第59話
周囲を安心させるためにガードで受けた太郞であったが、それは同時にスターンに対しても大きなアピールになっていた。
やはり太郞は強い。
そして、スターンの全力を受け止めるだけの力がある。
そう理解されたようだった。スターンのギヤが一つ上がった。
フットワークを積極的に使い、スターンはがんがん前に出てくる。
あらゆる角度から多種多様なパンチを繰り出し、いちいち急所を的確に狙ってきていた。
太郞のような的の小さい相手は狙いが難しいだろうに、まったく拳に迷いが感じられない。
どれ一つを取ってみても、すべてが必殺の威力を秘めたフィニッシュブローである。
太郞はそれらひとつひとつを丁寧に対処していった。
全部躱そうと思えば躱せたが、そうはせずに見て覚えたボクシングの技術を駆使して応えた。
腕を使ったガードだけではなく肩で受けるショルダーガード、相手パンチを弾いて軌道を変えるパリングなどを実際に使ってみて、やはり接触のある防御は次の動作への入りがワンテンポ遅れるために、避けるほうが効率は良さそうだな、などと考えてみたりした。
そうして最初の30秒ほどは防御に徹したつもりであった。
しかしふと自分がいるところに気づいて、太郞は戦慄する。
(え、ここコーナー? いつ追い詰められたのぼく?)
何も知らなかった外山との喧嘩のときとは違う。
太郞も、避ける相手を追い込む技術については既に知識があったし、それに対する警戒もしていたつもりだった。
しかしそんな太郞の警戒などあっさりと食い破り、スターンはきれいに太郞をコーナーへ追い込んでいた。
やはり、ただ単に最も優れたボクシングの技術を身に付けたら、それで強いボクサーになるのかといえば、そんな簡単なものであるはずがなかった。
それを使いこなすことができて初めて対等になれるし、そこから新たなものを生み出してこそ、さらに上回ることができるのである。
(うーん、当たり前だけど、やっぱりチャンピオンってすごいんだな)
コーナーへ追い詰められたところで、躱す気になればすべてのパンチを躱しきることなど造作もない。
しかしこのまま続けても、スターンが満足するような試合にはなってくれないだろう。
追い詰めた太郞をいよいよラッシュで仕留めにかかろうと迫るスターンに対して、太郞は初めて自分から手を出してみることにした。
ただし、攻撃のときに何が困るかと言って、それはもうリーチの差に尽きる。
いくら技術をコピーし、スピードや力で上回ったとしても、体格の違いだけはどうにもならない。
パンチの射程距離に差がありすぎるのだ。
極端な話、スターンが手を伸ばして太郞の頭を押さえつけたら、太郞が手足をどれだけ振り回しても、相手にかすりもしなくなってしまう。
太郞はまず自分の手の届く距離まで、スターンに近付かねばならない。
やることは単純だ。
スターンのパンチの雨をかいくぐり、その懐に侵入するだけである。
向かってくるスターンに対して、太郞は自分も距離を詰めて踏み込んだ。
スターンは踏み込ませまいとパンチの回転を上げ、一発ごとの威力よりも弾幕のように太郞の進路を邪魔する効果を狙ってくる。
太郞にとってはそれでも躱すこと自体に苦労はない。
ただし逃げて躱すのよりも、踏み込んで躱すほうが使えるスペースが極端に減ることから、難度が増すのは間違いなかった。
しかしここでガードやパリングを使うと、足がちゃんと地面についていないときには踏ん張りが利かないために、太郞の体重では軸がずれたり、ひどいときには身体が浮いてしまう。
遠慮のないスピードで接近すれば問題なく近付けるのだけれど、これだけの見物人の前ではやりたくなかった。
(さて、どうしたものか)
太郞は考え、まずは躱すレベルをいまよりもっとぎりぎりにして、動きが小さく済むようにしてみた。
そうして躱しながら少しずつ距離を詰めるが、まだ手は届かない。
(……そうか、邪魔ならどけちゃえばいいのか)
次に思いついたのは、スターンの身体ではなく、腕を叩いてどけてしまえ、ということだった。
防御のパリングのイメージにとらわれていたが、パンチの目標として相手の手を攻撃してもいいのじゃないか、と考えたのだ。
ゴングが鳴って、約1分。
試合を観ている大多数のメンバーの予想を覆し、まだ太郞は生きてリングに立っていた。
それどころか、あのスターンに一度も有効打を許していない。
いまのところはスターンがかなり一方的に攻めていたし、現にコーナーへ追い詰めてもいたが、それでも太郞がいまにも仕留められる寸前、といった雰囲気はなかった。
素人目にも太郞がまだ攻勢に出ていない、様子見に近い状態であることはわかったのである。
はじめは残酷な殺人ショーの開幕で、いつ太郞が殺されてしまうのかとハラハラしながら見ていたものたちは、太郞がスターンのパンチに耐えるのを目撃して仰天し、さらにスターンに見劣りしない動きでちゃんと試合を続けていることに驚きを持って見つめ……いまや、二人の作り出す試合が、かつてスターンが戦ってきたどのタイトルマッチよりも高度な、おそらく近代のボクシングとして史上最高レベルの技術戦になっていることに気づいて、ただ見とれていた。
太郞のリーチではスターンに手が届かず、スターンが被弾するシーンこそないが、太郞もまたスターンからまともにもらったパンチは一発もない。
もしまともに受けてしまったら、それで試合も太郞の命も終わってしまうのではないか、という懸念はなくなっていなかったものの、太郞が果敢にスターンとの距離を詰め始めたことがわかると、次第に立会いメンバーはただの観客として、純粋に試合に熱中し始めた。
戸沢はリング下に用意された椅子に下りるつもりであったのが、リング上のロープ脇から動けなくなっていた。動くのを忘れるほどに、二人の試合に見入ってしまったのだった。
(ボクシングやったことないなんて……嘘ばっかり。こんな……こんな試合、いままで一度だって見たことないわよ!)
プロスポーツ選手の通訳を多くこなしてきたキャリアがあり、ボクシングの世界戦を間近に見たことも一度や二度ではない。
その戸沢にして、ここまで目を離せない試合はかつてなかったと断言できた。
やはり、起きていることを一番正確に把握できているのはホワイトヘッドで、それだけに彼には信じられないことの連続であった。
太郞がパンチを喰らわずリングにまだ立っていること、そしてその状態を維持するだけの高度なボクシング技術を見せていることは、奇跡的だとしてもとりあえず事実として呑み込んだ。
しかしどうしても信じがたかったのは、太郞のボクシングスタイルであった。
(これは……こいつは、クリスのコピーじゃないか!)
体格も年齢も人種も国籍も、すべて違う。
しかし、太郞の見せるボクシング技術は、まさにスターンそのものであると言えた。
それはずっとスターンを見てきたホワイトヘッドだからこそわかる、わずかな特徴までも含めて、見事な完全コピーであった。
(なんだ……なんなんだ、この少年は! おれは夢でも見ているのか……?)
もはやホワイトヘッドはレフェリーとしての立場もすっかり失念して、ただの観客としてリングの上にいた。
一瞬でも二人の攻防を見逃すまい、勝負の行方を見失うまいと、それだけを考え、彼は太郞とスターンを追った。
スターンは、太郞の雰囲気の変化を感じ取った。
コーナーに追い込んではみたものの、相変わらず有効打を取らせてもらえない。
相手の手が届かないためにこちらへの被弾はないが、まったく有利になった感触はなかった。
まだこの少年は本気でこちらに向かってきていないと感じていた。
この先がもっとある。
そう思うと、スターンは期待の大きさに鳥肌の立つ思いであった。
(このクリス・スターンが! 全力で1分間も攻め立てて、K.O.どころか一発もまともに当てることができないなどと! なんという少年か。なんという喜びか。これこそ私が求めていた敵だ。私のやりたかった戦いだ!)
そしてついに、太郞が攻撃に転じる決意をした、その変化がスターンにも伝わったのだった。
はじめに回避のマージンを削ってきたようだ。
明らかに、よりパンチに近いところをかいくぐって、間合いを詰めて来た。
しかしスターンも相手の意図を察し、さらに厳しく、高回転でパンチを繰り出しては、接近を阻止しようとする。そして……。
パァーン!
大きく破裂音がしたかと思うと、スターンの右手が身体の外側へ弾き出されていた。
(な……腕を叩かれた?)
ストレートの打ち終わり、引き戻す直前の右手を、内側から外へ向かって太郞のパンチが弾き飛ばしたのだ。
スターンには太郞のパンチがまったく予想できていなかった。
しかし起きていることを見る限り、そうとしか考えられない。
そして右手がいなくなったことで空いた空間に、太郞が一瞬で飛び込んでこようとする。
スターンは自分にできる最速をもってバックステップし、太郞と距離を取ろうとした。
ところが太郞の踏み込みはきっちりそれに追いついてきて、見る間にスターンが太郞の射程距離に入ってしまった。
太郞の左腕が大きく振られる。これはレバー狙いの左フックか。
ドン!
バックステップで稼いだわずかな時間に右手を戻し、辛うじてブロックしたその上からボディを叩かれた。
太郞のパンチがスターンを捉えたのである。
脇腹で、何か爆発でも起きたのかと思うような衝撃が弾ける。
ガードが間に合わなかったと勘違いするくらい、強烈な一撃であった。
「ぐはっ?」
足下の接地感が消える。
なんと、いまのパンチでスターンの両足が浮いていた。
(ばかな? 私のウェイトは、260ポンドはあるんだぞ? こ、こんな、100ポンドあるかないかの少年に……!)
そのまま横っ飛びに動いたスターンは、たたらを踏んで懸命に堪えようとしたが、耐えきれず無様に転がってしまった。
見ていた全員が、わっと言って立ち上がる。
ホワイトヘッドは、ぽかんとして立ち尽くした。
目の前には、横向きに転がるスターンと、少し離れて立つ小柄な少年。
その少年が、何か自分に向かって言っている。
だが見えていても何も聞こえない。
見ている光景の衝撃が大きすぎて、音がついてこないのだ。
ややあって、ふわりと幕が下りてくる感じでようやく周囲の音が戻ってきた。
「あのー、ダウンじゃないんでしょうか?」
倒れたスターンを指して、少年はそう言っているようだ。
「……ダウン。ああっ!」
ホワイトヘッドは、やっと自分の立場を思い出す。
「ニュ、ニュートラルコーナーへ!」
太郞にコーナーに下がって待つよう指示すると、スターンの元へ駆け寄った。
思わず「クリス、大丈夫か?」と声をかけてしまいそうになり、危うく呑み込んでカウントを始める。
「ワーン! トゥー!」
スターンにはちゃんと意識があった。
本人も、ダメージそのものより何が起こったのかを信じられなくて、動くのを忘れてしまっている、といった感じに見えた。
「ファーイブ!」
ようやくスターンの目に光が戻ってくる。
ホワイトヘッドの目を見て一度頷くと、カウントエイトまで待ってから立ち上がる。
スターンはホワイトヘッドにファイティングポーズを取って見せ、続行可能をアピールしてきた。
しかしその際、右腕を上げると痛みに表情が歪むのを、ホワイトヘッドは見逃さなかった。
(右肘あたりにかなりのダメージがあるな……しばらく右ではパンチが打てないかもしれない)
現役時代、スターンがここまで窮地に陥った試合は記憶にない。
初めてダウンを喫したときも、ダメージ自体は深刻なものではなかった。
ホワイトヘッドはスターンに頷くと数歩下がり、それからスターンと太郞に向かって試合の再開を告げた。
太郞はとりあえず作戦がうまく行ってほっとしていた。
ただ同時に、あそこでフックではなくストレートを放っていれば、右手が戻る前に当てられたかもしれないのに、ちょっと残念だったなぁとも考えていた。
(でも、収穫はあった!)
手加減のレベル感がひとつ把握できたからだ。
いまのフックくらいの力加減なら、スターンクラスの相手は壊れないと知れた。
これまでは、どうしても自分が振るったパンチを人間に当てていいという気がしなかったので、どれだけ手を抜いたらほどよい対人パンチが打てるのかわからなかったのだ。
下手に加減を間違えるとほんとうに相手を殺してしまうため、例えば昨日の街の不良たちにしても、さすがに実験台とするには気が引けた。
今回、相手が人類最強格のスターンで、しかもグローブ着用であったことから、これなら試せるのではないかと考えたのである。
(よし、いまのパンチ以下であれば、スターンさんを殺しちゃうことはなさそうだ)
太郞は手応えを感じてにんまりしたが、もちろん顔には出していない。
この場面で笑うと、きっと見ている人たちからあらぬ誤解を受けるに決まっているからだ。
それでなくとも昨今、とくに真理あたりには、妙に武闘派扱いされていて不本意なのだ。
お読みいただきありがとうございます。
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