第96話
太郎の面談は三日間ある日程の初日だった。
母親の京子が仕事を早引けできるのは、この日しかなかったためだ。
とはいえ太郎の場合、進路決めの面談などあっさりしたものだった。
「一高でいいんだよな?」
担任の五十嵐は、あらためて期末テストの結果を示しながら、あくまで確認といった体で太郎に訊く。
たまにだが、近隣ではなく遠方の私学進学校や、場合によっては東京のほうまで出て高校を受けるといった希望者もいなくはないからだ。
「はい」
太郎は頷き、五十嵐が京子にも「それでかまいませんね?」と了承を求めると、京子も「はい」と首肯した。
その返答に、五十嵐からは懸念も心配も、指導すら示されなかった。
なぜなら内申まで含めた成績で考えても、太郎が受からなければ東部中でほかに誰が一高に受かるのか、といった位置にいるためである。
「わかった。じゃあいままで通り頑張れ」
「はい」
太郎がそれで席を立とうとしたので、京子が慌てて太郎の袖を引っ張った。
「ちょ、ちょっと太郎。あなたそれで終わり?」
「?」
太郎は立ちかけた姿勢のまま、京子を見て不思議そうな顔をする。
「母さん、なんかまだ相談事あるの?」
「え。わたし?」
五十嵐も、太郎ではなく京子のほうに向かって訊く。
「親御さんから、何かありますか?」
「え?」
二人から尋ねられて、京子はあたふたと息子と担任教師の顔を交互に見た。
「ええ? ……いや、あの……ありません、けど」
「では、今日は以上ですね」
「あ、はい」
さすがに京子もそう言われると立ち上がるしかなく、二人で五十嵐に向かって「ありがとうございました」と告げ、教室から出てきた。
そのまますたすたと廊下を行く息子を後ろから追いかけつつ、京子は首を傾げながらぶつぶつと独り言をこぼす。
「わたし、半日休取ってわざわざ来たのよね。なのに、五分かからず終わっちゃうって、なんか納得いかないわぁ……」
なんと息子と来たら、面談中に「はい」を二回言っただけだ。
「それで済んじゃうってさぁ……」
あれやこれやと困り事をいくつも話し合わなければならなかったり、進路について意見がまとまらなくて延々と話し込んだりするよりは良いと思えるものの。
「もうちょっとこう、盛り上がりとかあってもねぇ……」
会社の経理を預かる一員として、もう少しコストパフォーマンスというものが……などと繰り言が止まらない母親を完全に放置して、太郎は廊下の先からこちらへ向かってくる二人を見ていた。
「あれ、外山君。ぼくの次だったんだ?」
外山とその母親らしき女性であった。
母親のほうは決して外山のように大柄な体格ではなく、むしろ女性としてもやや小柄といって良いサイズで、太郎はちょっと失礼かなと思いながらも、思わず二人を交互に見比べてしまった。
丸顔の母親と角張った外山の顔。はっきり言って似ていると思えるところが見当たらない。
「む。てっぺん。もう終わったのか?」
「うん」
「ち。予定よりはええじゃねぇか。おい、行くぞ」
外山は母親にあごをしゃくって促す。
母親は太郎と京子に会釈をすると、息子を追いかけて五十嵐の待つ教室へと入っていった。
(穏やかで優しそうなお母さんだ)
あの乱暴な外山の母親とは到底思えず、太郎はその後ろ姿が扉の向こうへ消えるまで見送る。
「なんか、あんたと同い年なんて見えないねぇ……」
京子が外山の体格を太郎と比べたらしい感想をつぶやいた。
ことりの面談は二日目だった。
「一高受けます」
五十嵐と母親の紗英を前にして、ことりはきっぱり言った。
(言っちゃった……)
言ってから緊張し始める。二人はことりの宣言を受け、ともに無言でまじまじとことりを見た。
やがて五十嵐が成績表に目を落とし、ちょっと頭を掻きながら言う。
「まあ、いいんじゃないか? この成績ならその選択は十分ありだな」
担任教師の言葉を聞いて、ことりはとりあえず否定されなかったことにほっと息を吐くが、いっぽう紗英は目を丸くする。
「……大丈夫、なんでしょうか?」
紗英から見たら、娘が一高に受かる力があるなどと、ことり本人以上になかなか信じがたいことだった。
一回や二回の好成績でほんとうにそんな選択をして良いものかどうか、不安になるのは当然だ。
五十嵐はなんと答えたものか、少し言葉を選ぶふうに口をもごもごさせる。
「……世羅は、この前の総合模試は受けたんだよな?」
「あ、はい。受けました」
期末試験の少し前、外部業者による中三向けの総合模擬試験が実施されている。
県内の高校を目指す受験生の九割以上が参加するもので、志望校の合否を占うのに必須とされている模試だった。
「あれの結果がもう出てくるはずなので、最後はそれも見て決めましょう」
例年ならば三者面談は模試の結果も出揃ってからのタイミングで行われていたのだが、今年はそれが間に合わなかったのだ。
「はい」
紗英が頷く。
「あ、でも」
ことりは思い出す。
「模試のときの志望校は、一高って書いてないんですけど」
期末試験もまだであったし、そもそも一高を目指そうなどと考えたことのない時期に受けた試験である。
「合格判定くらい、点数と偏差値見りゃわかるよ。それにほかの一高志望者もいるんだ、そいつらの結果と比べて見ればいいだろう」
ああそうか、とことりは思う。
自分と違って、五十嵐には生徒全員の試験結果が上がってくるのだ。
見られるデータの量が違う。
「保護者の立場でのご心配はわかりますが」
五十嵐は紗英を見て言った。
「でもまあ……世羅は、一高でたぶん大丈夫と思いますよ」
五十嵐の太鼓判に、紗英はまだ心配そうな表情をほどかなかったが、五十嵐には確信めいたものがあった。
(世羅は、「受けます」と言ったんだよな。「受けたいけど」でも「受けて良いか」でもなく。ただの希望じゃない。自分の意志をはっきりと言葉にできるところまで来ているなら……まあ大丈夫だろう)
受験で子どもたちの学力や試験本番での強さはもちろん重要であるが、教師としての経験上、やはり本人に明確な「行きたい」「受かりたい」という意志のあるほうが、合格率は必ず上がる。
そうした子は、これから入試までの時間でもまだ実力の伸びが期待できるからだ。
「一高ならバスケも強い。世羅も入ってからのやりがいがあるんじゃないか?」
水を向けると、ことりの表情がぱっと明るくなる。
「はい、そう思ってます」
娘の応えに、紗英は軽く驚きを見せた。
まさか、受けるだけではなく受かったあとのことまで考えていたとは思わなかったのだろう。
へぇ、という表情が、わずかにだが、先ほどまでの心配顔から期待に変化した気もする。
まあこの親子なら、娘の希望を無碍にするようなことはないだろう。
一応の保険として、その次のランクの高校を受けるパターンのケースや、滑り止めの私学の受験に関する話もしながら、五十嵐は、何とか話がまとまりそうな気配に安堵した。
終業式の日。
明日からの冬休み、受験生としてはあまり楽しみなどと言ってはいられないが、それでも休みは休みである。
ことりの顔を見るのも年内はこれで最後かな、と思いながら、太郎は帰り道をいつものように二人並んで歩いていた。
ことりの模試の結果は、結局一高の合否判定で言えばBマイナス相当。もともとの志望校なら文句なしのA判定だった。
受験する目安としてはCより上とされていることから、これなら一高を受けることに反対する理由がなくなるレベルであって、またも本人が一番驚く好成績となった。
しかし太郎はもはやまったく驚かなかった。
(ことりさんならこのくらいは取れると思ってたけど、でも予想より成果出るのは早かったかな)
夏休み明けからずっと勉強をともにしてきて、何より太郎が驚かされたのはことりの集中力と素直さだった。
スポーツで培ったものなのか、それとも生来の能力であるのか。
勉強に没頭することにおいてはそれなりに自負のあった太郎を凌ぐほど、ことりの勉強に対する集中力、瞬発力は高かった。
これまでは単に、その集中力を勉強に向けられたことがなかったというだけだったのだろう。
そして学びの素直さも特筆すべきものがあり、始めから勉強に力を入れてきていたなら、ずっとトップクラスの成績が取れたのは間違いない。
ただ教えに対することりの姿勢の素直さに関しては、相手が太郎だったから、ということが実はかなり大きいのであるが、それは太郎にとっては想像の外である。
いずれにせよ、いまのことりが一高合格の十分期待できるところにいるのは、太郎から見たら不思議でもなんでもなかったのだ。
(同じ高校に通えたら、嬉しいな)
そう思ってはいるものの、しかしそれが自分にとってほんとうによいことなのかどうか、太郎は深く考えないようにしていた。
高校に入れば、環境が変わる。
ことりがまた部活を始めたら、こんなふうに一緒に帰ることはもうなくなるだろう。
いやそれどころか、そもそもいまのように仲良くいられるかどうかさえわからないのだ。
もしもことりが高校で新しい出会いを得て、自分ではない誰かと付き合い始めるようなことになったら。
それを同じ学校内で目にしなくてはならないとしたら。
きっと冷静ではいられないはずだが、それ以上深く突き詰めて考えることは恐ろしくて、太郎にはできなかった。
いずれ疎遠になる、なってしまうことを想定するのであれば、そもそも違う高校に行って会う機会さえなくなるほうが、むしろ気持ちは楽にいられたりするのではないか。
その可能性を考え始めては打ち消す、といったことを、太郎は何度も繰り返していた。
ことりと一緒にいられることは嬉しい。
この先も一緒にいたい。
始めからそこまで考えていたわけではないが、ある時期から少なくとも太郎は受験を意識していたし、逆に考えないわけには行かず、悩みながらことりの勉強に付き合って来た。
もしかしたら太郎の行為は、ただ将来の自分の苦しみ、つらさをより大きなものにしてしまうことだったのではないのか。
ならばことりの学力を上げる手伝いなどそこそこにあしらっておいて、これまでの成績に合わせて違う高校に別れたほうが、自分にとってはよいのではないか。
その葛藤をずっと抱えながら、それでも太郎はやっぱりことりとの勉強を選んできた。
それはことりが勉強に真剣に前向きだったからにほかならず、なのに太郎が手抜きして真摯に応えないという態度はあり得なかったからだ。
さらにいえば、時間を重ねるに従ってめきめきと学力を上げてくることりを見ていて、太郎自身も教える手応えを感じてしまったからでもある。
(学校の先生のやりがいって、こういうところなのかもなぁ)
どちらかと言えば家庭教師や塾講師のほうがより近かったのかもしれないが、太郎は教える側の快感というものに嵌まりつつあることにも自覚を持っていた。
「太郎ちゃん、ちょっと寄っていい?」
ことりが太郎を途中の小さな公園に誘った。
寒いのは寒くとも、今日は時間が昼前で早いこともあり、ひなたぼっこ気分が味わえる程度には天気も良かった。
ベンチに並んで腰掛けると、ことりはさっそくカバンから、きれいにラッピングされた包みを取り出す。
緑の袋に赤のリボン。
まさこの時期にふさわしい色合いの包みを、「はい」と太郎に差し出した。当の太郎は、ぽかんとしてその包みを見ている。
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント。受け取ってくれる?」
「……えっ?」
太郎が絶句する。
クリスマスは目の前なのに、そこまで驚くことかしら? と思いつつ、ことりは包みを太郎の手に預けた。
そんなに意外に見られるとは予想していなかったな、とも思う。
受け取った太郎はしばらく無言で包みに目を落としたあと、顔を上げる。
「あの……ごめん。ぼく、何も用意してない」
「えっ」
今度はことりが驚きの声を上げた。そうか、太郎の態度はそっちのせいか。
「あ、いいのいいの! そういうつもりじゃなかったの!」
「いや、でも……」
「あ、あのね! これ、お礼のつもりだったから」
「お礼? なんの?」
太郎の表情は困惑を示している。
「ずっと勉強を見てくれた、そうしてわたしが一高受けられるくらいにしてくれた、そのお礼」
「え! いやだってそれは」
太郎が珍しく不服をはっきり顔に出してきた。
かまわずことりは続ける。
「うん、わかってる。前にもその話したよね。わたしの成績が太郎ちゃんのおかげだってこと、太郎ちゃんが感じていないのは知ってる」
「だったら……」
「だからこれは」
ことりは真っ直ぐに太郎の顔を見る。太郎が黙った。
「わたしの、わたしが感じた感謝の気持ちなの。太郎ちゃんが納得していなくても、わたしが太郎ちゃんにお礼をしたいって思ったからなの」
太郎が何か言いたげに口元を震わせる。
だが言葉は出てこなかった。
「これまでに、わたしがいっぱい太郎ちゃんからもらってきたから、今日はちょっとでも太郎ちゃんにお礼の気持ちを返したかった。それだけよ。だから、太郎ちゃんからは何もなくていいの」
もう返しきれないほど、既にたくさんもらっている。
ことりのそれは正直な気持ちだった。
太郎は再び包みに目を落として黙り込む。
しばしそうしていたあと、「うん」と頷いて、ことりを見た。
「……ありがとう。とっても嬉しいです」
「いいえ、どういたしまして。こちらこそ、いつもありがとう」
ことりもにっこりしながら言う。
「……開けてもいいかな?」
「どうぞどうぞ」
太郎がリボンを解いて包みを開いた。出てきたのは、文庫サイズの革製ブックカバーであった。
「あ……」
太郎の表情が緩む。表紙部分に刻まれたデザインに気づいたのだろう。
「バスケットボールだ」
「うふふ」
見つけたときにちょっと小躍りしてしまったのは内緒だ。
「……スポーツ系の本にしか使えないなんてことは?」
「あるわけないでしょう!」
ことりが吹き出した。
「はじめは本にしようかな、って思ったんだけどね」
何を贈るかは、かなり悩んだのだ。
「でも、わたしが良さそうだなって思う本で、太郎ちゃんが読んでないのなんて、なさそうだったのよね」
さすがに太郎もあらゆる本を網羅して読んでいるはずはないが、かといって絶対に読みそうもないものを選んでも贈り物にならない。
読書家の佳子にも相談してみたが、「いやぁ、あたしより穂村君のほうが読んでる本多いと思うしなぁ」とお薦めは訊けなかった。
しかし、「ブックカバーなんてどうよ?」とアイディアをくれて、種類の豊富な文具店を教えてくれたのも佳子だった。
それでも普段、太郎が教室で本を読んでいるとき、カバーを使っているのは見たことがない。
「……喜んでくれるかしら?」
ことりの疑問に「あったり前でしょ!」と即座に応えたのは真理だった。
「何贈ったって、穂村君がおおとりからもらうものを喜ばないわけないって!」
「そ、そうかな?」
「そうよ!」
真理がきっぱりと断言する。
それは嬉しいが、だからといって「使いかけの消しゴムだって喜ぶと思う」というのはさすがに言い過ぎだろう。
「贈り物とかさ、お土産ってさ、もらうものそれ自体も嬉しいんだけど」
佳子がしみじみと言う。
「相手がね、自分のことを考えながら選んでくれたってのがいいのよね。これが良さそうとか、これなら喜んでもらえるかなとか、そんなふうに時間使ってね。ほんとはそういうのがいちばん嬉しいと思うのよ」
それを聞いて、なるほどとことりは頷く。
「だから、おおとりが考えて選んだものなら、穂村君はなんだって喜ぶに決まってる」
そう二人から背中を押されて、ことりはブックカバーを選んだのだった。
太郎は革の感触を確かめるように、表面を指先で撫でている。
「気に入ってもらえたら嬉しいな」
「うん」
太郎が顔を上げると喜んでいるのがわかって、ことりはほっと胸をなで下ろした。
「ありがとう。……大切に使うね」
太郎は丁寧にブックカバーを包みに戻すと、自分のカバンにしまい込む。それからちょっと躊躇う様子を見せ……やがて、思い切った感じで口を開いた。
「あの、ぼくね。……ことりさんに、訊いてみたいことがあって」
お読みいただきありがとうございます。
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