第93話
弟の態度が変わっていっていることはなんとなく久保田も察していたが、あえて目を背けていた面はあったという。
そうして久保田は藤木からストーカーの相談を受け、ようやく弟がまずい行動へ走っていることに本格的に気づいた。
しかし自分自身で何とか解決しようと悩んでいるうちに、映画の撮影が始まってしまい、崎田が藤木に接近することを止められなくなった。
そしてついに、昨夜の騒動が起きてしまった。
新井は念のため、藤木から聞き取った崎田のこれまでのストーカー行為、ならびに土曜夜の顛末で受けた暴力について、ひとつずつ崎田に確認を行っていった。
崎田にしてみれば、たとえば自分の送ったメッセージに対して、ストーキングと藤木が解釈して受け取っていたということ自体、初めて知ったようだったが、少なくとも事実に対してはひとつも否定することなく、全て自分がやったことであると認めた。
隣りのマネージャーははじめ青くなり、次におろおろし始め、最後は観念したようにがっくりと首を折った。
その様子を見ているうちに、わたしが全部いけなかったんです、と泣き出す久保田を、新井は同情しつつも醒めた思いで眺めていた。
しかし崎田はそんな姉を前にして、あまり感情の揺れがないように見える。
崎田が落ち着いていられる理由が思いつかず、ふと、崎田本人はいま自分のやったことをどう思っているのか、と新井が尋ねると、崎田は少し考えてから、まず頭を下げた。
「謝って済むことだとは思っていませんが……それでもぼくは、みゆ……藤木さんに、こころから謝罪したいです。大変なことをしでかしてしまって、申し訳ありませんでした」
崎田の物言いは淡々としていて、ふてくされているようにも、本心を偽って謝っているようにも感じられない。
それは藤木から話を聞いたときの崎田の粘着質な印象とはかけ離れていて、新井は大きな違和感を持った。
その点を指摘すると、崎田はわずかに苦く笑ったようだった。
「その……目が覚めた、といいますか」
「どういうこと?」
隣りの久保田が思わず口を挟む。
「えっと。うまく伝わるかわかりませんけど、その、み……藤木さんに蹴られたとき、蹴られた痛みよりも、藤木さんがぼくを蹴ったという事実に、ものすごくショックを受けたんです。
意識を取り戻してからも、ぼくは……ずっと現実のことだと受け入れられませんでした。ぼくの憧れたアイドルの藤木さんが、まさかそんなことのできる子だなんて、認めたくなかったんだ……と思います」
新井自身も、日頃から藤木の外見に似合わぬ気の強さは承知していたものの、実際に反撃に出たと聞いたときは驚きを隠せなかった。
自分が思っていたよりも、藤木はずっと激しい気性を秘めているのかもしれないと、いまさらながらマネジメントの姿勢を修正すべきかと考えたほどだ。
「それで、ひたすら自分の世界に閉じ籠もろうとしてたんですが……ふと気づいたら、そういう自分を俯瞰している感覚があって」
「ほぅ?」
思わず新井が声を出す。
「閉じ籠もろうとしているはずが、その閉じ籠もった状態からひょいと抜け出てしまって、その閉じ籠もっている自分を外側から眺めている……そういう感覚です」
崎田のマネージャーは、こいつはいったい何を言い出すのか、という顔だ。
隣りの久保田も、理解しがたいという表情をしている。
新井は頭に浮かんだ、ちょうど合いそうな表現を口にしてみた。
「それはあれか、幽体離脱的な感じなのかな」
「あ……そ、そうですね。言われてみるとそんな感じでした」
崎田はこくこくと頷いた。
「もちろん、幽体離脱なんて本気で信じてるわけじゃないです。これまでそんな目に遭ったこと、一度もないですし。起きているつもりで実は夢を見ていたとか、まあその程度のオチだとは思うんですけど」
崎田はちょっと自嘲気味にうつむくが、すぐに「でも」とまた顔を上げた。
「その感覚は、ちゃんと覚えているんです。うずくまって、ただ殻に籠もろうとする自分の姿を、離れた場所から眺めている感覚です。で……その……自分のことながら、なんかもう……すごい哀れだなって……」
哀れと来たか。
新井は、崎田が自己憐憫に陥ろうとしているのか? と訝しむ。
「そのとき初めて、ぼくは自分のこれまでの考えや行動を、第三者的な目で見られた……のだと思います。それで、自分が実は藤木さんのことを、ちっとも見てなんかいなかったんだ、と気づきました」
崎田の述懐は途切れず続き、誰も口を挟まなかった。新井も、黙って聞いている。
「ぼくが見ていたのは、藤木さんではなく、自分の思い通りに振る舞ってくれる、藤木さんの姿をした幻だったんだと。自分の理想のアイドルが、ただ自分だけを見てくれているという、都合の良い幻想にとらわれていたんだと、やっとわかったんです。……そんなこと、起こりっこないのに」
崎田が嗚咽を漏らす。
頬に涙が伝っていた。
「だ、だから……ぼくは、自分のイメージと違うことを言ったりしたりする藤木さんを、許せなくなっていた。ぼくは特別で……それを正すことが自分の使命だと……お、思い込んでいました」
崎田は頭を垂れる。
声がくぐもって聞き取りにくくはなったが、何を言っているかはわかった。
「ぼくは……ぼくは、藤木さんにとんでもないことをしてしまった……。ほんとうに、申し訳ないです。すみませんでした」
涙声で崎田は続けた。
「どのような処分でも受けます。警察に……通報されるなら、それでもかまいません。ぼくは……それだけのことを藤木さんにしました」
「警察」の一言に、隣りのマネージャーはぎょっとした素振りで、「冗談ではない」といいたげな様子だった。
おそらくこの男の頭には、崎田が警察に逮捕され、それがニュースになって全国に知られることにより事務所が受けるダメージ、そして何よりも崎田が映画の撮影からドロップアウトすることで発生する、違約金などの金銭的な負担がどうなるか、といった心配ごとが次々と思い浮かんでいることだろう。
そして、担当のタレントを管理しきれなかったことで彼個人が受けることになる、叱責や追求にも既に考えが及んでいるに違いない。
マネージャーはこちらを探るようにちらちらと見つつ、崎田が何をどこまでしゃべるのかしきりに気にしている。
しかし、崎田に対してどういう処置を望むか、という点でイニシアチブを握っているのはあくまでこちらであり、こちらが口を開く前には何も要求できる立場にない、ということはどうやら理解できていると見えて、ぎりぎりで崎田の言葉を遮ることだけは思いとどまったようだった。
「……よくわかった」
新井はそう言って、崎田を見た。崎田も、涙に濡れたまま、その顔を上げる。
「では、こちらの要望を伝える」
ごくり、と崎田ではなく、マネージャーのほうが喉を鳴らした。
「藤木の強い希望もあって、私たちはことを表沙汰にせず、撮影を続行する選択をしました」
新井は、太郎とことりを交互に見ながらそう伝えた。それを聞いた二人には、真っ先に安堵の表情が見て取れ、とくにことりのほうにはかなりはっきりと表れていたので、その反応は新井にとって意外なものであった。
(ほう。藤木の仕事の心配をしてくれていたのか? それともエキストラとして、参加した映画の完成が気になっていたのかな)
ただ、手放しで安心できたというわけでもないようだ。
「……その。それは、崎田さんも撮影に参加し続ける、ということでしょうか?」
太郎が新井に尋ねる。
確かにそこは気になるだろう。新井は頷いた。
「ええ、そうです」
「それで……良かったんですか?」
重ねて疑問を口にする太郎に、新井もちょっと苦笑してしまう。
「良かったか、と言われると……良くは、ないのかもしれません」
あなたがたから見れば、大人の都合を振り回した身勝手なやり口だと思われるかもしれませんね、と続けると、太郎もことりも困った顔になる。
いや間違いなくそう思ったはずだが、新井に向かって「そうですね」とは言いづらいだろう。
「でも、もちろんお咎め無しということではないですよ。崎田にはペナルティの注文を付けました」
「ペナルティ、ですか」
ええ、と新井は頷く。
新井が崎田とそのマネージャーに要求した項目は三つだ。
ひとつは、今回の件を崎田サイドからは公表せず、リークもさせないこと。
もうひとつは、映画完成以降にはいかなる手段であろうとも、決して藤木に接触しようとしないこと。
最後は、映画完成以降、崎田は速やかに芸能界から引退し、その後も決して関わらないこと。
とくに三つめの項目を聞いて、太郎とことりが驚きに目を瞠る。
「それ……いいんですか?」
太郎が疑問を口にした。
「まあ、受け入れないというのであれば、今回のことを警察沙汰にするつもりでしたから」
新井はさらりと答える。警察に逮捕されて映画までダメにするか、俳優としての将来をあきらめるか。どちらにするか選べ、と迫ったわけだった。
「崎田は承知しましたよ。マネージャーのほうは渋りましたが、それでも警察との天秤には勝てなかったようです。最後は首を縦に振りました」
「で、でも、崎田さんがちゃんと約束守るかどうかは……わからないのでは?」
初めてことりが質問を発した。
「ああ、それはもちろん、念書を……約束事を文書にしたものですがね、そういうものを作って取り交わしてます。崎田とマネージャーのサインも書かせました。まあ、法的に拘束力があるかと言えばおそらくないのでしょうが」
こちらには、あなたからもらった崎田の暴行の証拠がありますからね、と新井は太郎に向かってにやりと笑う。
通話の録音と、写真の存在は大きい。
カッターナイフも、警察の介入後は重要な証拠になる。
これらがなかったら、とくにマネージャーにはごねられた、あるいはのちに約束を反故にされたかもしれないが、こちらが証拠を保持している限りは、下手なマネはできないだろう。
「映画の完成後には、と言われましたよね?」
お、そこに気づくのか、と新井は太郎の指摘に感心する。
「撮影中には……崎田さんの姿を見ることになります。それ、藤木さんは大丈夫なんですか?」
太郎の心配はもっともだ。
つい数日前に暴力を振るってきた相手が近くにいて、冷静に演技ができるかどうかは藤木も不安があるようだった。
それでも「続けたい。続けます」と本人が言い切ったのだ。そこはもう信じるしかない。
「いちおう、宮本監督にだけは内密に、トラブルがあったことを伝えて協力してもらうようにしました」
「え? まさか、崎田さんがストーカーだったのを教えたってことですか?」
いやいや、と新井は太郎に向かって手を振る。
「さすがにそこまで教えたら、宮本監督が崎田を使おうとしなくなるでしょうから。トラブルの内容までは教えていませんよ。ただ、二人の絡みのシーンを止めてもらっただけです」
残った撮影予定の中に2カ所ほど、二人が直接会話するシーンがまだあった。
それを取りやめ、崎田と藤木が同時には関わらないシーンに差し替えてもらう約束を取り付けたのだった。
「ええ? ちゃんと事情がわからないのに、そんなお願いきいてくれるんですか?」
トラブルの詳細は伝えていないのに変更を頼んだことを知り、ことりがびっくりしている。
「ははは、そこはですねぇ」
ここだけの話ですよ、と新井は人差し指を立てて唇に当てる。
「……宮本はね、私の高校の一年後輩なんですよ」
二人はえーっ? と仲良く驚きの声を上げた。
「それも、上下関係の厳しい野球部にいたのでね。いまだに先輩である私の言うことには、逆らえないんです」
そう言って、新井は片目を瞑って見せた。
もちろん、その程度の違いであれば映画の内容に影響が出ないことを承知した上での願いだ。
後輩とはいえ、さすがに映画のストーリーが変わるほどの変更であったら、応じてはもらえなかっただろう。
しかし、二人の驚きの理由はそこではなかった。
「宮本監督って……新井さんより年下なんだ……?」
「見えなーい」
いや確かに、宮本が老け顔のせいもあって、新井のほうがかなり若く見える。
思わず新井もぶふぉっと吹き出してしまった。
「あ、失礼。いやいや、まあそれは……」
宮本の嘆きが聞こえるようだった。
「まあそういうふうにとりあえずは収めたので」
新井は応接室からは見えないが、木造校舎があるはずの方向へ顔を向けた。
「ロケ終了まであと三日ほど、まだ藤木はあそこで頑張っていますよ」
太郎とことりも、なんとなく同じほうを向いて頷く。
「私からお伝えするのはこんなところですね。……なにか、そちらで気になることがあれば言ってください」
新井が質問を促すと、ことりは首を振ったが、太郎がちょっと遠慮がちに口を開いた。
「あの……久保田さんは、どうなりますか?」
「あ……」
ことりも、そういえばそうだった、というふうな顔になる。
「久保田は……」
新井も、どこまで明かすか迷ったが、結局は隠さず伝えることにした。
「守るべきタレントの情報を私的にリークしたうえ、その身を危険にさらしたわけなので。まず事務所からは何らかの懲戒処分……まあ会社の罰ですね……を受けます。その後はグループのサブマネージャー職を外されることは間違いないですが、どうなるかは未定です。ただ……」
太郎は、次に新井が何を言うのかわかっている、という表情だった。
「まず、退職をすることになるでしょうね」
やっぱり、という体で太郎がため息を吐く。
「懲戒解雇まで処分が重くなるかどうかは微妙です。あまり重いことを決めてしまうと、理由について周囲から興味を持たれてしまう可能性もありますし。また自分がしでかしたこととはいえ、事務所に対して個人的な恨みも持たれてしまうかもしれない。
おそらくは解雇まで至らない処分をして、そのうえで本人自ら辞めていくことを選んでもらう、という形を取るでしょう」
新井の告げた処置に、太郎とことりは黙り込んだ。
「既に久保田は東京へ戻しました。いまは別のサブマネージャーに来てもらっています。私も今日中には東京へ戻る予定です。このあとは、ロケが終わるまで藤木にしっかりと仕事をしてもらうだけです」
そう言って新井はにっこり笑いかけたが、久保田の行く末を聞かされた二人は、暗い表情で黙ったままだ。
「それで、ですね」
新井は、最後に訊かねばならないと思っていたことを太郎に尋ねる。
「私にも、ひとつ教えて欲しいことがあるんです」
「……なんですか?」
「あなた、もしかして……崎田がストーカーだということに、あらかじめ気づいていたのではないですか?」
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