第86話
撮影に使われている木造校舎とは別の棟の中。
下駄箱の並んだ土間の隅にちょこんと腰掛けて、ことりは一人待っていた。
ついさっきまで、太郎が一緒にいたのだが、急に血相を変えて立ち上がると、「ごめん、ここで待ってて」とことりに言い置いて、走って行ってしまったのである。
言われたとおりにしていたものの、さすがにちょっと心細くなってきたのだが、勝手に動くのも太郎を困らせるかもしれないと我慢していたところだった。
発端は、エキストラの解散が告げられてすぐのこと。
太郎が校門を出るかなり手前で立ち止まり、隣りのことりに「ちょっとお願いがあるんだけど」と言い出したのだ。
何かと尋ねることりに、太郎は財布から千円札を出すと、「これで買えるだけのおにぎりを買ってきてくれない?」と言った。
「それはいいけど……どういうこと? 太郎ちゃん、帰らないの?」
訊き返すことりに、太郎は首肯した。
「ぼく、まだここから離れられないんだ。撮影が終わるまでは、近くにいないといけない」
「ええっ?」
太郎のちょっと思い詰めた様子は、只事ではなさそうだ。
「終わるまでって……あと何時間かかるかわからないよ?」
「うん。それでも、帰れない。だからすぐお腹に入れられるものがほしい。もうちょっと経ったら、何もしなくてもセーフモードになりかねなくて。でもいまからうちに帰って食べている時間はないし、それに帰ったらまた出てくるのに苦労することになっちゃう。……お願いできるかな?」
ことりは黙って太郎を見つめ、そして頷いた。
「わかった。近くのコンビニで買ってくるから、待ってて」
そうして最寄りの店で買い物を済ませると、急ぎ駆け戻ってきたのだった。
太郎は木造校舎のすぐ近くで待っていた。
ありがとうと言ってことりの持つレジ袋を受け取ろうとした太郎に、ことりは首を振って言った。
「わたしのぶんも買ってきちゃった」
「え?」
驚く太郎に、ことりは笑顔で訊いた。
「どこで食べる?」
そうして学校関係者にも、撮影スタッフにも見つからずに、なおかつあまり離れないで済む建物の中として、並んだ二棟の木造校舎のうち、撮影に使われていないほうに二人で入り込んだのだった。
使われていないだけあって、こちらの校舎では中に明りが点いていない。
もし電源が生きていても、勝手に点けるわけにもいかない。
窓から入ってくる街灯の光を頼りに、ずっしり重いレジ袋から、買ってきたおにぎりの数々とペットボトルの飲み物を取り出して並べると、太郎が「数、多くない?」と不審そうにことりの顔を見る。
「千円でこんなに買えないよね?」
「言ったでしょ」
ことりは澄ました顔で答えた。
「わたしのぶんもあるの。自分のぶんは自分で買った、それだけよ?」
「……」
「でも、もし余っちゃったら、太郎ちゃんに食べるの手伝ってもらおうかな」
ことりがどれだけたくさん食べたとしても、太郎と違って人並みの量である。
それにしてはやはり数が多いのは明らかだ。
普段、太郎がお小遣いの大半を本代に注ぎ込んでいるのはことりも既に知っていた。
その太郎が、どんな事情があるにせよ、千円ものお金を食べ物に使おうとするからには、ここで待つことにはきっと大きな意味があるのだろう。
ことりはそう確信していた。
だから、買えるだけ買ったとしてもまだとても足りないであろう太郎のおにぎりに、ことりもお小遣いからささやかだが協力を申し出た。
そういうことなのだ。
「……ありがとう」
太郎は静かにことりに頭を下げた。
二人で並んでおにぎりを食べながら、太郎が今回のいきさつをぽつぽつとことりに説明した。
先生の忘れ物を取りに戻った教室で、怯える藤木にいきなり声をかけられ、悩み相談をされたこと。
その場で断わったら連絡先を渡されたこと。
なぜか直接顔を突き合せて相談を受けるはめになったこと。
話が思ったより深刻なストーカーの悩みであったこと。
そして二人で行ったファーストフード店の外に、ほんとうにストーカーが来ていたこと。
店を出たところで藤木がナンパされそうになって逃げ出したこと。
藤木と別れたあとで、そのストーカーの顔を確認したこと。
「え、そんなので顔写真撮れちゃったの?」
「うん。ほらこれ」
太郎が「今日は土曜日だから、かまわないよね」と普段なら学校には持ち込めない自分の携帯端末を取り出し、はじめに撮ったストーカーの顔写真をことりに見せた。
「え、うそ。これって……?」
「そう、生徒役の俳優の一人、崎田さん」
「やだ……信じられない……」
「ぼくも信じられなかったよ。ものすごくびっくりした」
顔写真を撮り、気配を識別できるようになっても、相手が誰なのかまではわからない。
だから、役者が全員揃うと言ったその中に、まさにストーカー本人が並ぶなどとは思いも寄らなかったのだ。
昨日の朝にことりが見た「驚く太郎」は、ストーカーが壇上の役者として紹介されたことに対する驚きであったわけだった。
藤木がストーカーに悩まされていたというのにもびっくりしたが、そのアイドルから手渡されるプライベートな連絡先を受け取るのに、一度断わりかけたと聞いて、太郎ちゃんそれはあんまりにもアイドルに対して冷たい反応なのでは、とことりは藤木に同情した。
しかしその後、当のアイドルと二人きりでファーストフード店に入ったと聞いたのにはやきもきさせられたが、それがちっとも嬉しそうじゃないところも、太郎らしくてことりは少しほっとする。
またこれで、藤木が太郎の強さを知っていたことについても謎が解けた。
写真を見せたあと、しばらくは黙ったままおにぎりを食べていたが、ふと太郎がぽつりと言った。
「ストーカーが誰だかわかって、逆にぼくはどうしたらいいかわからなくなった」
「……どういうこと?」
ことりが尋ねる。
「ストーカーの正体がわかったことを、藤木さんに言うべきなのかどうか」
「どうして言っちゃダメなの?」
「うん……」
太郎は言葉を選びながら、ことりに理由を説明した。
「ストーカーが誰なのかこちらは気づいていて、相手にはその気づいていることを知られていない、っていうのは、かなり有利な立場だと思う。いまのところ、ぼくが既に崎田さんをストーカーだと知っている、とは考えられていないはずだから、この状態を変えたくなかった」
「なぜ変えたくないの?」
「パターンが読みやすいから」
「?」
「……崎田さん、少なくとも他人の目があるところでは、藤木さんに何か直接の行動を仕掛けてくる感じはなさそうだったんだよ。
もちろん、機械じゃないからいつも同じ行動パターンになるかどうかはわからないけど、たぶん崎田さんって、かなり慎重な性格じゃないのかな。チャンスさえ与えなければ、そう簡単に藤木さんが危害を加えられることはないと思った」
「うん」
「だけど、ストーカーの正体が藤木さん自身に知られたとなったら、やけになったり、強引にチャンスを作ろうとしたり、もっと思い切った行動に出てくる可能性がある。
これまでにないパターンの行動が出てくると、藤木さんが用心してても、なお危害を加えられるかもしれない」
「ん?」
ことりはふと浮かんだ疑問を口にする。
「太郎ちゃんがストーカーの正体を藤木さんに伝えたら、なんでそれが崎田さんにまでわかっちゃうの?」
「え?」
太郎が軽く驚いた感じでことりを見つめた。
「……ことりさんがストーカーに悩まされていたとして、すぐ近くの誰かがその正体だってわかったら、知る前と同じ態度でその人に接すること、できそう?」
「あー。なるほど」
ことりはようやく頷いた。
「崎田さんはずっと藤木さんを見てきたと思うから、ちょっとした態度の違いにも、敏感に変化を感じ取るんじゃないかな。
……腕相撲のとき、藤木さんの手がぼくと山王さんの手に触れたでしょ?」
勝負開始の合図のときだろう。ことりもそれは覚えている。
「あれだけのことで、崎田さんからぼくらにものすごい殺気が飛んで来たんだよ。びっくりしちゃった。
撮影のあいだ、藤木さんと崎田さんが同じ場所で接するチャンスの多い期間に、ばれたと知られて、崎田さんがやけになるようなことはさせたくなかった。だからせめてロケが終わるまでは……」
そこで太郎はふっと言葉を切った。
少し考えたあと、太郎は言い直す。
「ううん、違うな。……ぼくはきっと藤木さんに、ロケを無事最後まで終えて欲しかったんだと思う。ぼくの知らない、中学生なのにちゃんと大人に交じって仕事をするという世界で頑張ってる藤木さんが、はじめてチャレンジしたっていう映画だから。
ぼくがストーカーの正体を教えてしまうことで、途中でダメになって欲しくなかった。藤木さんが知ってしまったら、そのまま撮影を続けられるのかどうかもわからなかったし」
太郎がそこまで藤木への思い入れを口にするとは思わず、ことりはちょっと動揺していた。
「……で、でも、知らないままのほうが危ないことはないのかしら?」
ことりがあまり考えずにそう言うと、太郎は黙ってしまった。
「……太郎ちゃん?」
「わからない」
「え?」
「考えたけど、ぼくにも、ほんとにわからないんだ。ぼくは……何より藤木さんの安全のために、一番良い選択肢を採るべきだったのかもしれない。藤木さんの望みを叶えられなくなっても、そっちのほうが良かったのかもしれない。ぼくは……」
太郎が唇を噛みしめている。
「だからぼくは、せめて責任を取ろうと思って」
「せ、責任? 責任って、何の?」
急に不釣り合いな重い言葉が出てきたことで、ことりは仰天して訊き返す。
「うん。ぼくが、藤木さんに知らせないことを選んだ責任。崎田さんの正体を知らないままの藤木さんに対する責任、かな」
「……あ!」
(そ、そういうことだったの?)
そこでようやく、ことりはなぜ太郎がいまここにいるのかを理解した。
「まさか、藤木さんが無事に今日の撮影終えるまで、ここで見守っているつもり?」
ことりの質問に、太郎は黙って頷いた。
「え、ちょっと待って」
ことりはなおも疑問を口にする。
「明日! ううん、この先はどうするの? ロケって、今日で終わりじゃないよね? わたしたちのエキストラは今日までだけど、撮影はまだ続くって言ってなかった?」
重ねてことりに問われ、太郎は薄く笑った。
暗がりの中でだからか、ことりにはその笑みがつらそうにしか見えなかった。
「……ずっといる必要はないと思うんだ。やっぱり、暗くなってからが危ないんじゃないかな。でも、ぼくにできることはしなきゃって、思ってるよ」
「太郎ちゃん……」
太郎にどういう言葉をかけていいのかわからず、ことりは絶句した。
責任? どうしてここで、太郎に責任なんてものが生まれてしまうのか。
太郎に力があるから?
太郎だけが知り得たことがあるから?
太郎が藤木に伝えないと決めたから?
でももともと、太郎には何の関係もないことばかりではないか。
映画の撮影も、ストーカーも、藤木の願いも、太郎が何か責任を感じなくてはいけない理由など、ひとつもないはずだ。
なのに、どうして太郎は。
(こんなにも、つらそうにしてなきゃいけないの?)
「た……」
ことりが口を開こうとしたそのとき、いきなり顔色を変えて太郎が立ち上がった。その目は反対側の木造校舎の方を向いている。
「なに、どうしたの?」
ことりが尋ねても、太郎は視線を上げたままだ。焦った表情で「まずい」とつぶやくと、一瞬だけことりを見て言った。
「ごめん、ここで待ってて」
「ええっ?」
ことりの返事を聞く間もなく、次の瞬間には太郎が渡り廊下に向かって走り出していたのだった。
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