間、金色の毛並みにピンクのリボンを揺らした猫、鈴音が診療所の奥から鼻息荒く現れた。
「武先生!? リリーねーさん!? クロ様はいずこに!? クロ様ァァ~~!」
あまりの勢いに、カルテを手にしたままの武が面食らい、リリーはこめかみにピクリと静かに怒りを浮かべた。
「……うるさいわよ、鈴音。クロは今ここにはいないの。そんなに興奮しないで」
「ですが! ですがですわ!! 私の耳はごまかせません。確かに“クロ”というお名前を口にされました!」
リリーはため息をつきながら、鈴音に向かって軽く睨んだ。
「だからいないって言ってるでしょ? 呼ぶとめんどくさいのよ、あなた。空気が全部鈴音色になっちゃうんだから」
「まぁ! ひどいですわリリーねーさん!」
武がようやく会話に割り込んだ。
「先日な、中町の世話人が弱った子猫を連れてきてね。そのとき、クロも一緒だったんだ。でも、そのまま診察や手当ての準備でバタバタしていて、話す暇なんて無かったんだよ」
「ええ。私が呼ばれて来た時なんて、もう帰る寸前だったわ。あの人、妙に空気読んでさっさと帰っちゃったのよ」
「それを……それをなぜ私に伝えてくださらなかったのですかっ!」
鈴音が声を震わせて詰め寄ると、リリーは一歩も引かず、平然とした顔で言った。
「だ・か・ら。あなた呼ぶと、こうなるからよ」
「ううぅ……。でも……でもぉ、クロ様にお会いしたかったのにぃ……」
鈴音はその場にぺたんと座り込み、ふくれっ面でぶつぶつ言い始めた。
武はそんな鈴音の姿に苦笑いを浮かべつつ、リリーへと視線を戻す。
「まぁ、そんなわけで、様子を見に行ってきてくれ。あの子が元気にやってるか、そして屋敷の猫たちとも馴染めてるか、それとなく見てきてくれたら助かる」
「任せておいて。鈴音も連れていく?」
「え!? 本当ですの!?」
「冗談よ」
「そんなぁ~~っ!」
「……まぁ、もしあっちでトラブルが起きそうなら、ちゃんと報告しないといけないし特に、クロと鈴音の間になにかあったらね。二次災害はごめんだわ」
「それは同感だな……。では、よろしく頼むよ、リリー」
「はいはい。では、着替えて出かけてくるわね」
ふわりと尾を揺らして診療所の奥へと消えていくリリー。その後ろで、いまだ膨れ顔の鈴音が「わたくしも行きたいですわ!」とわめいていたが、誰も応じる者はいなかった。
リリーが診療所の奥で外出の支度を整えているあいだも、鈴音は落ち着かなかった。
「行きたいですわ……どうして連れて行ってくださらないのですの……」
ソファの上でくるくると回りながら、尾をバシバシと叩いて落ち着かない様子の鈴音に、武が少し呆れたような声をかける。
「おまえさんは、少し気持ちを落ち着けてからにしたほうがいいよ。向こうでもまた騒ぎを起こしたら、クロに嫌われるぞ?」
「そ、それは困りますわ……でもっ、会いたいんですの……クロ様に……!」
リリーが支度を終え、診療所の玄関から出ようとすると、鈴音がしがみついてくる勢いで声を上げた。
「おねーさまっ、お願いですわ! わたくしも一緒に――!」
「ダメ」
「……ぐっ」
一刀両断され、鈴音はその場に座り込んでしまう。金色の尾を丸め、ふるふると震えながら、リリーの背中を見送った。
「……いい子にしてるのよ、鈴音。くれぐれも、何もやらかさないでね」
「……はい……」
玄関のドアが閉まる音とともに、診療所の中に静けさが戻る。しばらくの間、鈴音はその場から動かず、膨れたままの顔で考え込んでいた。
そして――10分後。
「……行きますわ」
ぼそりとつぶやいた鈴音は、素早く立ち上がると、自分の首につけたピンクのリボンをキュッと結び直した。
「おとなしくしてるですって? そんなの無理に決まってますわ。会いたいものは会いたいんですの!」
診療所の裏口から、忍び足で外へ出ると、すぐさま北町を駆け抜けていく。その行き先はただひとつ――中町の大きな屋敷。クロがいる、あの場所である。
「待っていてくださいましね、クロ様! 今、わたくしが会いに行きますわ!!」
鼻息荒く、風を切るように鈴音のシルエットが街並みに消えていった。
まさかこの行動が、のちの屋敷での小さな?騒動と歓迎会の発端となることを、誰もまだ知らない――。




