深夜の忍び足
夜も更け、屋敷の中はしんと静まり返っていた。風の音もなく、猫たちの寝息だけが、ほのかに聞こえる。宴の賑わいの余韻も、今や夢の中へと溶けていた。
しかし、その静寂を破る者がひとり――いや、一匹
そーっと静かにベッドが起き上がる。
「ふふふ、皆さま、すっかりお休みのようですわね…」
「しかも、星夜ちゃんはリリーおねーちゃんにべったり、これはチャンスですわ」
聞こえるか聞こえないかの小声でそう呟いたのは、鈴音だった。普段の気品ある態度とは裏腹に、今の彼女はまるで獲物を狙う夜の狩人のような面持ちをしていた。
鈴音は寝室のドアをそっと開ける。音を立てないように、滑るような動きで廊下へ出る。肉球の柔らかさが、木の床に一切の音を響かせない。
「クロ様、今宵こそはふたりきりのお時間を…」
鼻先がわずかに熱を帯び、尾がふわりと揺れた。すでに目指す先は決まっている。館の西側、誰も近寄らない静かな区画にある――クロの私室だ。
鈴音はそのドアの前に立つと、ひとつ深く息を吸い、心を落ち着ける。何を言おうか、どんな風に入ろうか、何パターンも頭の中でシミュレーションを繰り返す。
「“偶然目が覚めて、水を飲みに来たついででしたの”……ふふ、完璧」
満足げにひとつ頷き、静かにドアノブに手を伸ばす。かちゃり。ほんの僅かに回転しようとした、その時だった。
――ぞわり。
背中を冷たいものが走る。
まるで誰かに見られている。鈴音は本能的に身を強張らせた。背後からの圧力に、毛が逆立つ。ドアノブにかけた手がぴたりと止まる。
「……?」
息を呑む間もなく、鈴音の肩にそっとそれでいてずっしりと重みを感じる手が置かれる。
「――あんた、何してんの?」
静かな、しかし異様なほど冷たい声が耳元で響く。振り返るとそこには、白くふわふわの毛並みと、サファイアのように光る瞳の猫――リリーが、怒りを抑えた顔で立っていた。
「ま、まさかリリーおねー……ちゃ……?」
「“おねーちゃん”じゃないわよ。こんな夜更けに、何をするつもりだったのかしら?」
リリーの声音は落ち着いていたが、そこに宿る静かな怒気は紛れもないものだった。目の奥が鋭く光り、闇の中でもその存在感は際立っていた。
「夜中に廊下をうろつくなんて、妙ねぇ。しかもこの部屋の前で、何をしようとしてたの?」
「ち、違いますのっ! あの、その、水を……お水を取りに行こうとしていて……偶然、ええ、偶然ですの」
「そう、偶然でドアノブに手をかけていたわけ?」
言葉が詰まり、鈴音は小さくうなだれる。尻尾はしおれ、耳は垂れ、猫としては最大級の「バツの悪さ」を体現していた。
「お昼にも言ったでしょう? 落ち着きなさいって。あなたね、クロを困らせるつもり?」
「……そ、そんなつもりは……ただ……クロ様と少しだけ、ふたりで……」
「……はぁ」
リリーはひとつ大きくため息をついた。怒っている、というより、呆れている。子猫にいたずらを叱るような、そんな雰囲気だ。
「クロは今ようやく眠ったところよ。あの子、鈴音の相手で結構疲れてるの。ちょっとは気を遣ってあげなさいな」
「…………はい……」
しゅんとした鈴音は、まるで叱られた子供のようだった。尾を巻いて、視線を下に落とし、小声で言った。
「……リリーねーさん、怒ってますの?」
「怒ってるわよ。けど……仕方ないわね。気持ちは、わからなくもないから」
「リリーねーさん……」
「さ、部屋に戻りましょう。夜はまだ長いし、お茶でも淹れてあげるわ」
「……はい」
しょんぼりと頷く鈴音に、リリーは少しだけ口元をほころばせた。そのまま、ふたりは並んで廊下を歩き出す。
廊下の先、ふとリリーが呟いた。
「……でもね、あの子、私にだけは逆らえないのよ。弟みたいなものだから」
「……あらまぁ」
その言葉に、鈴音は小さく吹き出した。もう、怒られていたさっきの姿はどこへやら。気まずさは少しずつ溶けていく。
屋敷の中は再び静けさを取り戻し、月明かりだけがそのやりとりを見ていた。
こうして、クロを巡る深夜の“突撃”事件は、リリーの素早い介入によって、平穏に収められたのだった。




