第95話
二学期の期末試験が終わった。
返ってきた答案を眺め、ことりは今度こそ信じられない思いだった。
「佳子に……勝っちゃった」
佳子もぽかんとしている。
これまで一度たりともテストで勝ったことがない、いやそれどころか比べるのもおこがましいと言えるくらいに差があったのだ。
それが、主要教科の合計点数でわずか三点にすぎなかったが、初めて総合で佳子の結果を上回ったのだった。
しかも佳子は決して調子が悪かったわけではない。
なんだかんだで、太郎との勉強はずっと続いていた。
おかげで確かにテストを受けているときから手応えはあった。
一学期までと違って、まったく解けない、わからない、といった問題はひとつもなかった。
しかし、ここまで点数が伸びるとは。
「いやー……まいったなぁ」
佳子が頭を掻きながら苦笑いする。
「勉強くらいしかおおとりに勝てるものがなかったのになぁ」
ことりははっとなって佳子を見た。
「あ、その……なんか、ごめん」
「ぷ。何ばかなこと言ってんの?」
佳子は笑ってことりの肩を叩く。
「おおとりが謝る話じゃないでしょう? すっごい頑張ったってことなんだし、ちゃんと胸張っててよ」
「あ、うん」
確かに頑張った。それは事実である。
「それにまだ三学期だってあるんだよ? このまま負けっぱなしにする気はないからね!」
いや、それでもたった一回勝ったくらいで、ライバル面するつもりなんて全然ないんだけど、とことりは戸惑う。
「しっかしさぁ」
横でやりとりを見ていた真理が口を挟んだ。
「中間のときはまぐれかと思ったけど」
うん、それは自分もそう思った、とことりはこくこく頷く。
「二回続くと、もうこれはおおとりの実力ってことじゃない」
いやいや、そんな実力だなんてとんでもない、と今度はぶんぶん首を横に振る。
「それであんた、志望校どうするのよ?」
訊かれて、ことりは目をぱちくりした。
「来週から三者面談だよ? 受験する志望校を確定してこいって、五十嵐先生言ってたよね」
「あ……そう、そうね」
「この成績なら、どう考えても佳子と同じイチコーでしょ?」
「ええっ?」
ことりは驚いて声を上げた。
「わたしが? 一高?」
真理の指摘に、なんで? という顔でことりが佳子を見る。
その佳子も深く頷いて同意した。
「もちろんあたしは一高で行くつもり。そのあたしより成績いいんだもの、おおとりも目指すべきじゃない? ていうか、あたしはおおとりと同じ高校行けるんなら、嬉しいけど」
「えええっ?」
ことりは唖然とする。
そうか、この点数だと、そうなってしまうのか。
佳子と同じレベルの高校を目指すなどと、いままで考えたこともなかった。
ことりたちの住む地方では、高校進学と言えば基本は公立であった。
私学はスポーツを強みにするところこそあるが、偏差値の高いところはなく、多くの受験生にとっては滑り止めの扱いである。
県庁所在地まで長時間かけて通うというならまた別だが、近隣の通学圏にあるのは公立の普通科高校が三つ、ほかに工業高校と農業高校がひとつずつだ。
その中で、県下有数の進学校に名を連ねるのが、第一高等学校、通称一高であった。
東部中に限らず、市内の中学の成績上位層は、みなそこを第一志望にして受験するのである。
佳子の志望校が一高になるのは当然としても、自分がそんなところを受けて良いのだろうか?
「いやいや、佳子だけじゃないでしょ」
真理がにやりとする。
「穂村君だって、当然一高だと思うよ? おおとり、別々の高校へ行かなくてすむじゃない」
あっ! とことりは声を上げそうになった。
(太郎ちゃんと……同じ、高校……?)
それより何より、あと何ヶ月かで中学を卒業したら、太郎とは違う学校になるかもしれない、ということ自体、まるで想像していなかったと、ことりは初めて気づいて言葉を失った。
(太郎ちゃんと……離ればなれ? いやだ、そんなの……)
それを回避するには、太郎と同じ高校に行かねばならない。
太郎は間違いなく一高に受かるだろう。
それはつまり、ことりも一高に合格しなくてはならないということだった。
(え……わたしが……一高目指す、の?)
これまでまったく考えたことはなかった。
まさか指折りの進学校に、自分が受かるなどとは思えなかったからだ。
しかしいま、自分の成績は一高を目指せるところに達している?
(と、とんでもない!)
ことりは怖じ気づいた。
たかだか定期テスト二回ぶんの好成績をあげたくらいで、自分が太郎や佳子と同じレベルの学力を身に付けたなどとは、到底うぬぼれることはできない。
しかし、だからといって以前の成績に見合った学校を受けるとしたら、それはすなわち太郎と別の高校に通うことを意味した。
(ど……どうしよう……?)
急に一人の世界に入り込んだことりを見て、佳子と真理は「またか」と肩をすくめた。
学校からの帰り道、ことりは途中にある公園のベンチに座り、太郎に今回のテストの答案を見せていた。
さすがに12月に入ると公園のベンチは長話には寒いが、陽が落ちる前なら何とか耐えられる。
答案を手にする太郎の目が、わずかにだが見開かれている。
「……すごいね、ことりさん。ここまで伸びるなんて」
「うん、自分でも信じられない」
太郎に褒められ、ことりはちょっと赤くなって頷く。
「ありがとう。全部、太郎ちゃんのおかげだよ」
「え? なに言ってるの」
礼を言うことりに、太郎はとんでもないと首を振る。
「ぼくなんて。これはことりさんが頑張ったからでしょ。ぼくじゃないよ」
「ううん? わたしだけじゃどんなに頑張ってもこんな点取れないよ。太郎ちゃんに教えてもらったからだもの。だから太郎ちゃんのおかげで間違いないよ?」
「ええ~……?」
太郎は納得していない顔だ。だが聞いてもらいたい相談事はそこではないのだ。
「それでね、来週面談あるじゃない?」
保護者を交えて進路を決める、三者面談である。
これはもちろん太郎も同じであった。
「うん」
「志望校、ちょっと悩んでて……」
「あ……」
どうやら察してくれたらしい。
ことりの一学期までの成績なら、一高の次のランクの普通科高校が妥当なところだ。
いや、ちょっと気を抜いたら、そこももしかしたら危ういかもしれなかった。
それが、二学期のテスト結果だけを見れば、一高当確圏にいきなり上がってしまったのだ。
いままでどおりの成績に合わせて受験校を決めるべきなのか。
それとも今回の結果によって、志望ランクを上げても良いものか。
太郎はすぐには返事をしない。
しばらく黙って考えたあとで、おもむろに口を開いた。
「ことりさんは……どうしたい?」
「え? わたし?」
そう、と太郎が頷く。
「受かるとか、受からないとかという前に、ことりさんはどの高校に行きたい?」
「わたし……わたしは……」
ことりは一瞬躊躇したが、意を決して答える。
「わたし、一高に行きたい!」
それはことりにとって、太郎と同じ高校に行きたい、と同義の答えであったが、それにしても答えたことり本人が、あまりにはっきりと返答できたことに驚いていた。
そして、言葉にしたことによって、自分がどれだけ一高に、太郎と同じ高校に行きたいと思っていたのか自覚したのだった。
自分の正直な思いに気づいてちょっとわたわたし始めたことりに、太郎は落ち着いた声で続ける。
「そうすると、具体的に問題になるのが内申点だよね。そっちはどうなの?」
ことりたちの住む地域の公立高校入試は、中学卒業時の内申点とテストの結果が等価に評価される仕組みである。
つまり、仮にテストで満点が取れたとしても、内申が悪いと落ちることもあるのだ。
一高のボーダーラインとして知られているのは、平均で八割であった。
市内の中学はみな五段階評価なので、平均4.0以上ないと、合格は怪しくなる。
「あ、内申は、えっと、一学期は……確か3.8だったような?」
ことりは記憶を探って答えた。
中学入学以来、5しか付いたことのないのは自慢ではないが体育だけだ。
「そうか。じゃあ少なくとも二学期はたぶん大丈夫かな」
テストの成績アップ分があるから、二学期で平均4.0を下回ることはおそらくないだろう、と太郎は考えたようだった。
「となると、あとは入試自体の出来の問題だよね」
「そ……うね。そうなるのかしらね?」
自分のこととなると、今回のテスト結果でどれほど内申が上がるかというのは想像しづらい。
太郎の考えた見通しはことりにも理解できたが、ボーダーラインを超えそうな実感は持ちにくかった。
「じゃあ話は簡単だ。テスト勉強を頑張ったらいいし、受かるためにはもう頑張るしかない」
「ええ~?」
ことりは情けない声を上げた。そう割り切れるなら苦労はない。
「でも……自信ないよ、わたし……」
まだたった二回、定期テストでこれまでになく良い点が取れただけだ。
これは自分自身の力ではなく、単なるまぐれという思いを拭いきれなかった。
うつむくことりに、太郎が静かに言った。
「……不思議なこと言うんだね、ことりさんって」
「え?」
思わずことりが太郎を見ると、太郎は真顔で見返してきた。
「不思議って、どういう……?」
ことりには、逆に太郎の言っていることがわからない。
「部活やってたときってさ、なんで練習するかって言ったら、究極には試合のためだよね?」
「部活の練習? いやまあ、そう……言えないことはないけれど」
なんで部活? いまは勉強の話ではないのか。
「練習でできないことは試合本番でもやっぱりできない。だから、試合でちゃんとできるって自信がつくまで練習する。そうでしょ?」
「まあ……そうよね」
まれには試合で練習以上のパフォーマンスを叩き出す選手もいることはいるが、ことりは自分がそういうタイプだとは思っていなかった。
むしろ試合の緊張感で、本領を発揮できないことのほうが多いと考えていた。
だから、繰り返し練習して練習して、これなら大丈夫と思えるまで練習を積んで試合の場に立てるよう、頑張ってきた。
少なくともその自負はある。
「試合でちゃんと練習の成果が出ているのに、それでも自信がないって、バスケやっててそんなふうに思ったことあった?」
「えっ?」
ことりは太郎を見たまま目を瞬かせた。まだ太郎の言葉の意図が呑み込めない。
「それは……自信がないって思う状態で、試合のコートに立ったことはないけど……」
「そうだよね。ことりさんならそういうふうに練習してきたと思うんだ」
だからなんだというのか。ことりは黙ったまま太郎を見る。
「……勉強だって、同じじゃないのかな」
「同じ? バスケと?」
うん、と太郎が頷いた。
「日頃の勉強は、知識を増やし、解き方を覚える練習でしょ。そしてテストが試合だと考えたら、勉強も部活も、まったく一緒の関係じゃない?」
「ええ? そんな一緒だなんてまさか……いや、うん。あれ? そう言われると」
はじめは太郎がなんておかしなことを言い出すのか、と否定しようとしたことりだが、よくよく考えてみると、太郎の意見を否定する根拠は何もない気がした。
「うーん。なんだろう。太郎ちゃんの言うとおりって気がしてきたんだけど。なんかわたし、騙されてる?」
首をひねって真剣に悩み出したことりに、太郎が思わずといった体で吹き出す。
「騙してない、ない」
「えー?」
「ね、ことりさん」
太郎は真面目な顔に戻ってことりを見る。
「ぼくは、ことりさんがどれだけ真剣に勉強してきたか知ってる。夏休み明けから、ずっと頑張ってきたのを見てる。ぼくはことりさんの練習の質と量をわかってる」
それはそうだろう。
太郎は、ずっとことりの勉強に付き合ってくれたのだから。
太郎が一緒にいてくれたからこそ、ことりは勉強を続けることができたのだ。
「だからね、練習の成果が試合本番でちゃんと出たのは、何もおかしなことじゃないよ」
「太郎ちゃん……」
「なのにまだ自信がないなんて言うから、不思議だなって思ったんだ」
ことりは黙って、太郎の言葉を噛みしめた。
そうだ。
いまことりが自信を持てないということは、太郎と過ごした、太郎に見てもらった勉強時間を無意味だったと否定することにほかならない。
そんなことは断じてない。
「わたし……自信持っていい、のか、な。ちゃんと力が付いたって……思っていいのかな」
おずおずと問うことりに、太郎が力強く頷いた。
「ありがと。太郎ちゃん」
笑顔でことりが礼を言う。
すると、不意に太郎は顔を背け、そればかりかさっとベンチから立ち上がった。どうしたのかと、座ったままのことりが太郎を見上げる。
太郎は先刻までの落ち着いた声音ではなく、どこか上ずった声で言った。
「……こ、ことりさん、高校行ってもバスケはやるんでしょ?」
「え、バスケ? ……うん、まあ、やると思うけど?」
これまで考えたことはなかったが、もし進学先にバスケットボール部があるなら、きっと入部するに違いないとことりは思った。
「一高のバスケ部って、確か男女ともに結構強いんじゃなかったっけ?」
「あー……うん。そ、そうだったね!」
あくまで公立としては、という但し書きがつくものの、県内でも強いと言われる学校ではあったはずだ。
「もし、ことりさんがバスケで試合に出るなら……ぼく、また応援に行きたいな」
顔を背けたままなので、太郎がどんな表情をしているのかはわからない。
しかし、バスケの応援に来てくれる……それはきっと、同じ学校に行こうよ、という太郎なりのエールなのだろう。
「うん……うん。そうね。わたしもぜひ来て欲しいな」
ことりは何度も頷いた。
太郎の応援に応えたい。
そして、今度こそバスケで優勝するところを見てもらいたい。
そう思った。
そして宣言したのだった。
「決めたわ。わたし、一高受けることにする」
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